『八重の桜』第35回「襄のプロポーズ」感想 | のぼこの庵

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大河ドラマの史上最高傑作『独眼竜政宗』(1987⇒2014再放送)と近年の最高峰『平清盛』(2012)の感想です。
ついでに『江~姫たちの戦国~』(2011)、『八重の桜』(2013)、『軍師官兵衛』(2014)、『花燃ゆ』(2015)の感想も。
あとは爺放談?

松平容保 = コンドルのジョー
山川健次郎 = 前髪クネ男

いやぁ、俳優さんて、本当に面白いもんですね。

…って、それはそれとして、
2週続けてヒストラマをスルーは困りますよ。

確かに、
ドラマを作らせたら天下一品のこの制作局も
報道姿勢の点では大いに難アリですので、
征韓論とか台湾出兵についても局内障壁が大きいのかもしれません。

しかし、この時代、各地で起きた反乱は、
幕末から続く武士・士族の最後の抵抗です。

どうか『八重の桜』は、会津だけではなく、
此の国の一時代を、武士の最期を、描ききってほしいものです。

まだ戦は終わっていないのです。

※台湾出兵(たいわんしゅっぺい)は、明治7年(1874年)に明治政府が行った台湾への軍事出兵である。明治政府と日本軍が行った最初の海外派兵である。琉球王国は江戸時代には日本(薩摩藩)と清の間で両属関係にあり、明治政府が成立すると、帰属をめぐる政治問題が起こっていた。明治4年(1871年)10月、宮古島から首里へ年貢を輸送し、帰途についた琉球御用船が台風による暴風で遭難した。台湾南部に漂着した乗員66名(3名は溺死)は先住民(現在の台湾先住民パイワン族)に拉致された。12月17日、遭難者たちは集落から逃走。先住民は逃げた者を次々と殺害し54名を斬首した(宮古島島民遭難事件)。12名の生存者は、台湾府の保護により、宮古島へ送り返された。明治6年(1873年)には備中国浅口郡柏島村(現在の岡山県倉敷市)の船が台湾に漂着し、乗組員4名が略奪を受ける事件が起こった。当時の明治政府では、朝鮮出兵を巡る征韓論などで対立があり、樺山資紀や鹿児島県参事大山綱良ら薩摩閥は台湾出兵を建言していた。これらの強硬意見の背景には、廃藩置県によって失業した40万人から50万人におよぶと推定される士族の不満のはけ口を探していたことがある。同年、特命全権大使として外務卿副島種臣が清国に渡ったが、清朝の外務当局は、台湾先住民は「化外」であり、清国の統治のおよばぬ領域での事件であると回答して責任を回避した。この年秋、朝鮮使節派遣をめぐって政府が分裂し(明治六年政変)、また、翌明治7年(1874年)1月の岩倉具視暗殺未遂事件、2月の江藤新平による反乱(佐賀の乱)が起こるなど政情不安が昂じたため、大久保利通を中心とする明治政府は国内の不満を海外にふり向けるねらいもあって台湾征討を決断し、同年4月、参議の大隈重信を台湾蕃地事務局長官として、また、陸軍中将西郷従道を台湾蕃地事務都督として、それぞれ任命して軍事行動の準備に入った。台湾出兵に対しては反対意見もあった。特に、参議木戸孝允らの長州系は征韓論を否定しておきながら、台湾への海外派兵をおこなうのは矛盾であるとして反対の態度をくずさず、4月18日、木戸は参議の辞表を提出して下野してしまった。そのため、政府は一旦は派兵の中止を決定した。しかし、西郷従道は独断での出兵を強行し、長崎に待機していた征討軍約3,000名を出動させ、政府もやむなくこれを追認した。征討軍は、5月6日に台湾南部に上陸。5月22日西郷の命令によって本格的な制圧を開始した。6月3日には牡丹社など事件発生地域を制圧して現地の占領を続けた。戦死者は12名であった。一方561名がマラリアにより病死した。清国は日本の行動に抗議し撤兵を要求した。その後、和議が進められ、8月、全権弁理大臣として大久保利通が北京に赴いて清国政府と交渉した。会談は難航したが、10月31日「日清両国互換条款」が調印された。それによれば、清が日本軍の出兵を保民の義挙と認め、 見舞金と戦費賠償金を日本側に支払い、生蕃取締を保証するということになり、それと引き換えに、日本は同年12月20日までに征討軍を撤退させることに合意した。この条約によって、両国は、琉球は日本国の領土であり、台湾は清国の領土であることを認めた。また、琉球民のことを「日本国属民」と表現することによって、条約上、琉球が日本の版図であることを日清両国が承認する形となり、琉球処分を進める上で、日本に有利な結果となった。しかし、最終的に琉球の国籍が確定するのは、日清戦争で日本が勝利して後のことであった。(Wikipediaより)