岡本帰一 | 襟裳屋Ameba館

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訳あってこちらにもブログらしきもの作らせていただきました。

日本童画家協会メンバー最後のお一人です。


岡本 帰一 おかもと きいち
1888(明治21)年6月12日
兵庫県淡路島 生

新聞社勤務の父が北海道毎日新聞を経て都新聞に移り、東京に転居
第一中学校在学中に父親の友人であった画家の寺崎広業に絵の素養を認められる
1906(明治39)年 中学校を卒業し、黒田清輝主宰の白馬会葵橋洋画研究所に入学
1912(大正元)年 斎藤与里、高村光太郎、岸田劉生、清宮彬らによって設立されたフュウザン会に創設メンバーとして参加、「第一回フュウザン展」を開催したことが黒田清輝の逆鱗に触れ、白馬会葵橋洋画研究所を破門となる
1914(大正3)年 結婚し、転居先の裏に楠山正雄が住んでいた縁で、楠山の依頼で翌大正4年冨山房「模範家庭文庫」の一冊である『アラビヤンナイト』の装丁・挿絵を担当
1919(大正8)年 童話雑誌「金の船」(後に「金の星」)創刊より表紙・挿絵を担当
1920(大正9)年 舞台「青い鳥」の舞台美術・衣裳・照明を担当し、高い評価を得る
1922(大正11)年 絵雑誌「コドモノクニ」に第2号より絵画主任として関わり、「子供之友」にも執筆を始める
1927(昭和2)年 初山滋、武井武雄、川上四郎、深沢省三、村山知義、清水良雄とともに日本童画家協会結成に参加
「日本児童文庫」「小学生全集」などに多くの童画を描く

1930(昭和5)年12月29日没 42歳

以前より何度か取り上げさせてもらった日本童画家協会メンバーの集合写真に写っていない七人目の方ですが、写っていないということは、岡本帰一が撮影したのかなぁ…と勝手に想像しています。
…そんな空想はともかく、この項も2001年に河出書房新社から刊行された竹迫祐子氏構成のらんぶの本「岡本帰一」にがっつりと頼っております。
この方も昭和5年に42歳の若さで早逝され、他のメンバーからの回顧的な話も舞台「青い鳥」の活動に村山知義が感化されたといった記述以外はあまり見つけることができません。
…もっと丁寧に探せばあるのかなぁ…。ネットでいわゆる『ポートレート』とされている横顔の写真も見られますが、やっぱり正面の方が…と思ってこちらの画像にしてみました。
まぁ、とにかく、これでなんやかんやでやっと99人目です。