『独眼竜政宗』第17回「宮仕え」感想 | のぼこの庵

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大河ドラマの史上最高傑作『独眼竜政宗』(1987⇒2014再放送)と近年の最高峰『平清盛』(2012)の感想です。
ついでに『江~姫たちの戦国~』(2011)、『八重の桜』(2013)、『軍師官兵衛』(2014)、『花燃ゆ』(2015)の感想も。
あとは爺放談?

以下、元小浜城主にして会津葦名家の四天王になり損ねた我らがムスカもとい大内定綱が、かつて敵対していた伊達家に自らを売り込み、目出度く就職が決まるまでの顛末です。

大内定綱「定綱でござる。このとおり頭を丸めて些か面体が変わり申した」
伊達成実「相変わらずの悪相じゃ。一向に見映えはせぬわ」
定綱「ははははは。いやはや、此度は米沢のお歴々に謁見を許され、かつまた申し開きの場を賜り恐悦至極に存じまする」
白石宗実「首を洗うて参ったか」
定綱「元より覚悟は致しておりまする」
宗実「その方の二枚舌には騙されぬぞ」
定綱「これはしたり。昨年より書状をもってご奉公致したいと申し上げておりまする」
成実「その舌の根の乾かぬうちに我らの所領に押し入ったではないか」
定綱「会津に奉公致しおる以上是非もないことでござった」
成実「黙りおろう!大崎表での敗戦を耳に致し、ここぞとばかり兵を進めたに相違ない!」
定綱「されば、葦名勢の命ずるまま伊達領南口の警備を偵察致したまででござる。政宗殿より良い返書を賜っておれば弓矢を交えることもなかった」
成実「無礼なり定綱!殿への恨みで合戦に及んだと申すのか!」
定綱「…」
片倉小十郎「成実殿、定綱の申し分を聞こうではござらぬか」
成実「…」
小十郎「右馬助、定綱に床几を遣わせ」
羽田右馬助「畏まりました」
定綱「いやいや、かたじけのうござる」
宗実「改めて訊ねるが、片平親綱はなぜ参らぬ」
定綱「まことに申し訳ござらぬ。弟とは仲違いを致しました。初めは我等共々伊達家にご奉公の決意であったはずが、急に心変わりをして拙者に腹を切れなどと申しまするゆえ、已む無く逃げて参って来た次第でござる」
宗実「嘘を申すと為にならんぞ」
定綱「神明に誓って」
小十郎「今ひとつ訊ねる。そちは蝙蝠の如くあっちに付きこっちに付き身上の定まらぬ男だが、此度は何故に会津を見限った」
定綱「はぁ?」
小十郎「その首級を賭けてここまで参るからには、定めし拠ん所ない事情があったに相違ない。有り体に申してみよ」
定綱「さればでござる、拙者小浜城に立て籠り貴殿方と事を構えし砌(みぎり)弓矢を交えずして城を棄て申したのは、会津の面々に諭されたるがゆえにござる。葦名家に奉公致せば四天王の一人として加え高禄をもって召し抱えるとのことでござった。然るにいざ出奔致してみると案外に事は運ばず、知行はおろか給米もろくに与えられずして家臣は餓死に瀕する有り様」
宗実「詰まるところ、当てが外れて伊達家に鞍替え致すのか」
成実「忌々しい奴だ。おのれは伊達家にとって八つ裂きにしても飽き足らぬほどの宿敵だぞ。わが殿が喜んで召し抱えるとでも思っているのか」
定綱「憚りながら、拙者を召し抱えなければ大きな損失を招きまする」
成実「損失だと」


第一関門クリア。

政宗「成実や小十郎が何と言おうと、定綱だけは生かしておけん」
小梁川泥蟠斎「しかし、窮鳥懐に入らば猟師もこれを殺さずと申します」
政宗「忘れたのか泥蟠斎、定綱の裏切りがなければ父上が無惨な最期を途げる事もなかった」
泥蟠斎「重々承知しております。されど、大内定綱なる男は名うての切れ者。葦名攻めにはきっと役に立ちましょう。四本松郡には今も定綱に誼の者が大勢おります。三春や相馬に睨みを効かす為にもとりあえず召し抱えておき、役に立たずば存分にお仕置きなさるがよろしかろうと存ずる」
政宗「俺は顔も見たくない」
泥蟠斎「強いばかりが武将の器とは申されませぬ」
政宗「…」
泥蟠斎「よろしいか。既に伊達勢の恐ろしさはあまねく天下に知れ渡っておる。則ち刃向かう者は容赦なく叩き一兵残らず討ち果たす。それはまあそれでよろしかろう。しかし一方では憎みても余りある敵と言えども一旦軍門に下って恭順の意思を示せば慈悲の心をもって快くこれを迎え身上安堵するのも肝要かと存ずる。これぞ誉れ高き名君の道」
政宗「…」
泥蟠斎「大内に倣って帰属を申し出る武将も多…」
政宗「くどくど申すな!」


第二関門クリア。
あとは最終面接を残すのみ。

泥蟠斎「はははは…、悪運の強い奴。首と胴が繋がったままで御目見えできるとはなぁ」
定綱「有り難き幸せにござります」
政宗「定綱」
定綱「はぁ」
政宗「そちは俺の事を鼠じゃと申したな」
定綱「はぁ?」
政宗「その鼠に頭を下げるそちは何だ」
定綱「うぅん。左様、さしずめ、はっはっはっは、毬栗でござりましょうか」
鈴木重信「ぷふふ」
小十郎「…」
政宗「毬栗ならば煮て食おうと焼いて食おうと俺の勝手だな」
定綱「御意にござります」
政宗「さて、季節外れの毬栗よ、しぶとく逆らい続けてきたそちが臆面もなく伊達家に奉公を申し出るからには、まさか手ぶらではあるまい。定めし大きな土産があろうの」
定綱「無論用意いたしております」
小十郎「遠慮なく披露致せ」
定綱「先ずは南奥州の情勢にござりまするが、佐竹・葦名・岩城・二階堂・相馬が手を組み、さらに最上・大崎をも加えて伊達勢を四方八方より包囲いたす企てが着々と進んでおりまする」
政宗「とうに心得ておる」
定綱「されば、敵の内緒に精通致しておる拙者がご奉公致せば必ずや伊達家のお役に立つものと覚えまする」
泥蟠斎「此度の戦は多勢に無勢じゃ。然るにそちは伊達に付くと申す。我等が勝つと信ずる根拠があるのか?」
定綱「ござりません」
泥蟠斎「ほう、ならば何故に?」
定綱「恐れながら定綱、伊達政宗殿に惚れ申した。ご器量と言い戦ぶりと言いまさに信長公の再来でござる」
政宗「…」
定綱「かかる主君の元に命を棄つるこそ武門の誉れと心得まする。お分かりかな?良い主君を持たぬ家臣ほど惨めなものはない。されば各々方は運が良い。生まれながらにして伊達家の家臣でござる」
政宗「繰り事を申すな」
定綱「殿、願わくは定綱をご家来衆の末席にお加え下さりませ。武人として恥ずることなき死に場所をお与え下さりませ」
政宗「…(小十郎に目配せ)」
小十郎「重信」
重信「大内定綱の儀、改心致して伺候を申し入れたるにつきとくに罪を赦し三十貫文をもって召し抱えるものとす」
定綱「ははっ!有り難き幸せ」
政宗「…(泥蟠斎に目配せ)」
泥蟠斎「酒を持て」


就職おめでとうございます。
権謀術数の策士はこうでなくてはいけません。
どっかのチョロい似非軍師に爪の垢でもやってください。

 

※大内 定綱(おおうち さだつな)は、戦国時代の武将。陸奥国安達郡小浜城主。後に仙台藩士。大内氏は、父・義綱の代に田村氏の内応工作に応じて主君・石橋尚義を追放し、塩松領主となって田村氏の旗下に属していた。定綱は、初め田村氏の偏諱を得て顕徳と名乗っていた。家督を継いだ定綱は、天正7年(1579年)3月頃、田村氏が岩城氏を攻めた際に発生した田村・大内両家の家臣同士の争いの裁決に対する不満から、次第に田村氏からの独立を目論むようになる。これを知った二本松城主二本松義継は田村清顕と定綱の仲介を勧めるが決裂し、同年6月に定綱は田村氏との手切れを宣言し名前を定綱と改名、面目を失った義継も同調した。独立をした定綱は蘆名盛氏を頼った。蘆名氏はこれを受け入れ、同氏と同盟関係にあった伊達氏も縁戚である田村氏との間では中立との態度を取りながらも定綱の独立を認めた。天正10年(1582年)、伊達輝宗が小斎城を攻略した際に、輝宗の陣に参上して伊達傘下に入り、以降は対相馬戦に度々従軍する。またこの頃、娘を二本松城主二本松義継の子・国王丸に嫁がせて足場を固めた。こうして天正11年(1583年)、田村領の百目木城主石川光昌(石橋氏旧臣、義綱と組んで尚義を追放した有信の子)を攻撃、田村氏と対立していた蘆名盛隆の支援を受けて田村清顕を破った。しかし、天正12年(1584年)に輝宗の子・政宗(正室は田村清顕の娘・愛姫)が家督を継ぐと、定綱は引き続き伊達氏への奉公を表明した。一方、蘆名盛隆や二本松義継は大内氏・田村氏の和睦を図り政宗への了解を取り付けようとしていた。しかし、8月になると政宗は田村氏に加担する方針に転換する。もっとも、政宗も蘆名盛隆との衝突を避けるために定綱への攻撃は行われなかった。ところが、10月に蘆名盛隆が暗殺され、その家督争いの過程で親伊達派が力を失って佐竹氏の影響が強まると、伊達氏と蘆名氏の同盟関係は終焉に向かった。すると、定綱は突然米沢城の政宗を訪問して伊達氏に出仕して妻子を米沢に住まわせたいと申し出た。政宗はこれを受け入れるが、義綱が塩松に戻るとこの約束を破棄したため、激怒した政宗は田村氏に加担して定綱の攻撃を決意した。一方、隠居した輝宗は秘かに定綱に政宗への謝罪を求めたが、定綱はこれに応じなかった。翌天正13年(1585年)5月、政宗は蘆名氏が定綱を支援していることを理由に同氏を攻撃し、続いて閏8月には定綱を攻撃し、小手森城で撫で斬りを行うなどしたため、定綱は小浜城を放棄して二本松へ逃れ、ついで会津の蘆名氏を頼った。天正16年(1588年)、郡山合戦の際には蘆名氏の部将として苗代田城を攻略するが、伊達成実の誘いに応じて弟の片平親綱と共に伊達氏に帰参した。定綱は蘆名氏で冷遇されたことに不満を抱いている一方、親綱のいる片平城が政宗の会津攻略に必要な要地であることや塩松の浪人衆(大内氏や二本松氏の旧臣)が伊達氏に反抗を続けていることを知って、政宗と有利な条件で交渉できると踏んだのである。更に定綱の没落後に塩松に入った石川光昌の謀反の風聞もあった(実際に石川は定綱の帰参後に相馬氏の誘いを受けて謀反を起こしている)。その結果、定綱は天正16年3月に帰参を認められた代わりに旧領復帰ではなく伊達氏の本拠地に近い伊達郡や長井郡に所領を与えられた。蘆名氏からの軍事的圧力から一旦は帰参を見送った親綱も翌天正17年(1589年)3月には本領安堵の上で帰参したが、これを知った蘆名義広によって人質にされていた定綱・親綱兄弟の母が殺されている。以後は、摺上原の戦いや葛西大崎一揆鎮圧、文禄・慶長の役にも従軍して功績を立てた。天正19年(1591年)、政宗が岩出山城に転封されると、胆沢郡に20邑余(およそ10,000石)の所領を与えられ、前沢城主となった。関ヶ原の戦いの折には京都伊達屋敷の留守居役を務めた。子の重綱の代にはこれらの功績により、一族の家格を与えられた。慶長6年(1601)、伊勢の宗禅泰安を興化寺の再興開山として迎え、興化山寶林寺と改名して菩提寺とした。慶長15年(1610年)、65歳で没し,前沢の小沢に葬られた。定綱自身は戦上手として名高く、調略にも長け、武術においては十文字槍を得物とし、これを用いた槍術にも優れていたという。(wikipediaより)