『独眼竜政宗』第35回「成実失踪」感想 | のぼこの庵

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大河ドラマの史上最高傑作『独眼竜政宗』(1987⇒2014再放送)と近年の最高峰『平清盛』(2012)の感想です。
ついでに『江~姫たちの戦国~』(2011)、『八重の桜』(2013)、『軍師官兵衛』(2014)、『花燃ゆ』(2015)の感想も。
あとは爺放談?

二年前に出奔した伊達成実の居場所がわかり、政宗は直ちに使者を飛ばしました。
しかし成実は頑として帰参の勧告に応じません。
伊達家中のいざこざをいつまでもそのままにしておけず、政宗は最後の使者として片倉小十郎を遣わしました。

相州・糟屋

伊達成実「左門は元気か」
片倉小十郎「ははは、毎日木刀を振り回しておりまする」
成実「ははは」
小十郎「側聞致す所によれば徳川殿が旗本に召し抱えたいと仰せられた由」
成実「ああ、しつこく言うて来たが断った」
小十郎「流石は成実じゃと殿もことのほかお喜びでござった」
成実「侍が嫌になっただけだ」
小十郎「仰せご尤も」
成実「騙されんぞ。俺には言いたい事が山ほどあろう」
小十郎「それはまたゆるゆると」
成実「ははは」


小十郎は成実の百姓家に泊まり込み、翌日は薪割りを手伝います。
その晩、

成実「小十郎、お主は何のために働いて参った」
小十郎「…」
成実「俺はな、伊達の棟梁を奥州の王に、天下の王にするべく働いて来たつもりだ。そのためには鬼となって敵を撫で斬りにもしたし、逃げようとした味方の兵を成敗もした」
小十郎「それは小十郎とて同じでございまする。太閤殿下亡き今、天下は大きく動き出そうとしておりまする。殿は天下人たらんとする気概を決してお忘れではござりませぬぞ」
成実「茶坊主の真似をしてか。その相手が秀吉から家康に代わっただけではないか」
小十郎「…」
成実「侍たるものは生死を賭けた戦によってこそ天下を窺(うかが)うべきものであろう。勝てばよし、敗れてもまたよし。古いも新しいもない」


以前政宗に「成実は古い」と言われた事を気にしているようです。

成実「少なくとも俺にはそのような生き方しか解らん。いや、解りたくないと言った方がよいかもしれぬ」

実は全て解っている。しかし自分の生き方を変えたくない。生き方を変える自分を許したくない。
どこまでも頑固な成実でした。

小十郎「…ただ、殿には伊達家を守らなければならぬという御使命がござりまする。殿におかれましては」
成実「もうよい…もうよい小十郎」
小十郎「…」
成実「俺はな、政宗殿を見限ったのだ」
小十郎「…」
成実「…」
小十郎「成実殿、小十郎は最後の使者にござりまする」
成実「承知しておる」
小十郎「もしご帰参なくば殿は角田の城を召し上げると仰せでござりまする」
成実「存分に致せ」
小十郎「…」
成実「小十郎、役目大儀であった。これを履いて行け」
小十郎「…無念至極にござりまする」


自分を貫き通しては主君の意に叛く。だから身を引く。
しかし、成実は出家するのではなく百姓を選びました。
つまり、今後事がある時にはいつでも戦場に出られる道を残していたのですね。

伏見の伊達屋敷

政宗「…」
小十郎「…」
大内定綱「…」
留守政景「…」
政宗「相わかった」
政景「是非もない仕儀にござる」
小十郎「何卒ご決断の程を」
政景「この期に及んで躊躇なされては家中に示しが着きませぬ」
定綱「?お待ち下され。成実殿を討つのでござりまするか」
小十郎「戯けた事を申すな」
政景「逐電と見なして城を召し上げるのだ」
定綱「やれやれ」


八百人を撫で斬りにされた定綱ならではの疑問でした。

政宗「…角田城は石川昭光にとらせる」

それだけ言って、政宗は退室してしまいます。

角田城の受け渡しには岩出山から矢代兵衛の軍勢が赴きました。
矢代兵衛は政宗の上洛中領主代行として伊達家中を束ねる重責があります。当然規律の乱れは厳格に取り締まらねばならない立場でした。

角田城

矢代兵衛「上意により城を受け取りに参った。一同神妙に退去すべし」
登勢「此処は伊達成実が居城じゃ。主命にあらざれば立ち退きなどもってのほか」
兵衛「主命とは片腹痛し。成実は出奔した」
登勢「出奔しても主人は主人」
兵衛「速やかに退去致さねば腕づくで召しとるがそれでもよいか」
羽田右馬助「待たれよ。某は留守居役の羽田右馬助にござりまする。わが殿の帰参まで今暫くのご猶予を」
兵衛「まかりならん」
右馬助「ご無体な」
兵衛「おのれ、陪臣の分際で直臣に歯向かう所存か」
登勢「下がれ!下がれ下がれ!如何に上意とは言えかかる理不尽は承服できぬ」
兵衛「ならば一人残らず討ち果たす!」
右馬助「お忘れか矢代殿、我等は合戦の都度その先陣を承った伊達成実の手勢なるぞ!そうむざむざと討たれはせぬ!」
兵衛「者ども、かかれー!」
兵「おー!」


相州

綿貫源吾「多勢に無勢なれば懸命の防戦虚しく落城」
成実「!…落城?落城だとぉ。…登勢はどうした!子供たちは!」


成実の正妻登勢は、もはやこれまでと二人の幼な子を道連れに自刃したのでした。

これを矢代兵衛の暴走と見るのは正しくありません。
彼は忠実に職責を果たしたのです。
問題があったとすれば政宗の指示です。
だから、知らせの文を読んだ政宗には、怒りではなく後悔の念が込み上げて来たのでした。

伏見

政宗「しまった…」
小十郎「?」
政宗「…」
小十郎「!何たる事を」
政宗「慮外者め。誰が妻子を討てと申した」
小十郎「殿!」
政宗「成実に詫びねばならん。何としてでも償わねばならん!」
小十郎「某は相州へ参りまする。御免」


しかし、成実はこの時既に相州を離れ行方知れずとなっていました。

成実の胸中は如何なる感情が渦巻いていたのでしょう。
矢代兵衛への怒りか、政宗への憎しみか。
それとも、政宗同様自責の念だったのでしょうか。

※角田城(かくだじょう)は陸奥国伊具郡(宮城県角田市)にあった城。永禄年間、伊達氏の家臣田手宗光が築城した。角田城を巡って伊達氏と相馬氏の争奪戦が繰り広げられたが、宗光は相馬氏と通じて反旗を翻した。伊達輝宗は後に角田城を奪還し、父と異なり伊達氏に従った宗光の子田手宗時が城主となった。しかし、天正10年(1582年)宗時は戦死。そのため同19年(1591年)には政宗の家臣伊達成実が二本松城より移ったが、文禄4年(1595年)成実は出奔し、城は政宗により接収を受けた。慶長3年(1598年)政宗の叔父・石川昭光が1万石を領し、石川氏が明治維新まで在住した。仙台藩における元和の一国一城令後の21要害の一つで、以後は角田要害と称した。金鶏館とも称した。(Wikipediaより)