『八重の桜』第37回「過激な転校生」感想 | のぼこの庵

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大河ドラマの史上最高傑作『独眼竜政宗』(1987⇒2014再放送)と近年の最高峰『平清盛』(2012)の感想です。
ついでに『江~姫たちの戦国~』(2011)、『八重の桜』(2013)、『軍師官兵衛』(2014)、『花燃ゆ』(2015)の感想も。
あとは爺放談?

いい学園ドラマでした。

あー大河ドラマが見たい。

あと一週間の辛抱…次回に期待…したいんですが、
なんだか嫌な予感がします。

お願いです。
くれぐれも、三傑いっぺんに殺さないで!
佐川さまとは比較にならねえのだし。

※西南戦争(せいなんせんそう)、または西南の役(せいなんのえき)は、明治10年(1877年)に現在の熊本県・宮崎県・大分県・鹿児島県において西郷隆盛を盟主にして起こった士族による武力反乱である。明治初期の一連の士族反乱のうち最大規模で日本最後の内戦となった。明治9年(1876年)3月に廃刀令が出、8月に金禄公債証書条例が制定されると、士族とその子弟で構成される私学校党の多くは、徴兵令で代々の武人であることを奪われたことに続き、帯刀と知行地という士族最後の特権をも奪われたことに憤慨した。10月24日の熊本県士族の神風連の乱、27日の福岡県士族の秋月の乱、28日の萩の乱もこれらの特権の剥奪に怒っておきたものであった。11月、西郷は日当山温泉でこれら決起の報を聞いた。政府は、鹿児島県士族の反乱を警戒し、「年末から1月にかけて、鹿児島県下の火薬庫から火薬・弾薬を順次船で運びださせる。24名の巡査を、県下の情報探索・私学校の瓦解工作・西郷と私学校を離間させるなどの目的で、帰郷の名目のもと鹿児島に派遣する。」などの処置をした。明治10年(1877年)1月20日頃、西郷は、大隅半島の小根占で狩猟をしていた。一方、政府は反乱間近しと見て、1月28日に山縣有朋が熊本鎮台に電報で警戒命令を出した。29日、私学校生徒が草牟田火薬庫を襲った。2月1日、西郷のもとに四弟・小兵衞が来て、中原尚雄が西郷刺殺のために帰県したこと、私学校生徒による火薬庫襲撃がおきたことなどを話した。これを聞いて西郷が鹿児島へ帰ると、身辺警護に駆けつける人数が時とともに増え続けた。3日に中原が捕らえられると、6日に私学校本校で大評議が開かれ、政府問罪のために大軍を率いて上京することに決したので、翌7日に県令・大山綱良に上京の決意を告げた。同日、巡査たちとは別に、大久保が派遣した野村綱が県庁に自首した。15日、薩軍の一番大隊が鹿児島から先発し(西南戦争開始)、17日、西郷も鹿児島を出発し、加治木・人吉を経て熊本へ向かった。2月20日、別府晋介の大隊が熊本鎮台を追って熊本へ進出した。22日、薩軍の大隊は早朝から熊本城を総攻撃した。熊本城は堅城で軍議でもめているうちに、政府軍の正規旅団は本格的に南下し始めた。各地での政府軍との衝突は、いずれも勝敗があり、戦線が膠着した。3月1日から始まった田原をめぐる戦い(田原坂・吉次など)は、この戦争の分水嶺になった激戦で、篠原国幹ら勇猛の士が次々と戦死した。20日に、兵の交替の隙を衝かれ、田原坂を政府軍に奪われた。さらに、永山弥一郎が御船で自焚・自刃し、池上四郎が安政橋口の戦いで敗れて、上陸した政府背面軍と鎮台の連絡を許すと、薩軍は腹背に敵を受ける形になった。14日、熊本城の包囲を解いて木山に退却した。この間、本営は本荘から二本木、木山、矢部浜町、人吉と移され、西郷もほぼそれとともに移動した。衆寡敵せず、徐々に政府軍に押され、人吉も危なくなった。そこで本営を宮崎に移し、軍務所では、薩軍の財政を立て直すための大量の軍票(西郷札)がつくられた。人吉に残った村田新八は、1ヶ月近く政府軍と川内川を挟んで小戦を繰り返した。7月10日、政府軍が全面攻撃を加えてきたので、退却。24日、都城で激戦をしたが、これも大敗して宮崎へ退いた(都城の戦い)。31日、桐野利秋・村田新八らは諸軍を指揮して宮崎で戦ったが、再び敗れ、薩軍は広瀬・佐土原へ退いた(宮崎の戦い)。8月2日に高鍋が陥落し、3日から美々津の戦いが始まった。桐野、村田、池上はともに敗れた。西郷は14日に長井村可愛に到着し、以後、ここに滞在した。その間の12日、参軍・陸軍中将山縣有朋の政府軍は延岡を攻撃した。桐野・村田・池上は、延岡を総退却し、和田峠に依った。8月15日、和田峠を中心に布陣し、政府軍に対し、西南戦争最後の大戦を挑んだ。早朝、西郷が初めて陣頭に立ち、自ら桐野・村田・池上・別府晋介ら諸将を随えて和田峠頂上で指揮したが、大敗して延岡の回復はならず、長井村へ退いた。これを追って政府軍は長井包囲網をつくった。16日、西郷は解軍の令を出し、書類・陸軍大将の軍服を焼いた。この後、負傷者や諸隊の降伏が相次いだ。17日夜10時、精鋭300-500名が長井村を発し、包囲網からの突破を試みた。前軍は河野主一郎・辺見十郎太、中軍は桐野・村田、後軍は中島健彦・貴島清が率い、池上と別府が約60名を率いて西郷隆盛を護衛した。突囲が成功した後、宮崎・鹿児島の山岳部を踏破すること10余日、鹿児島へ帰った。9月1日、薩軍は鹿児島に入り、城山を占拠した。上陸展開した政府軍は6日には城山包囲態勢を完成させた。19日、山野田一輔・河野主一郎が軍使となって参軍・川村純義のもとに出向き、捕らえられた。23日、西郷は、山野田が持ち帰った川村からの返事を聞き、参軍・山縣有朋からの自決を勧める書簡を読んだが、返事を出さなかった。24日、午前4時、政府軍が城山を総攻撃した。西郷と桐野利秋・桂久武・村田新八・池上四郎・別府晋介・辺見十郎太ら将士40余名は、岩崎口に進撃した。まず国分寿介(または小倉壮九郎)が剣に伏して自刃。桂久武が被弾して斃れると、弾丸に斃れる者が続き、西郷も股と腹に被弾した。将士が跪いて見守る中、別府晋介が西郷を介錯した。享年51(満49歳没)。別府はその場で切腹した。残余の将士は、西郷の死を見届けると進撃を続け、私学校の一角にあった塁に籠もって戦ったのち、自刃、刺し違え、あるいは戦死した。西南戦争による官軍死者は6,403人、西郷軍死者は6,765人に及んだ。政府の西南戦争の戦費は4100万円にのぼり、当時の税収4800万円のほとんどを使い果たすほど莫大になった。士族を中心にした西郷軍に、徴兵を主体とした政府軍が勝利したことで、徴兵制による国民皆兵体制が定着した。一方で、徴兵兵士に対する精神教育を重視する傾向が強まった。(Wikipediaより)