『平清盛』第31回「伊豆の流人」感想 | のぼこの庵

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大河ドラマの史上最高傑作『独眼竜政宗』(1987⇒2014再放送)と近年の最高峰『平清盛』(2012)の感想です。
ついでに『江~姫たちの戦国~』(2011)、『八重の桜』(2013)、『軍師官兵衛』(2014)、『花燃ゆ』(2015)の感想も。
あとは爺放談?

『平清盛』第三部スタートじゃ!

以下は週刊誌ネタですが、事実とすれば面白い。
専門家は専門家を認めず、名優は名優を認めず、といったところでしょうか?

『女性自身』(8月3日)の芸能ニュースより~大河出演9回の津川雅彦「今の大河はヒドすぎる」と激辛苦言~「今の大河、汚ねぇだろ!あれはヒドいよ。あ、同じNHKのドラマだけど、大河に関わっている人はいないよね?」という津川雅彦(72)の爆弾発言に、会場は凍りついた——。7月下旬、東京都内のカフェを会場に、NHK BSプレミアムで放映中のドラマ『薄桜記』の打ち上げが行われた。(中略)和やかなムードを一変させたのが、津川の挨拶での発言だった。(中略)「ドラマで大事なのは1に台本、2に映像、3に役者。俺が出た大河は台本もしっかりしていたし、映像もキレイにしていた。今の大河の役者は過去の栄光か何かで選んでいるかもしれないが、大事なのは、今、しっかり演じられるかどうかです!」まるで松山ケンイチ(27)が”しっかり演じていない”からダメなんだ、と言わんばかりだったという。(中略)打ち上げ会場にいたNHK関係者はこう話している。「津川さんの演説は辛辣すぎて、『清盛』の低視聴率に悩み続けている松山ケンイチさんが聞いたら、それこそ卒倒しそうな勢いでした。”旬の俳優”として主役に選ばれ、妻・小雪さんの出産などで私生活も注目されている松山さんに対して津川さんは、ライバル意識も持っているようでしたね。演説の最後に、『俺はまだ旬な人でいたいんです!これからも(マスコミに)バシバシとスクープされたい!』と言っていました」

いやいや。
ライバル視すべきなのは主役ばかりではありませんよ。
二本松だけでもありません。

やっぱり重盛はたいしたもんだ。
「絶やしてはならぬ」頼盛も負けていません。

総体的に
出演者それぞれが皆いい味を出していた第三部初回でした。

それにしても・・・
「わしはあのように青臭うはなかった!」
盛国でなくても笑いたくなりますね。

それから・・・
二条帝、てっきり変声期前かと思っていたら
最期までああいうお声だったのですね。

※源頼朝(みなもとのよりとも)は、平安時代末期、鎌倉時代初期の武将、鎌倉幕府の初代征夷大将軍である。河内源氏の源義朝の三男として生まれ、父・義朝が平治の乱で敗れると伊豆国へ流される。流人とはいえ、乳母の比企尼や母の実家である熱田大宮司の援助を受け、比較的安定した自由な生活をしていたと思われる。周辺には安達盛長が側近として仕え、佐々木定綱ら四兄弟が従者として奉仕した。『曽我物語』には次のような記載がある。1167年頃、21歳の頼朝は伊東祐親の下に在った。しかし祐親が在京の間にその三女八重姫と通じて子・千鶴丸を成すと、祐親は平家への聞こえを恐れて千鶴丸を伊東の轟ヶ淵に投げ捨て、八重姫を江間小四郎の妻とし、頼朝を討たんと企てた。祐親の次男伊東祐清からそれを聞いた頼朝は走湯権現に逃れて一命を取り留めた。頼朝29歳頃の事件であった。31歳の時、頼朝監視の任に当たっていた北条時政の長女である21歳の政子と通じる。時政は山木兼隆に嫁がせるべく政子を兼隆の下に送るが、政子はその夜の内に抜け出し、頼朝の妻となった。1180年、後白河法皇の皇子である高倉宮以仁王が平氏追討を命ずる令旨を諸国の源氏に発令。4月、伊豆国の頼朝にも令旨が届けられる。以仁王は源頼政らと共に宇治で敗死するが、平氏は令旨を受けた諸国の源氏追討を企てた。その動きを知り自分が危機の中にあることを悟った頼朝は挙兵を決意し、故のある坂東の各豪族に協力を呼びかけた。8月、伊豆を得た頼朝は相模国土肥郷へ向かう。しかし三浦軍との合流前の石橋山の戦いで、頼朝らは平家に仕える三千余騎と戦い敗れ、僅かな従者と共に山中へ逃れ安房国へと向かう。房総に勢力を持つ上総・千葉両氏の支持を受けた頼朝は武蔵国に入る。10月6日かつて父義朝と兄義平の住んだ鎌倉へ入り、鎌倉の政治の拠点とした。鎌倉は後の鎌倉幕府の本拠地として、発展を遂げる事となる。10月16日、平維盛率いる数万騎が駿河国へと達すると、これを迎え撃つべく鎌倉を発し、翌々日に黄瀬川で武田信義、北条時政らが率いる2万騎と合流する。20日、富士川の戦いで維盛軍と対峙するが、撤退の最中に水鳥の飛び立つ音に浮き足立った維盛軍は潰走し、頼朝軍はほとんど戦わずして勝利を得た。翌日、奥州の藤原秀衡を頼っていた異母弟・源義経が参じている。1180年末までには、九州筑紫地方、四国伊予の河野氏、近江源氏、甲斐源氏、信濃源氏らが反平氏の挙兵をし、全国で反平氏の活動が活発となる。平氏も福原から京都に都を移して反撃に転じ近江源氏や南都などの畿内寺社勢力を鎮圧する。しかし1181年に入ると、反平氏の活動はより一層活発化した。その混乱のさなか、閏2月平清盛が熱病で世を去った。全国的な反乱が続く中、平家は兵を派遣して美濃源氏を鎮圧し、ついで清盛五男の平重衡は尾張以東の東国征伐に向かう。7月頃、頼朝は後白河法皇に平氏と和睦しても構わないという趣旨の書状を送るが、清盛の後継者である宗盛は拒否した。1183年春、以仁王の令旨を受けて挙兵していた従兄弟の源義仲が、頼朝に追われた叔父の源義広・源行家を庇護した事により、頼朝と義仲は武力衝突寸前となる。しかし、両者の話し合いで義仲の嫡子義高を頼朝の長女大姫の婿として鎌倉に送る事で合意し、和議が成立した。義仲は行家・義広と共に平氏との戦いに勝利を続け、7月に平氏一門が安徳天皇と共に都を落ちると、大軍を率いて入京し、後白河法皇に召され平宗盛ら平氏追討の命を得る。しかし寄せ集めである義仲の軍勢は統制が取れておらず、飢饉に苦しむ都の食糧事情を悪化させ、また義仲が皇位継承に介入した事により院や廷臣たちの反感を買った。朝廷と京の人々は頼朝の上洛を望み、後白河法皇は義仲を西国の平氏追討に向かわせ、代わって頼朝に上洛を要請する。10月に朝廷は平治の乱で止めた頼朝の位階を復すなど、当初「反乱軍」と見なされていた頼朝率いる鎌倉政権は朝廷から公式に認められる勢力となった。頼朝の上洛を恐れる義仲は、平氏追討の戦いに敗れると京に戻り、頼朝追討の命を望むが許されず、11月には頼朝が送った源義経率いる軍が近江国へと至る。平家と義経に挟まれた義仲は、院を攻め後白河法皇を拘束すると、頼朝追討の宣旨を引き出し、1184年1月には征東大将軍に任ぜられる。しかし源範頼と義経は数万騎を率いて京に向かい、防ぐ義仲は近江国粟津で討たれた。頼朝は鎌倉に在った義高の殺害を企て、これを大姫が義高に伝えると、義高は女房に扮し鎌倉を逃れた。頼朝は怒って堀親家に命じて追手を発し、武蔵国入間川原で義高を討つ。大姫は嘆き悲しみ、憤った母の政子は義高を討った家人を梟首するが、大姫はその後も憔悴を深め、後にわずか20歳で亡くなる事となる。義仲を討った範頼と義経は、平氏を追討すべく京を発し、2月、摂津国一ノ谷の戦いで勝利し、平重衡を捕え京に連れ帰った。頼朝は四国に逃れた平氏を更に追討すべく、九州・四国の武士に平氏追討を求める書状を下し、土肥実平や梶原景時を山陽諸国に派遣する。6月平頼盛(命の恩人池禅尼の子)、鎌倉に戻った範頼、源広綱、源義信が国司となり頼朝自身は知行国主となった。8月、範頼を大将とする平氏追討軍が鎌倉から出陣する。1185年1月、義経は讃岐国屋島に拠る平氏追討へ向かう。2月、義経は屋島の戦いで平氏を海上へと追い、3月24日、壇ノ浦の戦いで安徳天皇ら平氏一門は入水し、平宗盛、建礼門院らを捕え、遂に平氏を滅ぼした。この後、頼朝は、戦功のあった義経を追放し、諸国に守護と地頭を配して力を強め、奥州合戦では奥州藤原氏を滅ぼすと共に、義経を倒す。1192年に征夷大将軍に任じられた。これにより朝廷から半ば独立した政権が開かれた。この政権は後に鎌倉幕府と呼ばれ、幕府などによる武家政権は王政復古の大号令まで足掛け約680年間に渡り存続することとなる。源頼朝は1199年に死去した。享年53(満51歳没)。死因については、吾妻鏡は「落馬」、猪隈関白記は「飲水の病」、承久記は「水神に領せられ」、保暦間記は「源義経や安徳天皇らの亡霊を見て気を失い病に倒れた」と記している。これらを元に、頼朝の死因は現在でも多くの説が論じられており、確定するのはもはや不可能である。(Wikipedia)