『独眼竜政宗』第37回「幻の百万石」感想 | のぼこの庵

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大河ドラマの史上最高傑作『独眼竜政宗』(1987⇒2014再放送)と近年の最高峰『平清盛』(2012)の感想です。
ついでに『江~姫たちの戦国~』(2011)、『八重の桜』(2013)、『軍師官兵衛』(2014)、『花燃ゆ』(2015)の感想も。
あとは爺放談?

伊達勢が参戦していない関ヶ原の合戦はアバンタイトルで片が着きました。
しかし、早朝から昼までは一進一退だったとのこと。小早川秀秋の裏切りがなかったらどうなっていたかわからなかったのが、よくわかりました。
このあまりにも早い決着は豊臣家にとっても伊達家にとっても意外だったようです。

大坂城

大野治長「大野治長でござります」
淀君「苦しゅうない」
治長「関ヶ原の合戦において西の軍勢が大敗を喫しました」
淀「何?」
治長「三成殿以下諸将は散り散りばらばらと相成り国許へ逃げ帰った由にござりまする」
淀「…」
治長「程なく徳川殿は大坂へ乗り込んで参りましょう。毛利輝元殿は早くも西の丸を明け渡す支度を致しております」
淀「家康の勝手にはさせぬ」
治長「は?」
淀「太閤のご遺言により天下を賜ったのは秀頼じゃ。戦に勝ったからとて家康に思い上がりがあれば断じて許さぬ」
治長「仰せの儀はごもっともにござります。されど徳川殿の権勢は今や何人たりとも遮ること能わず、朝廷の覚えもことのほか目出度からんかと存じまする」
淀「えぇ口惜しや、三成の不甲斐なさはどうじゃ」
治長「何卒ご辛抱あそばしませ。ここでご不興を露になされますれば若君の身辺も危うくなりましょう」
淀「聞きとうない。秀頼への不忠は太閤殿下への不忠じゃ」


未だ徳川勢の大勝利を知らぬ政宗は本隊を伊達郡に向けて上杉勢と戦っていました。

政宗の陣幕内

政宗に呼び出されたのであろう国分盛重が虚勢を張りながらやって来ます。

国分盛重「ご機嫌如何でござるかな。ははは、ご無沙汰仕った」
政宗「…」
盛重「湯原城は如何相成りましたか」
片倉小十郎「綱元殿が攻め落としました」
盛重「おぉそうかそりゃ重畳じゃ。で最上どうじゃ、持ちこたえておるのか」
鈴木重信「政景殿が支えております」
盛重「そうかそうかそうかそうか、いやいやいやいや」
政宗「盛重、そこへ直れ」
盛重「(聞こえないふり)」
政宗「直れ!」
盛重「はっ」


盛重はいつもの軽口で場を取り繕おうとしますが今回ばかりは政宗の虫の居所が悪かった。

政宗「なぜ国分の軍勢を出さん」
盛重「出しております」
政宗「百や二百で出したと言えるか」
盛重「後詰めは追い追いと」
政宗「黙れ!」
盛重「!」
政宗「そちはかねてから政宗の申しつけを軽んじ岩出山への出仕を怠けておったと聞いておる」
盛重「誰がそのような讒言を」
重信「某でござる」
盛重「おのれ!この成り上がり者が!」
小十郎「お控えめされよ盛重殿」
政宗「盛重は伊達一門にして政宗の叔父なれど器量著しく劣り国分の軍勢を率いることもできぬ」
盛重「心外な事を承る。ご下命あらば二千や三千の兵を引き連れ戦場へ馳せ参じましょうぞ」
政宗「その言葉に偽りはないな」
盛重「決して」


墓穴を掘りました。

政宗「(立ち上がり盛重に近づく)」
盛重「(ビクッ)」
政宗「ならば三日待とう」
盛重「(ホッ)」
政宗「申し条に些かなりとも相違あらば切腹を申しつける」
盛重「!えっ」


政宗らが陣幕を出たあと取り残されたイッセー盛重。
さぁ、一人芝居「戦国生活カタログ」の開演です。

盛重「…叔父だぞわしゃ。…政宗ごとき、若造が、切腹など、戯けたことを申すな。…甥が叔父を切腹させるというのは反対じゃないか。片腹痛いわ。…切腹したら片腹どころではない。…こら切腹!違う、政宗!どうしてわしを国分へやった!(ビクビク)…わし一人が一番損しとるわ。…二千人だと?は、は、無理な相談でござるわ。五百も動かん。…そこでやっぱり切腹か。…どうか御勘弁を。勘弁ならん、バサッ、バサーあぁ…南無八幡大菩薩。…死にとうないわぁ。死にとうないわぃ。…どうする盛重、どうする盛重」

どうする盛重?
で、出した結論が饅頭の食い逃げとは、偉い。小物の鑑です。

盛重「…この政宗が、この政宗が、政宗が」

最後っ屁の饅頭つぶてがなんと三発とも政宗の三日月兜に命中。お見事。
饅頭をくわえて逃げる盛重に、見張り番二人がお疲れ様でしたとばかりにお辞儀をするのもおかしかった。

ナレーション「国分盛重はこのまま逐電した。常陸の佐竹義宣を頼って行ったと伝えられている」

名将ならぬ名優イッセー盛重、これで退場かと思いきや、シリーズ終盤でもう一度出番があります。
楽しみに待ちましょう。

さて、関ヶ原の回にあたり、主人公と豊臣秀吉それぞれの奥方二人により「女たちの戦国」が語られました。

北政所の隠居所

愛姫「身に余るお計らいを賜り危難を免れました」
北政所「全ては神仏のご加護じゃ。私の手柄ではありませぬ」
愛姫「いえ、三成殿は、徳川方の人質をことごとく討ち果たすべしと下知なされた由にござります」
北政所「存じておりましたか」
愛姫「はい。伊達家は危うく世継ぎを失うところでございました」
北政所「戦は殿方同士ですればよい。女子供を人質にし危害を加えるとはいつもながら浅ましい限り」
愛姫「戦ほど悲しいものはござりませぬ。必ず多くの民が殺められどちらかが滅びます。なぜに殿方は戦を求めるのでござりましょうか」
北政所「それが男の業であろう」
愛姫「男の業?」
北政所「男はみな見栄を張る。相手を倒して己れの力量を誇りたがる。お家のために潔く死ぬことを部門の誉れともてはやす」
愛姫「その男を産むのは女(おなご)でござります」
北政所「…」


愛姫、子を産めなかった寧々さん相手なのに、つい口が滑ったか。

愛姫「世継ぎを産んで育てればまた新しい戦を起こすことになります」
北政所「…そうかもしれぬ。しかしそうでないかもしれぬ」
愛姫「?」


八千草寧々さんは泰然と構え直します。

北政所「まことに優れた器量の持ち主ならば、戦をせずに世の中を治めよう。いつかそのような武将が現れるかもしれぬ(ニコッ)」

子を成せなかった寧々さんだからこそ、秀吉亡きあと秀頼以外の天下人を認める度量が備わったのでしょうか。
いずれにせよ、北政所と呼ばれるほどの女性を演ずるにはこれくらいの貫禄と品格が欲しいですよね。

北政所「せめて虎菊丸殿に願いを託して大切に育てるがよい」
愛姫「お言葉ありがたく承りました」
北政所「…」


愛姫は最後まで自分の無礼に気づかなかったようです。

一方、伊吹山に逃れていた石田三成は田中吉政に捕らえられ京へ送られました。

田中吉政「さぞかしご無念にござりましょう」
石田三成「いや、一向に悔やんではおらん。そもそも秀頼公の御為に害を除き太閤殿下の御恩に報い奉る所存ではあったが、武運拙く敗れたるは致し方なし」
吉政「流石はご立派なお覚悟」
三成「…湯を一杯所望致したい」
吉政「承知致しました。只今支度をさせまする。もし宜しければ干し柿などは如何でございましょう。喉の渇きを癒すには一番の」
三成「干し柿は良くない。痰の毒じゃ」
吉政「…」
三成「さぞ可笑しかろうの、これから首をはねられる者が体の心配とは。されど卑しくも武士たる者、死の間際まで本懐を遂げんと志し命を大切にせねばならぬ」


有名な干し柿エピソードです。
『葵 徳川三代』では、江守三成がつい言っちゃったみたいな演出でしたが、『独眼竜政宗』は正攻法。
「命大切」もこの場面でこの人が言うから共感できるのです。無闇矢鱈と上から垂れ流すのはいけませんね。

ナレーション「慶長五年十月一日、石田三成は洛中引き回しの上六条河原にて斬首の刑に処せられた。四十一歳であった」

不気味なクールさを貫いた奥田三成、お疲れ様でした。

以下はおまけ。

前回、政宗のもとに帰参した成実でしたが、その際の弁は言わば公式見解でした。
今回は政宗と二人きりで本心を語り合います

政宗「寂しくないか成実」
伊達成実「は?」
政宗「家族も係累もなく暮らす日々はさぞ虚しかろう」
成実「ははは、心配ご無用。成実如き無粋者には妻も子も似合い申さん」
政宗「そうは申しても、祖先を供養し家を守るためには子孫を残さねばなるまい」
成実「…」
政宗「実は今、小十郎に命じて成実の妻に相応しい娘を探しておる」
成実「その儀は平に」
政宗「最上義光を見たか。駒姫を殺され奥方も自害して果て、さぞや無念と悔恨の思いに打ちひしがれたのであろう」
成実「…」
政宗「お前には遠慮して言わなかったが、俺にももの狂おしい日々があった。伏見の愛や五郎八、虎菊、秀宗らが襲われ落命した夢に幾度かうなされた。もし殺されていれば、俺は鬼となって三成を引っ捕らえ鱠(なます)の如く切り刻んだであろう。どうだ成実、お前も俺を恨み、一時は復讐に及ばんと決意したのではあるまいか」
成実「確かに恨み申した。俺と同じ苦しみを殿に味わせたいと望んだ。敵方に身を投じて伊達家を討ち滅ぼさんと心に誓うたこともある」
政宗「…」
成実「だが、考えてみれば殿とて痛恨の不祥事を重ねて来られた。父君を目の前で討たれ、ご舎弟を自ら斬り、涙を飲んで母君を追い払われた」
政宗「…」
成実「戦国の武将たる者、身辺の些事に便便と拘(こだわ)っていてはならん。殿のご器量に肖(あやか)らねばならん」
政宗「…許せ成実。…だが妻は娶(めと)った方がよい」
成実「…お心遣いかたじけのうござる。しかし憚りながら、この成実の妻は…登勢をおいては他にござりませぬ(ポッ)」
政宗「…本心も知らず要らざる気遣いをしたようだ」
成実「殿には別して無心の儀がござる」
政宗「何なりと申せ」
成実「さればでござる。成実が齢を重ね隠居致す折りには、ははは、世継ぎとして殿の若子(わこ)を一人頂戴したい」
政宗「俺の子を?」
成実「いかにも」
政宗「んー…よかろう、煮て食おうと焼いて食おうと存分に致せ」
成実「有り難き幸せにござる」
政宗「はははは」
成実「はははは」


のちに成実の養嗣子となる伊達宗実は、政宗の九男でした。、

※和賀忠親(わがただちか 1576年-1601年)は戦国時代の武将、和賀氏の当主。和賀氏は陸奥国和賀郡(現岩手県北上市周辺)を支配していた国人領主だが、天正18年(1590年)の小田原征伐に参陣せず名代だけを派遣したことから豊臣秀吉の怒りを買って改易された。その後、伊達政宗を頼って伊達領の胆沢郡に住んでいた。慶長5年(1600年)、領地拡大の野望を燃やす政宗の密命を受けて、旧領を回復しようと和賀郡を支配していた南部利直の領地に攻め込み花巻城(鳥屋ヶ崎城)を急襲したが、北信愛と利直の反撃を受けて失敗する。逃げ延びた和賀忠親は、近臣とともに陸奥国分尼寺で自害した(政宗により暗殺されたとも)。そのほか、伊達家のために切腹を願い出たという記録もある。この事件が原因で、伊達政宗は関ヶ原の戦いの際に徳川家康から約束されていた100万石のお墨付きを反故にされたと言われている。(Wikipediaより)