『独眼竜政宗』第39回「五郎八、嫁ぐ」感想 | のぼこの庵

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大河ドラマの史上最高傑作『独眼竜政宗』(1987⇒2014再放送)と近年の最高峰『平清盛』(2012)の感想です。
ついでに『江~姫たちの戦国~』(2011)、『八重の桜』(2013)、『軍師官兵衛』(2014)、『花燃ゆ』(2015)の感想も。
あとは爺放談?

今回はサブタイトルのとおり、五郎八姫の嫁入りを中心にエピソードが組み立てられました。

沢口五郎八と真田忠輝が初登場。
二人とも初々しいこと。
そして、若いのに台詞回しが上手いこと。
比べたくはありませんが、今どきの大河ドラマの「変にナチュラルな」あるいは「感情表現が泣くか怒鳴るかの」セリフまわしとは全然違います。

さて一方で今回は、これまで政宗を支えて来た人々が次々と老い、或いは去って行きました。

最上義康暗殺の顛末における最上義光の老けメークはまるで妖怪変化のよう。
家臣の讒言で嫡男を殺す浅はかな老人となり果てた演技も鬼気迫るものがありました。

留守政景「殿、かえり見れば長いような短いような日々でござりました。今日の殿のお姿を大殿がご覧になれば何と仰せられましょうな。…御免」

常に政宗の後見役として戦乱の時代を共に過ごした留守政景は慶長十二年、居城のある一関に立ち返って生涯の幕を閉じました。
第一回から長らくの伊達家奉公、お疲れさまでした。

ナレーション「政宗は、ほぼ一年毎に江戸と仙台を往復した。江戸では精力的に儀礼交際や外交に努め、仙台では国造りとその経営に没頭した。仙台では百姓を苛めて評判の悪かった矢代兵衛が追放され、経済に詳しい鈴木重信が総奉行に任命された」

おそらく矢代兵衛は仙台築城のために農民から無理矢理年貢を絞り取っていたのでしょう。
岩出山城代の時代も朝鮮出兵のために鬼となって重税を取り立てていた兵衛。
言わば政宗のせいでずっと悪役になり続けた存在でした。
長らく重責を担って来たのに追放とは、まことにお気の毒です。

政宗「南蛮渡来の妙薬じゃ。これを飲んでゆっくりと養生致すがよい」
大内定綱「有り難き幸せに存じまする。思うに、定綱ほど運の良い男はござりませぬ」
政宗「運が良いとな」
定綱「さればでござる、かつては殿のお命を狙い弓矢に及んだ不埒者が格別のお計らいにて家臣にお加え下さり、此度は畏れ多くも御自らお見舞いを賜るとは」
政宗「そちはよう働いた。礼を申すぞ」
定綱「お言葉、かたじけのう存じまする。これこそ武士の冥利と心得まする」
政宗「何か俺に言いたいことはないか」
定綱「伊達家は居心地が良うござった。殿は定綱の誇りでござった」
政宗「…」
定綱「過ぎ去りし日の光景が夢に現に走馬灯のように去来致しまする。殿も我らも若うござりました。さりながら…」
政宗「ん?」
定綱「不肖定綱つらつら思んみるに、無理を通す時勢は既に過ぎ去りました。徳川殿の天下ともなれば、すべからく道理を以て立ち向かわねばなりませぬ。…老婆心ながら一言」
政宗「相分かった」


政宗と戦って軍門に下り、後には一族に列せられた前沢城主大内定綱は慶長十五年二月、六十五歳で江戸に客死しました。
長塚政景の死から三年後、寺田ムスカ定綱も旅立ちました。
このとき政宗四十四歳。
自らの老いをも感じ始めていたことでしょう。

ナレーション「続いて政宗の傳役であった喜多が小十郎の所領である白石で病死した。さらに政宗の恩師虎哉宗乙和尚が仙台の覚範寺で大往生を遂げた」

喜多の死は慶長十五年 享年七十三歳。虎哉は同十六年、八十二歳。それぞれの最期は描かずとも、ナレーションと縁側で座禅を組む政宗の姿を映し出すだけで、政宗の心情とともに時の移ろいを視聴者に伝えています。
比べたくはありませんが、本当に最近の大河ドラマとは何もかもが違い過ぎます。

※松平忠輝(まつだいらただてる)は、天正20年(1592年)1月4日、徳川家康の六男として江戸城で誕生した。幼名は辰千代。生母・茶阿局の身分が低かったため、下野栃木(長沼)城主皆川広照に預けられた。慶長4年(1599年)1月、長沢松平氏の家督を相続し、武蔵国深谷1万石を与えられた。慶長7年(1602年)12月、下総国佐倉5万石に加増移封され、元服して上総介忠輝を名乗る。慶長8年(1603年)2月、信濃国川中島12万石に加増移封。慶長10年(1605年)、秀忠の将軍と秀頼の右大臣就任の際、家康の命令で大坂の豊臣秀頼に面会している。慶長11年(1606年)、伊達政宗の長女・五郎八(いろは)姫と結婚した。慶長15年(1610年)、越後高田藩主(福島城主)となり、川中島12万石と併せて合計75万石の太守に任ぜられた。慶長19年(1614年)、高田城を築城しこれに移った。高田城は幕命により忠輝の義父である伊達政宗をはじめとした13家の大名の助役で築造されたものである。同年の大坂冬の陣では留守居役を命じられる。慶長20年(1615年)の大坂夏の陣で大坂に出陣した。元和2年(1616年)4月、父家康が死去。同年7月6日、忠輝は兄秀忠から改易を命じられ、伊勢国朝熊に流罪とされた。元和4年(1618年)には飛騨国高山に、寛永3年(1626年)には信濃国諏訪に流された。そして天和3年(1683年)7月3日、幽閉先である諏訪高島城(南の丸)にて死去した。92歳。忠輝は次兄の結城秀康と同じように、父家康から生涯を通じて嫌われた。その理由は、忠輝同様に母親の身分が低かった秀康とほぼ重なるが、とりわけ忠輝については、その容貌を嫌ったという記録が多い。一方、家康との仲は実は埋まっていたという説もある。それが野風の笛の逸話である。この笛は、織田信長→豊臣秀吉→家康と渡り歩いた物とされており、その天下人の象徴である笛を、家康は茶阿局を通して忠輝に渡したと言われている。(Wikipediaより)