ブログのタイトル、何のブログか分かるようなものにした方が
よいのは分かっているのだが、あまり気が進まない。
今は闘病記がメインになってしまっているけれど、
毒親、機能不全家庭についてがベースだしなぁ。
キャッチーなタイトルの方がアクセスが見込めるのは承知なんだけどもねぇ。
でもかといって現在のタイトルが特別気に入ってるわけでもないので
(何故このタイトルにしたかはブログをはじめた頃の記事で書いた通りだが)、
前にも書いたように、昔やっていて現在は事実上閉鎖中のHPとブログの
タイトルを引き継ぐことにする。
なんていうか、「幸せな家族」どころか「普通の家族」さえもわたしには
御伽噺のように見える。
それこそ「白馬の王子様?そんなのいるわけないでしょ?」というくらい
非現実的な存在なの、本当に。
子供の頃から家族の良い思い出なんてほぼないし、
家族全員で出かけた記憶は、小学生の頃いとこの家に
毎年正月に行っていたことくらいだ。
「親が病院に付き添ってくれる」
「兄弟が手術日に駆けつけてくれる」
「配偶者が医師の説明に同席してくれる」
「家族が病気について調べてくれる」
こういうことは御伽噺の登場人物やストーリーの一部ではなく
普通の一般的な家族の一こまなんですよね
(何度も言うけれど・・・皆それぞれ深くて細かい個々の事情があって
いくら「一般的」な様相を示していても他人には分からない
あれやこれがあるのは承知しております・・・)?
親や親類に無理を言ったり必要以上に頼ったりしてはいけないなと悩んだり
心を痛めたりという経験とはわたしは無縁だけれど
今生では本当に家族というものに縁がない人生だったと言わざるを得ない
(無論、家族は病気のときや老いたときに面倒をみてもらうために
存在しているわけではないのは分かっている。
けど普通の家族にならある、普通の喜びや悲しみを経験してみたかった。
へんな言い方だけれど・・・
病めるときも健やかなるときも「家族」っていうのをね・・・)。
これからどういう運命が待ち受けているか分からないけど、
病気のことがなくとも、何かのために頑張るぞ、
誰かのために生きなきゃっていうのがない今のわたしのようなダメ人間は
効くか効かないか、やってみなきゃわからないような
つらい治療をしなければならないと言われたら一体どうしたらよいのだろう。
先日の『自由』というタイトルの記事で書いたように
家族や仕事や何者にも縛られていない、自分のことは自分で決められる
(「決められる」、ということは「決めねばならぬ」ということと同義だ)
ってのは良いことでもあり悩みの種でもある。
やらないと命の保障はない、けど成功するかどうかは・・・みたいな選択を
迫られたとき、こんなわたしは一体どう答えるのだろう。
命は助かっても重篤な後遺症が出て生活の質が著しく落ちる場合は?
その場合、これから何十年か、
そんな身体で自分ひとり食べていけるだけのお金を稼げるだろうか?
それにただ食べるためだけに働いて生きるってのは
昔からわたしが拒否していた生き方だ。
文化的な生き方とは疎遠になり、
心豊かに生きようとする身体と精神の余裕もない生活!
とてもじゃないが耐えられない。
しかしそんなわたしでも身体も精神も衰えてきたらそんな殊勝なこと(?)は
言わなくなってただただ生にしがみついたりするようになるのだろうか?
こんなわたしでも、遣り残したと思ってること、
やりたいことがいくつかあって
誰も後のことを頼める者がいない以上、
動けるうちに全て終えておきたいのだ。
それができなくなるほど身体も精神も頭脳も弱るような治療はしたくない。
よいのは分かっているのだが、あまり気が進まない。
今は闘病記がメインになってしまっているけれど、
毒親、機能不全家庭についてがベースだしなぁ。
キャッチーなタイトルの方がアクセスが見込めるのは承知なんだけどもねぇ。
でもかといって現在のタイトルが特別気に入ってるわけでもないので
(何故このタイトルにしたかはブログをはじめた頃の記事で書いた通りだが)、
前にも書いたように、昔やっていて現在は事実上閉鎖中のHPとブログの
タイトルを引き継ぐことにする。
なんていうか、「幸せな家族」どころか「普通の家族」さえもわたしには
御伽噺のように見える。
それこそ「白馬の王子様?そんなのいるわけないでしょ?」というくらい
非現実的な存在なの、本当に。
子供の頃から家族の良い思い出なんてほぼないし、
家族全員で出かけた記憶は、小学生の頃いとこの家に
毎年正月に行っていたことくらいだ。
「親が病院に付き添ってくれる」
「兄弟が手術日に駆けつけてくれる」
「配偶者が医師の説明に同席してくれる」
「家族が病気について調べてくれる」
こういうことは御伽噺の登場人物やストーリーの一部ではなく
普通の一般的な家族の一こまなんですよね
(何度も言うけれど・・・皆それぞれ深くて細かい個々の事情があって
いくら「一般的」な様相を示していても他人には分からない
あれやこれがあるのは承知しております・・・)?
親や親類に無理を言ったり必要以上に頼ったりしてはいけないなと悩んだり
心を痛めたりという経験とはわたしは無縁だけれど
今生では本当に家族というものに縁がない人生だったと言わざるを得ない
(無論、家族は病気のときや老いたときに面倒をみてもらうために
存在しているわけではないのは分かっている。
けど普通の家族にならある、普通の喜びや悲しみを経験してみたかった。
へんな言い方だけれど・・・
病めるときも健やかなるときも「家族」っていうのをね・・・)。
これからどういう運命が待ち受けているか分からないけど、
病気のことがなくとも、何かのために頑張るぞ、
誰かのために生きなきゃっていうのがない今のわたしのようなダメ人間は
効くか効かないか、やってみなきゃわからないような
つらい治療をしなければならないと言われたら一体どうしたらよいのだろう。
先日の『自由』というタイトルの記事で書いたように
家族や仕事や何者にも縛られていない、自分のことは自分で決められる
(「決められる」、ということは「決めねばならぬ」ということと同義だ)
ってのは良いことでもあり悩みの種でもある。
やらないと命の保障はない、けど成功するかどうかは・・・みたいな選択を
迫られたとき、こんなわたしは一体どう答えるのだろう。
命は助かっても重篤な後遺症が出て生活の質が著しく落ちる場合は?
その場合、これから何十年か、
そんな身体で自分ひとり食べていけるだけのお金を稼げるだろうか?
それにただ食べるためだけに働いて生きるってのは
昔からわたしが拒否していた生き方だ。
文化的な生き方とは疎遠になり、
心豊かに生きようとする身体と精神の余裕もない生活!
とてもじゃないが耐えられない。
しかしそんなわたしでも身体も精神も衰えてきたらそんな殊勝なこと(?)は
言わなくなってただただ生にしがみついたりするようになるのだろうか?
こんなわたしでも、遣り残したと思ってること、
やりたいことがいくつかあって
誰も後のことを頼める者がいない以上、
動けるうちに全て終えておきたいのだ。
それができなくなるほど身体も精神も頭脳も弱るような治療はしたくない。