明治9年当時の角界を想う | のぼこの庵

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大河ドラマの史上最高傑作『独眼竜政宗』(1987⇒2014再放送)と近年の最高峰『平清盛』(2012)の感想です。
ついでに『江~姫たちの戦国~』(2011)、『八重の桜』(2013)、『軍師官兵衛』(2014)、『花燃ゆ』(2015)の感想も。
あとは爺放談?

西南戦争直前の、政情不安かつ政策不安定な時期

大名家の抱え力士が多かった東京相撲会所も、
武士とともに滅びるのか、生まれ変わって生き残るのか
まだまだ予断を許さない状況にありました。

そんな明治9年夏場所の幕内番付を見ますと、

横綱免許前の境川浪右衛門が東大関を張り、
強豪雷電震右衛門が東関脇、
実力者若嶌久三郎が東前頭筆頭、
西前頭二枚目にはのちの大横綱梅ヶ谷藤太郎がいます。

なお、美男大関綾瀬川はこの場所(全休)を限りに引退しています。

名力士が揃い相撲内容も充実していたであろう角界でしたが、
数々の改革と、明治天皇や板垣退助をはじめとする好角家たちの存在も幸いし、
なんとか明治維新を乗り越えたようです。

※境川浪右衛門(さかいがわなみえもん、1841年 - 1887年)は、下総国葛飾郡(現・千葉県市川市)出身の大相撲力士。第14代横綱。小兵にも関わらず太鼓腹・怪力で初土俵から順調に出世していき、新入幕と同時に「増位山大四郎」と改名。明治2年大関へ昇進後に「境川浪右衛門」と改名した。明治10年(1877年)には東京・麻布の島津邸で明治天皇の天覧相撲が開催される予定だったため、同年2月に五条家から横綱免許が授与されたほか、吉田司家からも故実門人へ加えられたが、西南戦争によって天覧相撲が中止された。吉田善門は西南戦争の西郷軍に対して各地を転戦した末に降伏したため、吉田司家から境川へ対する横綱免許が授与できず、明治11年(1878年)2月にようやく吉田司家からも横綱免許の授与を承認する形が取られた。幕内時代はどんな対戦相手でもいきなり破らず、十分に相撲を取らせた上で勝負に出るので、対戦相手は境川に敗れても土俵態度に好感を持ったという。こうした余裕の取り口から引き分けが非常に多く、全勝での優勝相当成績は無かった。明治14年(1881年)1月場所限りで現役を引退し、年寄・境川となった。その後は自分の弟子だけでなく他の弟子にも分け隔てなく稽古を付けることから力士に尊敬され、東京・本所一ツ目に自宅があったことから「一ツ目の大名大関」「明治の谷風」と称され、後に相撲長・取締編輯人を歴任し、明治18年(1885年)の天覧相撲では角力長を務めた。(Wikipediaより)