『軍師官兵衛』第35回「秀吉のたくらみ」感想 | のぼこの庵

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大河ドラマの史上最高傑作『独眼竜政宗』(1987⇒2014再放送)と近年の最高峰『平清盛』(2012)の感想です。
ついでに『江~姫たちの戦国~』(2011)、『八重の桜』(2013)、『軍師官兵衛』(2014)、『花燃ゆ』(2015)の感想も。
あとは爺放談?

黒秀吉「抗う者あらば滅ぼすのみ」

まあ、これからですね、黒秀吉。
心配御無用をやっているうちは、まだまだ。

さて、

鬼庭(茂庭)綱元が二十余年を経て宇都宮鎮房と名を変え、
貫禄のついた台詞回しと、
起立した姿勢から手を着かずに胡座で座り、またそのまま立ち上がるという所作を
苦もなくやってのけたことだけで
(黒秀吉ですら、座る時も立ち上がる時も手をついています)
今回は視聴の甲斐がありました。

ところで善助さん、
九州武士が頑固者揃いなら、あなた方は主従揃って礼儀知らずですよ。
相手が座っているのに突っ立ったままとは。

もはや黒田ファミリーの無作法さは、殿様から侍女に至るまで、お家芸の域ですね。

※城井鎮房(きいしげふさ)は、戦国時代から安土桃山時代にかけての豊前国の戦国大名。城井氏第16代当主。城井谷城主。天文5年(1536年)、城井長房の子として誕生。はじめ、貞房を名乗った。大内義隆に属していたが、義隆が謀反で殺されると大友義鎮(後の宗麟)に服属。正室に義鎮の妹を娶り、義鎮から一字拝領し、鎮房と名を改めた。しかし、大友氏の勢力が衰退すると今度は薩摩国の島津義久に属するという巧みな処世術を見せている。天正15年(1587年)、秀吉は鎮房に伊予国への移封と、鎮房が所持する藤原定家の『小倉色紙』の引渡しを命じた。父祖伝来の地と家宝を守りたい鎮房はそれに反発。秀吉によって豊前6郡の領主となった黒田孝高と不穏な空気が流れることとなった。鎮房は一旦城井谷城を明け渡したが秀吉は頑として城井氏の本領安堵を拒否。鎮房は同年10月、城井谷城を急襲して奪回。籠城して豊臣軍を迎え撃つこととなった。地の利のある鎮房はゲリラ作戦により、攻撃してきた黒田長政が率いる豊臣軍を撃退。天険の要塞である城井谷城攻略に苦戦した孝高は付け城を築いて兵站を断つ持久戦をとり、他の国人勢力を攻め下していった。12月下旬、本領安堵と鎮房の13歳になる娘・鶴姫を人質とする事を条件に、鎮房は和議を受け入れた。しかし鎮房は、天正16年(1588年)4月20日、長政の招きにより中津城へ向かった折、孝高が長政に授けた謀略によって、わずかな共の者と城に入った酒宴の席で謀殺された。この際、庶子の空誉が住持を務める合元寺に留め置かれた家臣団も黒田勢との斬り合いの末、全員が討ち取られた。また鎮房の父・長房も、城井谷城に攻め寄せた黒田勢に殺害された。さらに嫡男の朝房は、一揆鎮圧のために黒田孝高と同行して出陣中であった肥後国で、その孝高に暗殺された。朝房の妻・竜子が逃げ延びて男子(宇都宮朝末)を産み、その孫の宇都宮信隆(高房)が越前松平家に召抱えられて、城井氏の血脈はかろうじて保たれた。また、鎮房の弟の弥次郎が島津家臣となり、そこで子孫を残している。(Wikipediaより)