清水良雄 | 襟裳屋Ameba館

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訳あってこちらにもブログらしきもの作らせていただきました。

日本童画家協会メンバーを続けます…。


清水 良雄 しみず よしお
1891(明治24)年8月4日
東京都文京区本郷 生

旧制京華中学校在学中より石川寅治の画塾に通う
1916(大正5)年 東京美術学校西洋画科卒業
在学二年の時文展初入選し、大正6年には特選となり、8年の帝展特選の後、無鑑査となる
1917(大正6)年 親友の丸尾彰三郎の紹介で鈴木三重吉の『黄金鳥』の表紙絵を描く
1918(大正7)年 鈴木三重吉が創刊した童話雑誌『赤い鳥』の表紙の絵や挿絵を創刊号から担当する
1927(昭和2)年 初山滋、武井武雄、川上四郎、岡本帰一、深沢省三、村山知義らとともに「日本童画家協会」結成
1931(昭和6)年 東京朝日新聞 長與善郎「この男を見よ」の挿絵を担当する
1936(昭和11)年 鈴木三重吉の死で「赤い鳥」廃刊
1945(昭和20)年 陸軍より依頼された戦争画作成のため、空襲をさけて広島県芦品郡戸手村(現・福山市)に疎開
終戦後も東京へは戻らず、「銀の鈴」「キンダーブック」や山本有三編集の「やまもとこくご」などの表紙絵や挿画を描き、光風会展に出展も続けるかたわら地方文化の向上につとめ、昭和25年には広島大学の講師を務めた

1953(昭和28)年1月29日没 61歳

日本童画家協会メンバーの中では語り残されている資料が少ない方ですが、健康のことや肉親との死別のなどもあるなかで「死」への向き合い方もあったりもして、多くの良質の子供のための絵を描きながら、自身は子供を持たなかったり、遺言で遺作展をやらないでくれと残していたりといったこともあって、あまり語られる機会がなかったのかもしれません。
そんな中でも、1981年「家庭科教育」に掲載された上笙一郎氏の「児童史の散歩道(22)「赤い鳥」の画家=清水良雄 」での清水良雄と京華中学時代から親友だった丸尾彰三郎氏からの聞き書や、1976年の「母の友」に掲載された弟子の甲斐信枝氏の「清水良雄先生を憶う」などは大事に残された資料です。
没後、良い絵を選んで他は焼き捨てられたというのも、画家の有り様の一面を垣間見られてちょっと切ない感動を覚えます。
広島市立中央図書館の広島文学資料室制作のアーカイブ「鈴木三重吉と『赤い鳥』の世界」では「赤い鳥」主催の鈴木三重吉紹介のアーカイブですが、清水良雄の描き続けた「赤い鳥」の表紙絵が見ることができます。