『八重の桜』第7回「将軍の首」感想 | のぼこの庵

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大河ドラマの史上最高傑作『独眼竜政宗』(1987⇒2014再放送)と近年の最高峰『平清盛』(2012)の感想です。
ついでに『江~姫たちの戦国~』(2011)、『八重の桜』(2013)、『軍師官兵衛』(2014)、『花燃ゆ』(2015)の感想も。
あとは爺放談?

主人公がなかなか動けない、今年の大河ドラマです。

これまでは山本覚馬、今回からは松平容保が
仮の主人公のようにも思えます。

しかし二人とも、それほど主人公主人公していないものですから
やっぱりどうしてもヒストラマ感がぬぐえません。

やはり、主人公たる八重が、もっともっと前面に出てこなければ
大河ドラマとしての面白さも出てこないのでしょう。

「立ち聞き姫」や「ティンカーベル」ではなく、もっと堂々と、
偉丈婦たる新島八重の少女時代を描いて欲しいものです。

※保科正之(ほしなまさゆき)は、慶長16年(1611年)、第2代将軍徳川秀忠の4男(庶子)として生まれる。幼名は幸松(こうまつ)。母は秀忠の乳母大姥局の侍女もしくは武蔵国の大工の娘である静(志津、後の浄光院)。秀忠は慶長15年(1610年)に駿府へ赴いているほか江戸近郊で鷹狩を行っており、静の妊娠はこの間のことであると考えられている。近世武家社会においては正室の体面・大奥の秩序維持のため侍妾は正室の許可が必要であり、幸松は武田信玄の次女である見性院(穴山信君正室)に預けられ、見性院に養育された。この事実は秀忠側近の老中土井利勝他数名のみしか知らぬことであったという。元和3年(1617年)、見性院の縁で旧武田氏家臣の信濃高遠藩主・保科正光が預かり、正光の子として養育される。正之は高遠城三の丸に新居を建設されて母とともに生活し、正光の家臣が守役となり、正光も在城の際には日に5、6度はご機嫌伺いをしたという。正光は自らの後継者として正之を指名し、自らの存命中に秀忠と正之を父子対面させたいことを約した遺言を遺している。なお、長兄家光が正之という弟の存在を知ったのは、家光が身分を隠して成就院という寺で休憩していた時、そこの僧侶から聞かされて知ったとされる。後に新井白石は正之を重用した家光の行為を「善政の一齣」であると記している。また次兄徳川忠長にも大変気に入られて、祖父・徳川家康の遺品を忠長より与えられたとしている。寛永8年(1631年)、正光の跡を継ぎ高遠藩3万石の藩主となり、正四位下肥後守兼左近衛中将に叙任。以後、肥後守と通称される。秀忠の死後、第3代将軍家光はこの謹直で有能な異母弟をことのほか可愛がった。寛永13年(1636年)には出羽山形藩20万石を拝領した。寛永20年(1643年)、陸奥会津藩23万石と大身の大名に引き立てられる。以後、正之の子孫の会津松平家が幕末まで会津藩主を務めた。慶安4年(1651年)、家光は死に臨んで枕頭に正之を呼び寄せ、「肥後よ宗家を頼みおく」と言い残した。これに感銘した正之は寛文8年(1668年)に『会津家訓十五箇条』を定めた。第一条に「会津藩たるは将軍家を守護すべき存在であり、藩主が裏切るようなことがあれば家臣は従ってはならない」と記し、以降、藩主・藩士は共にこれを忠実に守った。幕末の藩主・松平容保(かたもり)はこの遺訓を守り、佐幕派の中心的存在として最後まで薩長軍と戦った。寛文12年(1672年)12月18日、江戸三田の藩邸で死去した。享年63(満61歳没)。正之は幕府より松平姓を名乗ることを勧められたが、養育してくれた保科家への恩義を忘れず、生涯保科姓を通した。第3代・正容になってようやく松平姓と葵の紋が使用され、親藩に列した。家光の死後、遺命により甥の4代将軍家綱の輔佐役(大政参与)として幕閣の重きをなし、文治政治を推し進めた。末期養子の禁を緩和し、各藩の絶家を減らした。会津藩で既に実施していた先君への殉死の禁止を幕府の制度とした。大名証人制度の廃止を政策として打ち出した。玉川上水を開削し江戸市民の飲用水の安定供給に貢献した。明暦3年(1657年)の明暦の大火後、焼け出された庶民を救済した。主要道の道幅を6間(10.9m)から9間(16.4m)に拡幅した。火除け空き地として上野に広小路を設置し、両国橋を新設、芝と浅草に新堀を開削、神田川の拡張などに取り組み、江戸の防災性を向上させた。また、焼け落ちた江戸城天守の再建について、天守は実用的な意味があまりなく単に遠くを見るだけのものであり、無駄な出費は避けるべきと主張した。そのため江戸城天守は再建されず、以後、江戸城天守台が天守を戴くことはなかった。藩政にも力を注いだ。会津に入った寛永20年の12月、留物令によって、漆・鉛・蝋・熊皮・巣鷹・女・駒・紙の八品目の藩外持ち出しを手形の有無で制限し、一方では許可なくしては伐採できない樹木として漆木を第一にあげるなど、産業の育成と振興に勤めた。正保4年(1647年)、諸宿駅を定める。明暦元年(1655年)に飢饉時の貧農・窮民の救済のため社倉制が創設された。万治3年(1660年)には、郷頭のそれまで行われていた百姓に対する恣意的な扱いを禁じた。寛文元年には相場米買上制を始め、寛文年間には升と秤の統一を行った。藩士に対しては寛文元年、殉死を禁じた。また朱子学を藩学として奨励。好学尚武の藩風を作り上げた。また90歳以上の老人には、身分を問わず、終生一人扶持(1日あたり玄米5合)を支給し、日本の年金制度の始まりとされる。 稽古堂も設け藩士の子弟教育に尽力、後の日新館となった。同時代の水戸藩主徳川光圀、岡山藩主池田光政と並び江戸初期の三名君と賞されている。正之は熱烈な朱子学の徒であり、それに基づく政治を行った。身分制度の固定化を確立し、幕藩体制の維持強化に努めた。長女・媛姫は上杉家に嫁した後、実母・於万の方による四女・摩須毒殺未遂事件で誤って毒を飲んで急死した。この事件のために、会津家家訓の第4条には、婦女子についても記載されている。(Wikipediaより)