『独眼竜政宗』第41回「海外雄飛」感想 | のぼこの庵

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大河ドラマの史上最高傑作『独眼竜政宗』(1987⇒2014再放送)と近年の最高峰『平清盛』(2012)の感想です。
ついでに『江~姫たちの戦国~』(2011)、『八重の桜』(2013)、『軍師官兵衛』(2014)、『花燃ゆ』(2015)の感想も。
あとは爺放談?

ナレーション「当時、カトリック系のスペイン・ポルトガルを南蛮と呼び、プロテスタント系のイギリス・オランダを紅毛と呼んだ。南蛮と紅毛は貿易摩擦と宗教上の対立で極めて仲が悪かった。1543年、まずポルトガル人が日本に上陸。日本はこの南蛮人と呼ばれた人々を通して西洋を知った。最も強い国はスペインだというのが常識となった。1600年、半世紀遅れてやって来たオランダ船は南蛮紅毛の対立を日本に持ち込んだ。紅毛人は家康に南蛮人のカトリック布教は侵略の手段だと吹き込み、スペインの無敵艦隊がイギリスに敗れ去った事を暴露した。歴史的に見てこの敗北こそスペイン・ポルトガル衰退の始まりであった。時に1613年。大いなる野望を抱いてスペイン使節の派遣を目論む政宗はまだこの巨大な時代のうねりを知らない」

いや、政宗ばかりではなく家康や江戸幕府にしても、グローバルな情報は限定的だったでしょう。

その少ない情報をどう読んでどう動くか?

今回は政宗と家康の壮大な(悪)知恵比べが描かれました。

江戸伊達屋敷へ

伊達成実「一大事にござる。浅草の南蛮寺で三十人余りの吉利支丹伴天連が召し捕られました。驚くなかれその中にソテロも混じっておりまするぞ」
政宗「何じゃと」
成実「江戸町奉行の手入れにござる」
政宗「馬引けぇ!」


先ずは将軍のお膝元でキリスト教への牽制が始まりました。

江戸城

柳生宗矩「その上吉利支丹は病人の弱味に突け込んで無理矢理改宗を強いるなど傍若無人の振る舞いが目立ちまする。従って江戸での布教は一切ご法度と相成りましょう」
政宗「所払いでござるか」
宗矩「いや、江戸町奉行は一人残らず磔と申しておりまする」
政宗「それは困る」
徳川家康「…」
政宗「恐れながら、政宗は吉利支丹を庇う所存など毛頭ござりませぬ。されど皆殺しにすれば信者の殉教熱はますます高まり幕府の思惑は裏目に出る恐れありと推察つかまつりまする。あるいはイスパニアが大軍を率いて襲来致す恐れすらござりましょう」
家康「降りかかる火の粉は払わねばならぬ」
政宗「なれば、船に乗せて送り帰しては如何でござりましょうか。送り帰すだけではござりませぬ。我が国の使節を乗せローマ法王と直談判に及び交易と布教の取り決めを致しますれば大いに利をもたらして余りあるものと推察つかまつりまする」
家康「そちの船は何人乗れる」
政宗「百五十人は間違いなく」
宗矩「百五十人」
家康「して出帆の日取りは?」
政宗「お許しがござりますれば来月の末にも出しとうござりまする」
家康「…」
政宗「さればお慈悲を以て吉利支丹に所払いをお命じ下さりませ。もし叶わずばルイス・ソテロだけでも取り急ぎ釈放なされますようお取りなし願い上げまする」
宗矩「ソテロは吉利支丹の頭目でござる」
政宗「さればこそ乗せなければならん」
家康「…」
政宗「南蛮国への案内人はソテロを置いて他には見当たりませぬ」
家康「肝心の使節には誰を遣わす」
政宗「恐れながら、伏して言上つかまつりまする。何卒松平忠輝殿をお遣わし願い上げとう存じまする」
家康「忠輝を?」
政宗「御意にござりまする。仮にも上様の御子息が使節の全権と相成りますれば自ずから先方も礼を尽くして迎えるに相違ござりませぬ。しかも忠輝殿は天主教の信者にござりまする」
家康「その儀まかりならぬ」
政宗「曲げてお聞き入れ下さりませ」
家康「…」
宗矩「…」
政宗「忠輝殿は些か短慮にして暴れ者の異名を取ってはおりまするが、政宗の見るところ知力胆力ともに優れ端倪すべからざる見識を備えた未完の大器にござりまする。怪しげな連判状に名を名を連ねたぐらいでお家お取り潰しの憂き目に逢いむざむざと朽ち果てるはまことに惜しい人物かと心得まする」
家康「…」
政宗「願わくば罪一等を減じ満々たる野心を海の彼方に向けさせてこそ恰好のご差配かと拝察つかまつりまする」


多分家康はここで政宗の野心を読んだ、あるいは野心があったとしても先手を取って火を消す策を思いついたのでしょう。

家康「連判状とは何の事じゃ」
政宗「!」
宗矩「!」
家康「わしは見た事も聞いた事もない。松平の家を誰が取り潰すと申した」


政宗の方は果たして家康の心中をどれだけ読めていたのか?
よくわからないままとりあえず忠輝が助かるのならと家康に合わせただけなのかもしれません。

政宗「…いや…ご無礼の段まことに申し訳ござりませぬ。政宗生来の粗忽者にござりますれば」
家康「…婿殿は安泰じゃ。嫁もな。ははは」
政宗「有り難き幸せにござりまする」
宗矩「…」
家康「南蛮使節には伊達の家臣を遣わすがよい」
政宗「は?」
家康「あまり身分の高くない者を選べ」
政宗「?」
家康「使節に不首尾不都合が生じた折りには言い逃れができるようにな」
政宗「言い逃れと申しますと」
家康「使節の儀、日本国将軍は預かり知らぬ事である。大義であった」
政宗「承知つかまつりました」


政宗は処刑寸前のソテロを助け仙台へ連れ戻りました。
仙台城

政宗「常長、近う」
支倉常長「は」
政宗「わざわざ召し出したのは余の儀にあらず、そちの出立にあたり別して政宗の真意を打ち明けておかねばならん。これより申す事、些かの相違なくイスパニア王フィリッペに伝えるべし。それまでは決して口外してはならん。ソテロにもじゃ」
常長「…」
政宗「先ず、日本国はエゲレスとオランダの紅毛人が上陸し遠からず占領に及ばんと致しておる。イスパニアは皆殺しにされエゲレスとオランダの天下と相成るは必定と申せ」
常長「承りました」
政宗「イスパニア王もしこれを怒り紅毛人の野望を打ち砕かんと欲するならば直ちに艦隊を日本国に差し向けるべし」
成実「!なんと」
片倉小十郎「…」
常長「…」
政宗「イスパニア王来たれば奥州王伊達政宗これを大坂の港に率いれキリシタン大名らと相呼応して紅毛人を駆逐せんとするものなり」
成実「ははは、これは驚いた。殿はしぶとい。油断も隙もならぬ御仁じゃ」
小十郎「卒爾ながら、イスパニアの艦隊は壊滅致したと聞きましたが」
政宗「それは紅毛人のもの言いじゃ。あてにはならん」
小十郎「もし艦隊が来なければ如何なされまするか」
政宗「来なければ致し方あるまい。その時はその時じゃ」
小十郎「…なるほど、どちらに転んでも腹は痛みませぬな」
成実「良い夢を見たと思えばそれだけ得ではないか、ははは」
常長「恐れながら」
政宗「ん?」
常長「仰せの儀は書状にしたためて下さるのでござりましょうか」
政宗「さに非ず。通詞を立て直々に言上致すべし」
常長「承知致しました」
政宗「書状は蒲生で懲りた」
成実「鶺鴒の眼でござるか」
政宗「はははは」
成実「はははは」
小十郎「ははは」
常長「?」


これは通説通りですね。

ナレーション「慶長十八年九月十五日、サンファンバウティスタ号は180人の乗組員と政宗の見果てぬ夢を乗せて月ノ浦を出帆した」

そして、慶長十九年一月十九日、最上義光が六十九歳でこの世を去ります。
長らくの悪役と汚れ役、ご苦労さまでした。

成実「とうとう死んだか」
小十郎「お悔やみ申し上げまする」
政宗「大御所が密かに伊達家の取り潰しを図っておるそうな」
成実「は?」
政宗「義光の遺言じゃ」
成実「埒もない。最後の最後まで我らを謀る所存か」
小十郎「ご臨終の戯言では?」
政宗「そうとは言いきれまい。わしが家康ならやはり同じことを考える。凡そ政宗ほど目障りな奴はおらんからな」
成実「ははは、御自らの仰せとあらば間違いない」
小十郎「事の真偽はともかく用心するに如くはござりませぬ」
政宗「楽しみだな。家康が如何なる策略を巡らすか」


気づいた時には遅かった。

鈴木重信「重信にござりまする」
政宗「ん」
成実「どうした」
重信「江戸屋敷より早馬が到着。口上によりますれば幕府が吉利支丹の禁令を発布致した由にござりまする」
成実「吉利支丹の禁令?」
重信「全国津々浦々に至るまで一切の布教はご法度、これに従わぬ者は信者であろうと南蛮人であろうと容赦なく罰せられます」
小十郎「全国津々浦々だと。仙台領もか」
重信「仰せのとおり」
政宗「…やられた。せっかくの南蛮船はどうなるのだ。支倉常長は帰って来れんではないか」
成実「大御所に裏をかかれましたな」
小十郎「伊達家に船を造らせてエスパニアに遣わしローマ法王に近づけた上でその絆を根元からばっさり」
政宗「おのれ、初手からの計略か」


ナレーション「家康はついにキリスト教の全面禁止に踏み切った。大勢の信者を捕縛した上、厳しい弾圧の手を全国に広げていったのである」

というわけで今回の(悪)知恵比べは家康に軍配が上がりました。

でもまだまだ、
これくらいで徳川に臣従するつもりは全くない、
義光伯父さんの遺言もものかは、
やり返す気満々の政宗なのでした。

※支倉常長(はせくらつねなが)は、安土桃山時代から江戸時代初期にかけての武将。伊達氏の家臣。通称六右衛門。慶長遣欧使節団を率いてヨーロッパまで渡航し、ローマでは貴族に列せられた。洗礼名はドン・フィリッポ・フランシスコ。元亀2年(1571年)、山口常成の子として羽州置賜郡(山形県米沢市)に生まれる。伯父支倉時正の養子となるも時正に実子が生まれたため、伊達政宗の主命で家禄1200石を二分し600石取りとなる。文禄・慶長の役に従軍して朝鮮に渡海、足軽・鉄砲組頭として活躍した。また大崎・葛西一揆の鎮圧にもあたった。伊達政宗は遣欧使節の派遣にあたり、エスパーニャ(スペイン)人のフランシスコ会宣教師ルイス・ソテロを副使、常長を正使とした。使節は180人から組織され、エスパーニャを経由してローマに赴くことになった。遣欧の目的は通商交渉とされているが、エスパーニャとの軍事同盟によって伊達政宗が倒幕を行おうとした説もある。慶長17年(1612年)、常長は第一回目の使節としてサン・セバスチャン号でソテロとともに浦賀より出航するも、暴風に遭い座礁し遭難。再度仙台へ戻り、現・石巻市雄勝町で建造したガレオン船サン・ファン・バウティスタ号で慶長18年9月15日(1613年10月28日)に月ノ浦(現・石巻市)を出帆した。なお、短期間に洋式船を建造していることから、最初に座礁したサン・セバスチャン号を譲り受けて修理し、サン・ファン・バウティスタ号として出航させたのではないか、とする説もある。常長らの一行はアカプルコ(メキシコ)において北アメリカ大陸に上陸を果たすと陸路で大西洋岸のベラクルス(メキシコ)に移動して大西洋を渡り、コリア・デル・リオ(スペイン)に上陸した。慶長20年1月2日(1615年1月30日)にはエスパーニャ国王フェリペ3世に謁見している。その後、イベリア半島から陸路でローマに至り、元和元年9月12日(1615年11月3日)にはローマ教皇パウルス5世に謁見した。また、その後もマドリードに戻ってフェリペ3世との交渉を続けている。常長とソテロは使節の大部分の人々を帰国させた後も、国王の返書を得るためにセビリアに留まり、交渉を続けた。しかし、元和3年(1617年)、返書を得ることもなくヨーロッパを離れ、フィリピンのマニラに2年間滞在したあと、元和6年8月24日(1620年9月20日)に帰国した。月ノ浦を出航してから7年の月日が過ぎていた。はるばるローマまで往復した常長であったが、その交渉は成功せず、そればかりか帰国時には日本ではすでに禁教令が出されていた。そして、2年後に失意のうちに死去した。幕府の厳しい禁教政策のもと、常長が持ち帰った品々は息子常頼の代に藩に没収され厳重に保管された。慶長遣欧使節の存在は忘れ去られていたが、明治6年(1873年)に明治政府がヨーロッパとアメリカに派遣した岩倉具視らの使節によって、訪問先のイタリア(ヴェネツィア)で常長の書状が発見され、ようやく彼らの業績が認められるようになった。(Wikipediaより)