「柔道で放送が遅れるなんて、最期まで、なんとも崇徳らしい。」(井浦新)
生きながらの怨霊姿は迫力満点でした。
特殊メイクやVFXもありましたが、やはりここは俳優の演技力ですね。
日本人俳優が苦手とされる役作りと
歴史に対する理解がしっかりとできているからこその名演でした。
確かに、
西行あたりでは手も足も出ないでしょう。
今回だけで終わってしまうのは勿体無いほどの怨念。
壇ノ浦まで引っ張ってもよかったと思うほどでした。
白河院の胤にして鳥羽ちゃん、たまちゃん、なりちゃんによる愛憎の根源であった崇徳院や藤原忠通らが退場するのに合わせて、『平清盛』第二部が幕となりました。(ホント前回は何だったのか?)
第三部では、ますます貫禄に磨きをかけるであろう我らが平清盛と
『平家物語』の諸行無常を楽しみたいと思います。
※平基盛(たいらのもともり)は、平安時代末期の平家一門の武将。平清盛の次男。同母兄に重盛がいる。1156年の保元の乱に際しては、父とともに後白河天皇方に参加。18歳ながら宇治路の警護に当たり、東山法性寺の辺りで崇徳上皇方に参陣途上の源親治を捕らえるという大功を立てた。続く平治の乱(1159年)においては、父清盛らとともに熊野詣から無事帰京を果たして反乱軍を撃破。この政変を経て平家一門の政権基盤が確立されると、基盛も一門の有力者の一人として左衛門佐、遠江守、越前守を歴任した。しかし、応保元年(1161年)に憲仁親王皇太子擁立の疑いで左衛門佐等を解官されている(親族の時忠、教盛も同様の疑いで同日解官されている)。その直後からは押小路東洞院皇居の紫宸殿の造営の任に当たっているが、翌応保2年、同事業の完成と時期を同じくして、24歳で早世した。 定説では病死とされるが、『源平盛衰記』においては、宇治川を騎馬で渡河しようとした際に藤原頼長の怨霊に祟られ溺死した、と記されている。(Wikipedia)