『独眼竜政宗』第49回「母恋い」 | のぼこの庵

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大河ドラマの史上最高傑作『独眼竜政宗』(1987⇒2014再放送)と近年の最高峰『平清盛』(2012)の感想です。
ついでに『江~姫たちの戦国~』(2011)、『八重の桜』(2013)、『軍師官兵衛』(2014)、『花燃ゆ』(2015)の感想も。
あとは爺放談?

お東の方を忘れていました。
成実のトリは後にも先にも前回だけだったのですね。

今回の秀逸・見どころは何と言ってもお東と御佐子の老け演技です。

老けメイクではなく老け演技。

 

お東と御佐子が身を寄せている山形の最上家は、義光の孫の代になってお家騒動のため幕府から改易を申し渡されます。

 

江戸の伊達屋敷

 

政宗「成実に折り入って頼みがある」

伊達成実「ほぉ、嬉しいことを仰せじゃ」

政宗「取り急ぎ仙台へ立ち戻り出陣の支度をしてはくれまいか」

成実「えぇ、出陣じゃと」

片倉子十郎「合戦にござりまするか」

政宗「或いは合戦となるやも知れず」

成実「して何処へ」

政宗「幕府の名代として山形城を召し上げることになった」

成実「!」

政宗「最上家はついに改易となった」

成実「…」

茂庭綱元「なんと」

政宗「幕府の取り調べで全てが明るみに出たのだ」

綱元「やはり、義俊殿の不行状にござりまするか」

政宗「そればかりではない。家親の非業の死以来最上家中は麻の如く乱れておる」

成実「哀れと言うも愚かなり。義光殿は十万億土で嘆いておろうぞ」

子十郎「それにしてもむざむざと五十八万石を棒に振るとは…」

政宗「人ごとではない!以て他山の石とせねばならん。幕府につけ込まれぬよう諸大名は身を慎まねばならん」

成実「それにしても皮肉な巡り合わせよ。山形城の召し上げを伊達家にご下命とはな」

 

山形城

 

お東「成実か?」

成実「はぁ、御尊顔を拝し奉り恐悦至極に存じまする」

お東「苦しゅうない、面を上げい」

成実「はぁ」

お東「成実も歳を取ったのぉ」

成実「光陰矢の如しと申しまする」

お東「政宗もそのように老けたのか?」

成実「殊の外お若うござりまする」

御佐子「それはそれは」

成実「不躾ながら保春院様も頗るお健やかとお見受け致します。誠にお目出度く存じまする」

お東「ほほほ、政宗に孫ができたそうじゃのぉ」

成実「はい、宇和島の秀宗殿がご長男仙松殿、ご次男伊予松殿をもうけられました。保春院様のご曾孫にあたりまする」

お東「祝着じゃ」

成実「早速ながら殿の御書状にはお目を通して頂けましたでしょうか」

お東「読むことは読んだ」

成実「かたじけのう存じまする」

お東「政宗に申せ、今少し大きな字を書くようにと」

成実「はぁ」

お東「寄る年波ですっかり目が遠くなってのぉ」

成実「承知仕りました」

お東「…役目、大儀であった」

 

山形城召し上げの使者である成実に対し、穏やかに対応するお東。成実もやや安堵したのではないでしょうか。

ところが、

 

成実「恐れ入りまする。して、仙台入りの儀は如何様になされましょうか」

お東「仙台入り?」

御佐子「殿は仙台へ保春院様をお迎え致したいと、斯様に仰せでござりまする」

お東「何故(なにゆえ)じゃ?」

御佐子「…」

 

肝心な所が伝わっていなかった?

 

成実「畏れながら、最上家は改易と相成りましたればご身上を伊達家にてお引き取り致したいと」

お東「…断る」

御佐子「…」

成実「…は?」

お東「政宗に申すがよい、心得違いを致すでないと」

成実「はて、心得違いとは」

お東「私は最上義光の妹として当主義俊の大叔母じゃ。お家が取り潰しになったからとてこの地を棄てるわけにはいかん」

成実「畏れながら所領を没収されましては、城も屋敷も召し上げられる次第」

お東「存じておる!草深い田舎に庵を結んで余生を送ればそれでよい」

御佐子「…」

成実「お立場のほど重々お察し申し上げます。されどご生母に孝養を尽くしたいと乞い願う我が殿の切なる願いもお分かり下さいませ」

お東「孝養とは片腹痛い」

成実「は?」

お東「政宗は将軍のお気に入りと言うではないか。天下に睨みを利かせる副将軍の力を以てすれば最上家の滅亡を食い止めることができたはずじゃ。然るに何ら成すことなく幕府の手先として城を召し上げに参るとは情けない」

成実「…はは、幕府の手先とはご無体な仰せられよう。些か合点致しかねまする」

お東「母を想う心が真であれば、先ず将軍を説き伏せ最上家の改易を差し止めるのが筋ではないのか?」

成実「畏れながら今は太平の御代にござりますれば将軍といえども御政道を歪めることは憚られまする。まして天下の御意見番たる我が殿が幕府の仕置きに横槍を入れるは甚だ以て宜しからざる仕儀かと存じまする」

お東「最上を見殺しにして何ら恥ずる所は無いと申すのか」

 

最終回では、仙台でお東がこの言葉を直接政宗にぶつけ、政宗は「(言われるまでもなく)幕府の要人に掛け合ったが旨くいかなかった」ことを伝え、お東も諦めざるを得なくなるのですが、山形では成実に同行した若い伊達家臣がいらんことを言います。

 

家臣A「畏れながら最上家のお取り潰しは止むを得ざる仕儀にござります」

お東「止むを得ざる仕儀?」

家臣A「有り体に申せば自業自得、御家中の内紛が招いた不始末かと存じまする。それを見殺しと仰せられては殿の立つ瀬はございますまい」

お東「…」

御佐子「…」

家臣B「仙台には既にお屋敷を用意致しておりまする。伊達家中を挙げあらん限りの歓迎を致す所存にござりますれば、何卒、何卒お聞き入れ賜りますよう切に願い上げます」

 

「悪いのはお前なんだから言うことを聞け」は正論ではあっても人の心に響かないばかりか頑なにさせてしまいます。相手が年寄りならばなおのこと。そう言わなければならない場合もあるでしょうが、今はそのときではなかった。

 

お東「今からでも遅くない。政宗にしかと申せ、幕府にからくりして僅かなりとも堪忍分の所領を残し最上家の身上が立つようにせよと」

成実「最早手遅れにござりまする。仕置きを覆すは最上川を逆さに流すよりも難しゅうござりまする」

 

成実は政宗が行った幕府への工作を知っていたでしょうが、自分の口からは言えません。辛い立場です。

 

お東「ええぃ頼み甲斐のない有象無象じゃ。かくなる上はたとえ野に朽ち果てようとも伊達家の世話にはならぬ」

成実「…」

お東「(離席)」

御佐子「あ…あ…」

成実「お待ちくださりませ。保春院様、呉々もご短慮なきよう」

お東「…政宗に申せ」

成実「は」

お東「書状は大きな字で書けと」

 

最上家の手前、伊達家の世話にはならぬと強がっても、政宗との連絡ルートまで絶たせたくはない。お東も辛い立場でしょう。

 

このやりとりの間、御佐子の、お東の本心を映し出したような顔芸や、「庵を、何処に結ぶのでござりますかぁ…」には吹き出しながらも目頭が熱くなりました。

正に一心同体。お東と別れるなんてこれっぽっちも思っていないのですね。

終生女主人に仕えた忠義者の御佐子は侍女の鑑です。

次回、お東から手渡された政宗の和歌を詠む仕草も必見。
国分盛重とともに最優秀助演演技賞を贈りたいと思います。

さて、とうとう最終回を残すのみとなった『独眼竜政宗』。
30年経ってもなお色あせない大河ドラマの素晴らしさと可能性の大きさを堪能させてくれました。

大河ドラマは死なず。

そうであってほしい。そうでなくてはならぬ。

※最上氏(もがみし)は、清和源氏の足利氏の支流である。三管領の一つ斯波氏の分家にあたる。室町幕府の羽州探題を世襲できる家柄で、のち出羽国の戦国大名として成長した。1590年(天正18年)に覇業を推し進める豊臣秀吉の小田原征伐を機に臣従して本領を安堵され、山形城を居城にして24万石を領する。関ヶ原の戦いの際は東軍に与し、西軍の雄である上杉景勝の侵攻を退けた(慶長出羽合戦)。戦後にその恩賞で加増され、計57万石(実高は100万石とも称する)を領する大大名になる。江戸時代に入ると、最上義光の後継をめぐって争いが起き、長子の義康の暗殺事件が起こる。以降も家中の内紛はやまず、義光の孫義俊の代には最上騒動が起こった。義俊は家中の信望を失っており1622年(元和8年)、最上氏は騒動を理由に幕命により改易されることとなった。宗家の斯波武衛家が滅亡していたので、斯波氏の流れを汲む最上氏は断絶を惜しまれ、近江国蒲生郡に1万石の知行を改めて与えられた。しかし義俊の死後、子の義智が幼少であったために5000石に減知され(参勤交代等で財政が逼迫し、藩からの願いもあった)、子孫は旗本交代寄合として存続した。義光の四男山野辺義忠は最終的には水戸藩の家老に抜擢され、子孫は附家老中山氏に次ぐ重臣として藩政に重きをなした。また、義光の甥にあたる松根光広の子孫は宇和島藩の家老家として続き、幕末には伊達宗城を補佐した松根図書が出ている。夏目漱石の弟子で俳人の松根東洋城は図書の孫である。(Wikipediaより)