闘病記とは無関係だけど私の人生にとっては大事な記録ともいえる
過去の記事の投稿。
以前書いたものを加筆、訂正して載せています。


今日は私の大好きなミラン・クンデラの『存在の耐えられない軽さ』の
小説、映画の話。
昨日一日でこの小説を読んだ、最後に読んだのはもう10年以上前かもしれない。
これから思ったことを適当に緩く書こうと思うが
(解説や解釈などはいろいろ出てるだろうから、あえてそういうのは書かない)
千野栄一氏の訳が素晴らしいこと!
もちろんわたくしは原書のチェコ語は読めないから比較したわけではないが、
洋魂洋才の結晶みたいなあの小説を見事なよどみのない日本語で訳すなんて、
ただただ感嘆。
ちなみに英訳版も持っているが……こちらも改めて読んでみようと思うので
読んだらまた感想でも書こうか。
まず俗っぽい感想、テレザみたいな女はわたくしはどうしても好きになれない。
控え目そうに見えてしたたかな、それでいて弱い、
何かにすがらないと(往々にして男に)生きられない女が。
で、皆様お察しの通り(?)、わたくしはサビナが好きなのだが、
多分好きな人多いだろうな。
ある時仏人の男(例のブーローニュに住んでた恋人じゃない)と
チャットをしてる時、
この小説の話になって、登場人物の中でだれが好きかと聞かれ、
サビナだと答えると、
「俺も。だって彼女、とても自由じゃないか」と。
<自由>が重いか軽いかというのは
この作品のテーマの1つでもあるのだがーー。
祖国を捨て、亡命先で愛人を作り、ヨーロッパ中を旅し、
その愛人が彼女のために妻と別れようとすると彼の前から消え、
別の国に行き、やがてはアメリカに移り住む。
彼女は生きたいようにしか生きられない女なのだ。
トマーシュとテレザは亡命するもテレザが一人で勝手にプラハに戻ったり
(もちろんトマーシュが追ってきてくれることを分かったうえでの行いである)、
トマーシュが共産党を非難する投書をしたせいで目をつけられ
外科医を辞めざるを得ない状況になり、
窓拭き職人になったりしたのち最後にはプラハから離れ農村で生活することになる。
「お前は帰るとこがない だからここにいる
俺は行くべきとこがない だからここにいる」
これは伝説的なパンクバンド、スターリン(!)の
『STOP GIRL』という曲の詩の一部である。
物語のはじめは
「帰るとこがない」テレサ、
「行くべきとこがない」トマーシュであったが
いつの間にかトマーシュも「帰るところがなく」なってゆく。
その流れが実に良い。
共に「ここにいる」ということは同じでも、
この「帰るとこがない」「行くべきとこがない」の違いの何たる大きなことか。
映画を先に観てから小説を読んだ人はトマーシュとテレザの死を
わずか3分の1ほど読んだところで知らされ面食らうかもしれない。
小説の方はパリにいるサビナに2人の死を知らせる手紙が届く場面が
あっさりと書かれているが、
映画の方では随分ドラマチックに描かれている。
サビナはどこか、夕日が広々としている大地に沈んでいくところのアトリエで
絵を描いている。
そこがアメリカであることの推測は郵便配達人の言葉で確証に変わる
「ヨーロッパから手紙です」。
それを読んで呆然とし親友の死を知らせる手紙だったことを
アトリエを借りている老夫婦に
伝えたときの彼らの優しさ……「よければ夕食にいらっしゃい」
べただけどやっぱりジーンとくるシーンだ。
しかし2人の死はなんかずるいよ、禁じ手と言ってもいい。
少なくともテレザは幸せだったろう、
何度もよその女と情事を繰り返して彼女を苦しませた
トマーシュがついに永遠に自分のものになったのだから。
そういえば、以前やっていたHPのゲストブックに
嬉しい書き込みをもらったことがある。
面識のない方からで、文体からたぶん女性だと思う。
偶然にわたくしのHPを見つけ、文章に引き込まれて、
あちこち読んでいるうちに
「映画の役を演じるならどの映画の誰がいいですか?」という質問に
『存在の耐えられない軽さ』のサビナだと私が答えているのを見て、
たまらなくなってつい書き込みをしてしまった、とのことだった。
ちなみにこの写真はわたくしが16年前(!)にプラハに行ったとき撮ったものだ。
下の青い手書きの文字、写りが悪くてよく見えないかもしれないけどロシア語、
キリル文字であることはわかるかな。
ソ連が侵攻してきたとき、プラハの人々は通りの名を示す標識やらなにやら
全部取り払ったのだ、
ソ連軍に対する抵抗として、彼らが容易に進んで入ってこれないように。
だけどそれは無駄なことであった、この看板こそがその痕跡、
ロシア兵が書いた「スミショフ(プラハの一地区)はあちら」と示した看板である。
過去の記事の投稿。
以前書いたものを加筆、訂正して載せています。
今日は私の大好きなミラン・クンデラの『存在の耐えられない軽さ』の
小説、映画の話。
昨日一日でこの小説を読んだ、最後に読んだのはもう10年以上前かもしれない。
これから思ったことを適当に緩く書こうと思うが
(解説や解釈などはいろいろ出てるだろうから、あえてそういうのは書かない)
千野栄一氏の訳が素晴らしいこと!
もちろんわたくしは原書のチェコ語は読めないから比較したわけではないが、
洋魂洋才の結晶みたいなあの小説を見事なよどみのない日本語で訳すなんて、
ただただ感嘆。
ちなみに英訳版も持っているが……こちらも改めて読んでみようと思うので
読んだらまた感想でも書こうか。
まず俗っぽい感想、テレザみたいな女はわたくしはどうしても好きになれない。
控え目そうに見えてしたたかな、それでいて弱い、
何かにすがらないと(往々にして男に)生きられない女が。
で、皆様お察しの通り(?)、わたくしはサビナが好きなのだが、
多分好きな人多いだろうな。
ある時仏人の男(例のブーローニュに住んでた恋人じゃない)と
チャットをしてる時、
この小説の話になって、登場人物の中でだれが好きかと聞かれ、
サビナだと答えると、
「俺も。だって彼女、とても自由じゃないか」と。
<自由>が重いか軽いかというのは
この作品のテーマの1つでもあるのだがーー。
祖国を捨て、亡命先で愛人を作り、ヨーロッパ中を旅し、
その愛人が彼女のために妻と別れようとすると彼の前から消え、
別の国に行き、やがてはアメリカに移り住む。
彼女は生きたいようにしか生きられない女なのだ。
トマーシュとテレザは亡命するもテレザが一人で勝手にプラハに戻ったり
(もちろんトマーシュが追ってきてくれることを分かったうえでの行いである)、
トマーシュが共産党を非難する投書をしたせいで目をつけられ
外科医を辞めざるを得ない状況になり、
窓拭き職人になったりしたのち最後にはプラハから離れ農村で生活することになる。
「お前は帰るとこがない だからここにいる
俺は行くべきとこがない だからここにいる」
これは伝説的なパンクバンド、スターリン(!)の
『STOP GIRL』という曲の詩の一部である。
物語のはじめは
「帰るとこがない」テレサ、
「行くべきとこがない」トマーシュであったが
いつの間にかトマーシュも「帰るところがなく」なってゆく。
その流れが実に良い。
共に「ここにいる」ということは同じでも、
この「帰るとこがない」「行くべきとこがない」の違いの何たる大きなことか。
映画を先に観てから小説を読んだ人はトマーシュとテレザの死を
わずか3分の1ほど読んだところで知らされ面食らうかもしれない。
小説の方はパリにいるサビナに2人の死を知らせる手紙が届く場面が
あっさりと書かれているが、
映画の方では随分ドラマチックに描かれている。
サビナはどこか、夕日が広々としている大地に沈んでいくところのアトリエで
絵を描いている。
そこがアメリカであることの推測は郵便配達人の言葉で確証に変わる
「ヨーロッパから手紙です」。
それを読んで呆然とし親友の死を知らせる手紙だったことを
アトリエを借りている老夫婦に
伝えたときの彼らの優しさ……「よければ夕食にいらっしゃい」
べただけどやっぱりジーンとくるシーンだ。
しかし2人の死はなんかずるいよ、禁じ手と言ってもいい。
少なくともテレザは幸せだったろう、
何度もよその女と情事を繰り返して彼女を苦しませた
トマーシュがついに永遠に自分のものになったのだから。
そういえば、以前やっていたHPのゲストブックに
嬉しい書き込みをもらったことがある。
面識のない方からで、文体からたぶん女性だと思う。
偶然にわたくしのHPを見つけ、文章に引き込まれて、
あちこち読んでいるうちに
「映画の役を演じるならどの映画の誰がいいですか?」という質問に
『存在の耐えられない軽さ』のサビナだと私が答えているのを見て、
たまらなくなってつい書き込みをしてしまった、とのことだった。
ちなみにこの写真はわたくしが16年前(!)にプラハに行ったとき撮ったものだ。
下の青い手書きの文字、写りが悪くてよく見えないかもしれないけどロシア語、
キリル文字であることはわかるかな。
ソ連が侵攻してきたとき、プラハの人々は通りの名を示す標識やらなにやら
全部取り払ったのだ、
ソ連軍に対する抵抗として、彼らが容易に進んで入ってこれないように。
だけどそれは無駄なことであった、この看板こそがその痕跡、
ロシア兵が書いた「スミショフ(プラハの一地区)はあちら」と示した看板である。
