のぼこの庵

のぼこの庵

大河ドラマの史上最高傑作『独眼竜政宗』(1987⇒2014再放送)と近年の最高峰『平清盛』(2012)の感想です。
ついでに『江~姫たちの戦国~』(2011)、『八重の桜』(2013)、『軍師官兵衛』(2014)、『花燃ゆ』(2015)の感想も。
あとは爺放談?

北陸新幹線の開業~敦賀延伸を機に北陸への関心が高まり、ネットや全国放送でも、富山県に関する話題を見聞きすることが多くなりました。

富山県民の一人としてありがたく誇らしいことではありますが、その内容について「そりゃないわー!」と思うこともあります。

以下、思いつくままに挙げてみました。

 

■富山県では方言で正座することを「おちんちんかく」と言う

一部のお笑い芸能人さん?が広めてしまったようですが、ほとんどの富山県民はこんな恥ずかしい富山弁使いませんし、聞いたこともありません。

福井弁の「おちょきん」なら可愛らしいんですけどね。

ちなみに簑島良二氏著「日本のまんなか富山弁」(2001年)では、オチンチンカク(お鎮々構く:正座する)を朝日、宇奈月、黒部、魚津の方言としています。用例として「おねえちゃんオチンチンかかんとこっちでひろがらっしゃい(くつろぎなさい)」・・・って、やっぱり恥ずかしい。

 

■富山県では方言で奢(おご)ることを「だいてやる」と言う

よく「おちんちんかく」とセットで紹介される富山弁ですが、こっちは・・・?

前出の「日本のまんなか富山弁」では、ダイテ(出して)を大沢野、富山、婦中、八尾、氷見、福光の方言としています。用例として「今夜は俺がダイテやる(勘定を払ってやる)」・・・。

あーねー、旧富山市も入ってんのか・・・んー「だいたっちゃ」「だいたげっちゃ」なら聞いたことあるかも・・・?

 

■富山県民はブラックラーメンが大好き

元祖は大喜の中華そばですよね? 他のは知りませんが、これは食べたことがあります。さすがは、戦災で焼け野原になった旧富山市を復興させるために汗水流した労働者さん達の「おかず」として考え出されたと言うだけあって、その塩からさ(しょっぱさ)は半端じゃない。ちなみに西町大喜ではかつてメニューにライスがなかったとか。白米は労働者さんのお持ち込みだったんでしょうね。

 昭和20年富山大空襲後の風景

好き嫌いはあるでしょうが、私は好きじゃありません。ごめんなさい。ラーメンと言えば柳の下末弘軒のワンタンメンか、今は休業中ですが西町かねやさんの中華そばの方が好みです。8番らーめんもたまに食べたくなります。何でやろ?

 

■ます寿しの元祖は源の「ますのすし」ではない

ます寿しの起源は江戸時代享保年間(1716~1736年)の鮎寿司であり、かつて神通川沿いには何件もの川魚料亭があって、生なれ(米と一緒に食べるなれずし)や早寿司(酢を使用)の鮎寿司や鱒寿司を扱っていたと聞きます。

 かつての神通川沿いの川魚料亭

一方で、源の「ますのすし」は、料亭旅館業だった源(みなもと)が明治45年(1912年)から国鉄富山駅で駅弁として販売し全国ブランドに押し上げたもの。古来の鱒寿司とは違うのかも知れません。

しかし今では、源よりも創業年の早い4店を含め、富山市内の主要12店が、全て同じ駅弁タイプのます寿しを販売しています。

 富山ます寿し協同組合HPより

であれば、源の「ますのすし」こそが、ます寿しの元祖と言っても差し支えないのではないでしょうか?

ちなみに、富山県民は、ます寿しを「ますのすし」ではなく「ますずし」と呼びます・・・よね?


■富山県では回転寿司であっても銀座の寿司屋より旨い

そりゃ褒め過ぎ。お店にもよりましょうが。

ただし、スーパーで売ってるお刺身は東京のとは明らかに違いますね。新鮮な地場もんですもんね。

 

■「おわら風の盆」は富山県を代表する伝統芸能である

間違いではないのですが、日本最古の民謡と言われる五箇山(旧利賀村、平村、上平村)のこきりこ節や五箇山・旧城端町の麦屋節に比べると旧八尾町のおわら節の歴史は比較的浅く、起源は江戸時代に遡るものの、現在の越中おわら節が完成したのは昭和4年(1929年)頃であり、昭和10年(1935年)頃から風の盆(二百十日)の町流し行事が始まったと聞きます。

だからといって価値が下がるわけではありません、念のため。

 

■富山は石川と仲が悪い

んなことないですよねー?

搾取する側とされる側だったなんて昔のことですしねー?

「越中さ」はツンデレさんの愛情表現ですよねー?

 

■富山は福井よりはマシだと思っている

んなことないですよね。

北陸新幹線敦賀延伸の日に富山駅で福井県のイベントがあったんですけど、恐竜の展示に大盛り上がり、ソースカツ丼の屋台に大行列でしたもん。

福井県の実力、侮り難し畏るべし。

 

■富山還水公園には世界一美しいスタバがある

正確には「世界一美しい(と言われる)スタバがある」ですかね? 誰が言ったのかは知りません。

お店そのものではなく、季節おりおり、朝夕おりおりの還水公園の景観に溶け込んだスタバが美しいのであって、ぜひ足を運んで、その姿を愛でていただきたいですね。

 

だいぶ前にこのブログで富山県民と石川県民がお互いに反発しながらも意識し合う様子を「ダブルツンデレ」と揶揄したことがあります。

 ⇒富山と石川はダブルツンデレ?

 

両県民の仲が良くないだのライバル関係だの県民性がどうだのと殊更にあげつらうのはあまり生産的とは思えませんが、両県の歴史を知ることは互いの理解を深めるためにも必要なのではないかと思います。

 

そこで、富山県と石川県に福井県を加えた北陸3県が現在の領域となるまでの歴史的経緯をまとめてみました。

なお、文はwikipediaから、図はwikipediaならびに富山市郷土博物館および富山県公文書館その他の自治体資料等から拝借しています。

 

1.越中国ができる前

■越国(高志国)(7世紀頃)

 

・越国(こしのくに:高志国とも)は現在の福井県敦賀市から山形県庄内地方の一部に相当する地域の古代における呼称である。

・御食国(みけつくに:朝廷に海産物を献上した)である若狭国(わかさのくに)は越国に含まれない。

・敦賀(角鹿:つぬが)も御食国の一部と言えるが交通の要衝であることから越国に含まれている。

 

「コシ」の語源ははっきりしておらず「越」「高志」「古志」と、いろいろな字が当てられています。富山県では「高志」を積極的に使用していますね。

 

 

2.越中国、越前国ができたころ

■越国の三分割(702年頃までに分割完了)

 

・大宝律令による令制国の設置に伴い、越国は畿内に近い地域から順に、越前国(えちぜんのくに)、越中国(えっちゅうのくに)、越後国(えちごのくに)の3国へと分割された。

・越中国は当初、越後国4郡(頸城郡・古志郡・魚沼郡・蒲原郡)を含んでいた。

・若狭国は越前国に含まれない。

 

分割された理由は「そもそも越(高志)はヤマト王権とは独立した豪族の勢力圏だったが、ヤマト王権の傘下に入ったことで統治しやすいように分割された」ようです。

もっとも、越がヤマト王権に取り込まれたと言うよりも、現福井市の地から第26代継体天皇(けいたいてんのう:聖徳太子の曾祖父にあたる)が立ったことで越(高志)とヤマト王権の親密な関係が確立されたのかもしれません。

その意味では若狭国は早くからヤマト王権の影響下にあったようで、考古学的にも四隅突出型墳丘墓に代表される独自の文化を育んだ越国や出雲国とは異なるとのことです。

 

3.能登国、加賀国ができたころ

■越前国から能登国(718年)と加賀国(823年)が分立

 

・718年、養老律令制定により越前国から羽咋郡、能登郡、鳳至郡、珠洲郡の四郡を分立して能登国(のとのくに)が成立した。

・823年、越前国から江沼郡と加賀郡を割いて加賀国(かがのくに)が設置された。江沼郡の北部から能美郡、加賀郡の南部から石川郡が分けられた。加賀郡は後に河北郡と呼ばれる。

・なお、若狭国、佐渡国は越前国、越後国から分立したものではない。

 

越前の国府(かつての府中⇒武生⇒現越前市)は都に近く、そこから加賀や能登は遠く離れて統治しにくいことから、さらに3分割されたようです、

 

4.大伴家持が越中国守だったころ

■能登国が併合された越中国(741~757年)

 

・能登国は天平13年(741年)越中国に併合されるが、天平勝宝8年(757年)再び分立した。

・この間、天平18年(746年)大伴家持(おおとものやかもち)が国守として越中国府に赴任してくると天平勝宝3年(751年)京へ戻るまで、越中国内(能登国を含む)で数多くの歌が詠まれ万葉集にも記録された。

 

越中と能登がひとつの国だった時代が足掛け17年ありました。武人でもあった大伴家持さんはさぞ立山連峰、富山湾や能登半島の雄大な景色に魅了されたことでしょう。いい歌ができるはずですね。

 

5.越中国の4郡

■越中国の四郡(757年~)

 

・天平勝宝3年(751年)以降、越中国の領域は現在の富山県域と同じであり、以下の4郡で構成されている。

・婦負郡(ねいぐん、めひのこおり):婦負は、もと売比(めひ)と書いた。地名の由来について、姉倉比賣神社(あねくらひめじんじゃ)に由来するという説や、鵜坂神社の祭神である鵜坂姉比咩神(うさかねひめのかみ)・鵜坂妻比咩神(うさかめひめのかみ)に由来するとする説、杉原神社のある杉原野開拓伝承に、沼に落ちた女神を男神が背負って助けた(婦を負う)という史話がある。

・新川郡(にいかわぐん、にいかわのこおり):「新川」は常願寺川の古名である。婦負郡との境界は明確なものではなく、かつては常願寺川が合口から西北に流れ、鼬川(いたちがわ)と赤江川に沿う形で北流し、神通川に合していたと考えられており、その旧流を郡境としたとされる。なお、富山は新川郡に属している。

・礪波郡(となみぐん、となみのこおり):郡名は平城宮跡出土の木簡や万葉集に「利波」がみえる。「礪波」は万葉集をはじめ東大寺や正倉院の文書などにみえる。

・射水郡(いみずぐん、いみずのこおり):語源には諸説あり、「出水」と解して「川口」もしくは「湧泉地」の意とする説、文字通り射られた矢のように速い川の意とする説などがある。律令時代には伏木(現高岡市)に越中国府が置かれた。

 

姉倉比賣神社についてはぜひこちらをご覧ください。

  ⇒姉倉姫神話の由来~肯搆泉達録と三州奇談~

 

6.戦国時代1(畠山、神保、椎名、一向一揆そして謙信)

■戦国時代の越中国1(永禄3年:1560年頃)

 

・戦国時代の越中国は戦国大名による強い支配政権が成立せず、国内における権力闘争や隣国の侵攻などを受け、そのたびに争乱が起きる事態にあった。

・越中国は室町時代、畠山氏が守護職を務めていたが、応仁の乱の後は能登畠山氏の両国となった。能登畠山氏の衰退・滅亡後、越中国は守護代の神保氏(富山城)、椎名氏(松倉城)が実際の統治を担当していたが、この両者の支配力もさほど強力なものではなく、隣国の加賀国の影響もあって一向一揆の力が強まることになる。越中一向一揆と手を結んだ神保氏が次第に越中での権勢を強めたため、畠山氏は越後守護代の長尾氏に神保氏追討の出兵を要請した。

・永禄3年(1560年)3月、神保長職(じんぼうながもと)・越中一向一揆連合軍が椎名康胤(しいなやすたね)の松倉城に侵攻した。康胤の後詰として長尾景虎(上杉謙信)は越中に出兵して越中一向一揆を破り、長職が立て籠もった富山城を落とした。

・神保長職の勢力は大きく翳り、上杉氏派の椎名康胤の勢力が拡大した。ところが永禄11年(1568年)3月、康胤が武田信玄と越中一向一揆の後援を受けて謙信に反逆するに至る。このため同年以降、元亀2年(1571年)にかけて上杉謙信はたびたび大軍を率いて越中に侵攻した。

・神保氏は神保長職の嫡男・神保長城(長住)が後継者となり、長城は武田信玄を後ろ盾とした椎名康胤と対抗するために上杉謙信に従属していた。しかし元亀2年(1571年)に一向一揆と和睦して武田信玄と通じ、上杉謙信と敵対するようになった。

・元亀3年(1572年)5月、武田信玄の西上作戦支援のため、加賀一向一揆が越中に侵攻したことに呼応し、9月、上杉謙信が越中に出兵し、加賀一向一揆・越中一向一揆連合を破った。一連の攻防で越中中部から駆逐された加賀・越中一向一揆は、これ以降勢力を衰退させていった。椎名康胤も居城松倉城を攻囲され、元亀4年正月、降伏開城した。その後、上杉謙信は、増山城、森寺城などを落城させ、越中を制圧した。

・天正6年(1578年)3月、上杉謙信が死去。織田信長は越中へ神保長住に兵を付けて送り、上杉氏方が敗退。越中では織田信長勢が優勢となった。

 

P.A.WORKSのアニメ『クロムクロ』で、剣之介が由希奈に「安住の城(あずみのしろ:富山城)の城主は誰だ? 神保か上杉か?」と尋ねるシーンがありました。剣之介はまさにこの時代、争乱真っただ中の越中に生きていたのですね。

まあ、「安住」は後に戦乱の越中を統一した佐々成政が、安住の地となることを願って名付けたとの説もありますが・・・こまけぇこたぁいいんだよ。

 

7.戦国時代2(佐々成政による越中統一と秀吉への降伏)

■戦国時代の越中国2(天正10年:1582年頃)

 

・天正10年(1582年)、柴田勝家・佐々成政を司令官とする織田氏の北陸侵攻が始まり魚津城を攻め落とした。神保長住は親上杉派神保氏の離反を招き追放された。

・同年、本能寺の変で織田信長が横死した後、柴田勝家の支援の下で佐々成政が越中を支配した。

・天正11年(1583年)、羽柴秀吉が上杉景勝と結んだことから、賤ヶ岳の戦いで柴田勝家に付いた佐々成政に圧力を加えた。成政はザラ峠を越えて徳川家康に同盟の説得をするも果たせず越中に孤立した。

・天正13年(1585年)、佐々成政は羽柴秀吉に降伏の意を示していたが、秀吉は大軍を率いて富山城を包囲し開城させた。成政は新川郡を安堵されるも京に遷り、秀吉により越中が統治されることとなった。

 

佐々成政の悲劇は越中の悲劇。その辺はぜひこちらをご覧ください。

 ⇒磯部堤ぶらり火伝説の由来~三州奇談~

 

8.加賀百万石のころ(江戸時代)

■加賀百万石時代の越中国(1639年~1871年)

 

・織田信長によって能登1国を与えられていた前田利家は、天正11年(1583年)の賤ヶ岳の戦いにおいて柴田勝家から羽柴秀吉に降って加賀2郡を与えられた。

・さらに天正13年(1585年)利家は、勝家支援のもと越中を統一していた佐々成政と戦った功績によって、秀吉から嫡子・利長に越中のうち射水・砺波・婦負の3郡32万石を与えられた。

・文禄4年(1595年)加賀前田家は越中の残る新川郡をも加増され、総石高は合計83万石に達した。

・慶長5年(1600年)加賀前田家は関ヶ原の戦い後に加賀南部の西軍大名の旧領(丹羽長重の小松12万石と山口宗永の大聖寺6万3,000石)を授けられ、加越能3か国全土に及ぶ所領を獲得した。

・寛永11年(1634年)加賀前田家2代・利常(利長の弟)の時代、加越能3か国内での表高119万2760石が確定する。

・寛永16年(1639年)利常が隠居し3代・光高へ家督を譲るとき、次男・利次、三男・利治を取り立てて支藩とし、越中富山藩10万石と加賀大聖寺藩7万石(後に10万石)をそれぞれ分与した。

■加賀前田家の領地(1639~1871年)

 

・なお、藩という呼称は、江戸時代には公的な制度名ではなかった。明治元年(1868年)に初めて公称となり、一般に広く使用されるようになった。

 

加賀前田家の石高は、加賀藩だけで100万石、富山藩と大聖寺藩を加えれば119万石になります。

ただし、国別では加賀国44万石、能登国22万石に対し、越中国53万石です。加えて越中国には豊富な鉱山資源、森林資源がありました。

 

9.明治維新(廃藩置県)のころ

■廃藩置県初期(1871年)の加越能

 

・明治4年7月14日(1871年8月29日)の廃藩置県当初は藩をそのまま県に置き換えたものだった。加賀藩は金沢県となった。

・なお、令制国名は、廃藩置県の前後においても地域名称として公に使用され続けている(行政単位としては有名無実ながら正式に廃止された経緯はない)。

 

加賀藩がなぜ加賀県でなく金沢県になったのか? それは廃藩置県より前の版籍奉還(明治2年)にあたり、加賀藩が金沢藩と改名されたからです。藩庁のある場所を藩名にするのが原則であり、同様に尾張藩⇒名古屋藩、紀州藩⇒和歌山藩、長州藩⇒山口藩、土佐藩⇒高知藩などとなりました。

 

10.今はなき新川県、七尾県、金沢県ができたころ

■新川県、七尾県、足羽県、敦賀県の成立(1871年)


・明治4年(1871年)11月20日、第1次府県統合により、富山県(第1次)全域(かつての富山藩の領域=婦負郡および新川郡の一部)に、金沢県(かつての加賀藩の領域)の礪波郡と新川郡を併せて新川県が成立した。県庁は当初富山城跡に設置しようとしたが、陸軍省の管轄になっていたため大蔵省管轄の県庁を設置することができず、加えて城外に適当な建物がなかったことや新たに建設をする余裕もなかったことから、魚津の旧加賀藩郡代役所に移され、県名も郡名を取って新川県に改称された。

 ⇒魚津が県庁所在地だった

・同じく第1次府県統合に伴い金沢県のうち能登国と越中国射水郡が分離され七尾県が発足した。県庁は鹿島郡所口村(現七尾市)の小丸山城跡に設置された。

・同じく 第1次府県統合により、越前国北部の5県が統合され、改めて福井県が発足したが、わずか1ヶ月で福井が所属する郡名から足羽県に改称された。また、越前国今立郡・南条郡・敦賀郡および若狭国一円の区域をもって敦賀県が発足し、管轄地域内に藩庁が所在した鯖江県・小浜県が廃止された。

 

多すぎる県を再編するにあたり、今度は県庁のある令制国の郡の名を県名にするのが原則となりました。しかし、この時点で能登国に七尾郡はありません。七尾は鹿島郡に属していました。鹿島県とすべきところなぜ七尾県となったのか? 鹿児島県と紛らわしかったからでしょうか? 金沢県が河北県に改称されていないのは元からあった県名はそのままということでしょうか? でも富山県は新川県に変わりました。県庁が魚津に移転したからでしょうか?

明治政府のやることはよくわかりません。各地は混乱したでしょうね。

 

11.富山県が新川県だったころ

■七尾県が石川県と新川県に併合(1872年)

 

・明治5年(1872年)2月2日、金沢県は県庁を石川郡美川町(現白山市)に移し、この郡名より石川県と改称した。

・明治5年(1872年)9月25日、 七尾県は射水郡を新川県に、残部を石川県に併合し、廃止となった。

・越中国のうち射水郡のみは七尾県に編入されていたが、新川県に編入されたことにより、越中国が初めて1つの県となり、現在の富山県の領域と同じになった。

・明治6年(1873年)、新川県庁が富山城跡に戻され、石川県の県庁も金沢に移転したが、県名はその後も新川県、石川県のままとされた。

・同年、敦賀県は足羽県を編入し、現在の福井県とほぼ同じ県域となった。

 

七尾県が1年もたず廃止されてしまったのは、能登国と射水郡(七尾と高岡)の間で何かあったのでしょうか? 1県として規模が小さすぎたからでしょうか? でもそんなことは最初からわかっていたはず。おかげで県庁を河北郡金沢から県中央部の石川郡美川へ移転していた金沢県⇒石川県もまた慌ただしく県庁を金沢へ戻すことになりました。

やっぱり明治政府のやることはよくわかりません。もっともこの頃は岩倉使節団が訪米・訪欧の最中(政府首脳が不在)で、国内は西郷どんや五百円札の板垣さん、早稲田大学の大隈さんあたりが頑張っていた時期ですから、混乱に拍車がかかっていたんでしょうね。

 

12.大石川県からの分県運動のころ

■大石川県の時代(1876~1883年)

 

・明治9年(1876年)4月18日、第2次府県統合により新川県全域が石川県に編入され、廃止された。

・同年8月21日、敦賀県は嶺北が石川県に、嶺南は滋賀県に編入され、廃止された。

・その後、石川県では加賀国優先の政策が執られたたため、越中国内と越前国内では活発な分県運動が展開された。これに対し石川県は、特に越中国について「越中は藩政期に加賀藩の庇護を受け、さんざん迷惑をかけやっかいになり続けたのに今さら分県などけしからん」と強く反発し阻止に暗躍した。しかし、明治政府は石川県を「大県および不平士族が多い故の難治の県」として問題視し、天皇にまで県治改革を奏上しており、分県の追い風となった。

・明治14年(1881年)2月7日、旧敦賀県の嶺北、嶺南がそれぞれ石川県、滋賀県から分離、合併して福井県となった。

・明治16年(1883年)5月9日、越中国の4郡が石川県から分離され、富山県となった。

 ⇒富山県の独立①

 ⇒富山県の独立②

 ⇒富山県の独立③

 

富山県と福井県嶺北では悪名高い大石川県時代です。でも、一旦石川県に併合されていた越中国、越前国は、独立をもって県名を県庁所在地と同じにすることができました。その点、石川県は金沢県に変える(戻す)時機を得られませんでした。

なお、福井県の独立後、嶺南では滋賀県への復帰運動が起こり、福井県は慰留のため嶺南優先の政策を執ったそうです。現代でも道州制の議論の中で嶺南の一部の首長は「北陸道」からの離脱を表明しているとのこと。でもね、7世紀以来1300年以上、嶺南はずっと「北陸道」なんですよね。

ちなみに、横綱の太刀山と二代目梅ヶ谷は大石川県時代に越中国で生まれていますが、番付での出身地は富山でも石川でもなく「越中」と書かれていました。

 

13.現在の県域

■現在の北陸3県(1883年~)

 

・富山県は越中国、石川県は加賀国と能登国、福井県は越前国と若狭国をその県域としている。

・北陸3県では、県庁所在地である富山市・金沢市・福井市が、それぞれの県での中心都市となっている。富山は重工業を中心として経済力が発達しており、金沢は観光と商業が発達、福井は軽工業が発達している。また、北陸3県は発電所の建設に適した立地に恵まれ発電所が多く存在している。

・一向一揆の拠点であった北陸3県では浄土真宗(真宗)への信仰心が際立って高く、「真宗王国」とも呼ばれる。

 

「浄土真宗(真宗)」は歴史上、浄土宗からの圧力によりご公儀に「一向宗」と称されたことがありますが、お寺や門徒達は決して自らを一向宗と呼ばなかったたそうです。

ちなみに、現代の道州制の議論において、北陸道を3県とする案と新潟を含めた4県とする案がありますが、2009年に北陸経済連合会が実施した3県内でのアンケートでは圧倒的に3県推しが優勢でした(3県推し・4県推しの比率:富山県26%・6%、石川県42%・4%、福井県27%・2%以下)。もっとも道州制への認知度は38%しかなかったそうです。今はもっと低いでしょうね? 北陸3県で協力し合うのは当然としても、だからといって「くっつく」のは別儀ですよね。

 ⇒道州制に関するアンケート

 

歴史を知りつつ、今と未来を見つめて、がんばろう北陸。

 

※8番らーめんは北陸3県を中心に広がるラーメンチェーン店(富山県31店舗、石川県49店舗、福井県27店舗、本店加賀市)。「8番のラーメン」は3県民共通のソウルフードである。8番らーめんのキャッチコピーは「なんでやろ、8番」。また食べたくなるという客の声を反映させたとされる。(wikipediaより一部加筆修正)

富山市磯部町の磯部堤(いそべのつつみ)には、明治初期まで、夜な夜なぶらり火(ぶらりび:鬼火、人魂)が出るという噂があったそうです。

面白いのはこの噂が「明治初期まで」だったこと、つまりは「越中の人々が加賀前田家の支配から解放された時まで」だったというところです。

なんとなれば、磯部堤のぶらり火にまつわる伝説そのものが、前田家によるでっち上げだったからです。

 

磯部堤のぶらり火伝説とは、こういうものです。

「天正年間。富山城主の佐々成政に早百合という妾がいた。早百合は大変美しく、成政から寵愛をうけていたため、奥女中たちから疎まれていた。あるとき、奥女中たちは早百合が成政以外の男と密通していると讒言した。成政はこれを真に受け、愛憎のあまり早百合を殺し、(富山城の搦手口にあたる)磯部堤で木(一本榎)に吊り下げてバラバラに切り裂いた。さらには早百合の一族までも同罪として処刑されることになった。無実の罪で殺されることになった一族計18人は、成政を呪いつつ死んでいった。以来、毎晩のようにこの地には「ぶらり火」または「早百合火」と呼ばれる怪火が現れ、「早百合、早百合」と声をかけると、女の生首が髪を振り乱しながら怨めしそうに現れたという。また成政は後に豊臣秀吉に敗れるが、これも早百合の怨霊の仕業と伝えられている」(wikipediaより)

 磯部堤(磯部の一本榎跡)

 

その元ネタのひとつが『三州奇談』(さんしゅうきだん:宝暦~安永年間(1751~1772)完成)第五巻にある「妬気成霊」(ときしょうりょう?)です。

『三州奇談』は主に加賀・能登・越中(三州)の民間伝承による怪談・奇談を集めたものですが、「妬気成霊」には時の権力者である前田家におもねった脚色や表現が見られます。

 

以下「妬気成霊」の全文(一部現代語訳)です。

越中婦負郡呉服村(今は五福村と云えり)呉服の宮は、神名婦倉媛命(あねくらひめのみこと)と云い、能登国能登彦(のとひこ)神の婦なり。一日婦倉媛織をなすとて、此くれはの村に飛び給う。能登彦の神この隙を窺(うかが)いて、能登媛(のとひめ)の神を迎えて後妻となす。婦倉媛怒りて、越中新川郡上野村に出で、能登彦の社地に向いて石を投げ、終に石を投げ盡せりとて、上野村一郷地中今に石なし。其神今は同郡の内舟蔵村に鎮(しずまり)し給う。織を業となす者、皆此社に詣ずるに、祈るに時に必験し(かならずためし)あり。さいみ布(貲布:織り目の粗い麻布)を切りて団子を包みて祭礼をなす。土俗(どぞく:土地の風俗)ひへこ祭と云う。あんねん坊(安養坊の誤りか:呉羽山と同義か)の下呉服村にも此の祭あり。両社式相似たりとぞ。此等は神の妬気(とき:嫉妬心)(が由縁)なるべし。

呉服村は即ち富山神通川の辺り、あんねん坊(呉羽山)の麓なり。此の辺りぶらり火と云う燐火(りんか:ひとだま)あり。此の謂れ(いわれ)を聞くに、是も妬気の霊なりとかや。往昔(おうせき)佐々内蔵助成政、此の富山に守護たるの時、一人の愛妾あり、名をさゆりと云う。或る年懐孕(かいよう:懐妊)す。別妾の嫉妬より、小従(ここしょう)竹澤某と密通して産ましむる所なりと讒言(ざんげん)する故に、内蔵助成政大いに怒る。是れ又由縁あり。過ぎし年佐々成政織田信雄卿に同意して、天下を謀らんと思い立ち、義気盛んにして、北国雪風の烈しきを少しも恐れず、有り合う所の近習五六十人を引いて、立山の傍を無理に押し通り、道もなき山路を凌ぎて越ゆと云う。此の時しも従組の中竹澤某一人は、病気なりとて随(したが)わず。故に詞(ことば)には云い出さずといえども、佐々常に疑う。是に依りて此の讒言を大いに誠なりとし、此の事実を匡(ただ)すにも至らず、竹澤某を庭前に呼び出だし、自ら佩(は)ける三尺二寸の江(あおえ:備中国青江)の刀を取りて、一打に切り殺し、直に(ただちに)広敷(ひろしき:広間)に駈け入り、さゆりが長けなる髪を手に巻きて引さげ出で、此の神通川の河側に駆け出で、さゆりが髪を逆手に取って、中に引きさげ、さげ切りに切って落とし、川そばに柳の枝のたれ下りしに黒髪を結びて、首をくくり下げ、其の傍らに於て、さゆりが一類(いちるい:一族)十八人を悉く獄門に為す。一類皆無実の事を怒り、詈(ののし)りて死す。さゆりも又大いに恨み、歯を噛み砕きて終(つい)に死につく。是れにより成政が威風又振るわず。総て神通川を越え、あんねん坊(呉羽山)を越ゆる軍には一度も利あることなし。末森の城責(能登末森城の責任者)などは、(末森攻めは)佐々久しく練りたる謀(はかりごと)なれば、城の二つ三つはいかなりとも落すべきことなるに、何の仕出したる(しだしたる:成し遂げる)こともなく、加州(加賀)の先君(前田)利家公並びに村井、奥村が鉾先に追い崩され、すごすごと帰城す。是れ全く彼の(かの)さゆりが一念障碍をなすが為なりと云う。佐々なすこと皆時を得ず、終に家亡ぶ。佐々聚楽(じゅらく:聚楽第)にて黒百合が為に讒(そしり)を請け、尼ヶ崎に死す。皆此の霊なり。其の後年久しうして、富山は加州候の属地となりて、猶(なお)さゆりが執念此の川の辺りに残る。時として天気朦々たる時は、此のあたりに獄門の首多く並ぶを見ると云う。又暗夜に此の地にて、さゆりさゆりと呼ぶ時は、必ず女の首顕(あらわ)れ出ずと云う。今は年久しうして、其の事甚だ少なしといえども、ぶらり火に至りては今も夜々に出ず。其の形ち女の首を髪を取りて引きさげたる有様に似たり。此の川下を百塚(ひゃくづか:縄文時代以降の遺跡や墳墓・古墳がある)と云う。上古より墳墓の地なり。故に妖怪も又多かりしが、今は国君(こっくん:君主、ここでは富山藩主)の菩提所となりて、千万の石灯籠光り赫々(あかあか)として空山に満ち、朝暮読経の声絶えず、上求菩提(じょうぐぼだい:「上求菩提下化衆生」で​​上に立つ者がさらに上を目指し下に向かっては衆生を教化・救済 すること)の道明らかなれば、妖怪の事は頓み(とみ)に去りて、清浄の霊場と変じたりしとぞ。

 

以上です。

史実では早百合の処罰は実際にあったものの、父親の与左衛門をはじめ一族には何の咎めもなく、現に子孫が富山市内で生き残っていることが確認されています。

また、早百合の呪いとされる「黒百合伝説」も、成政が生きた時代と寧々・茶々の対立時代(秀吉の死後、武断派と文治派の派閥争いに正室と側室の勢力争いがからみ合った対立関係)が完全にすれ違っていることから、つくり話というのが真相のようです。

前田家は、前田利家に因縁のある佐々成政がよほど憎かった、と言うよりは、越中国内における成政の高評価が越中支配の邪魔だったようで、成政に関する資料を抹消し、あるいは歪め、成政の評判を落として悪逆非道の武将というレッテルを貼りました。

磯部堤のぶらり火伝説もそのひとつなのです。

 

一本榎跡近くにある早百合観音祠堂の富山市による案内板にも、「この伝説(黒百合伝説)は後に越中を支配した前田氏が治国の策として成政を暴君に仕立てるために作られたともいわれている」と書かれています。

  早百合観音祠堂の案内板

 

以下、遠藤和子著「佐々成政」からの抜粋です。

 

成政の後を受け継いで越中を支配したのが、前田氏。領民たちが成政を敬愛し、賛仰(さんぎょう:聖人や偉人の徳を仰ぎ尊ぶこと)しているだけに、治国政策に苦慮し、成政の非を言挙げ(ことあげ:ことさら言葉に出して言いたてること)せねばならなくなった。

そこで目をつけたのが「早百合処罰」。ことさらにゆがめて流布し、暴君、残虐なイメージをつくりあげた。また、子どもたちの七夕祭りにも「早百合こいこい」と書かせて、徹底的にイメージダウンをはかった。(中略)

前田氏は越中に対して、さまざまな人心収攬(じんしんしゅうらん:人々の心をうまくとらえてまとめること)策、和合政策を実施して、幕末まで支配下においた。これに対して、越中の領民は従順であったが、明治期に入って幕藩体制が解体し、前田氏の支配が終わったとたん、佐々成政賛仰熱が高まった。(中略)

越中の独立は、越の国が越前、越中、越後の三国に分割された持統帝六年(694年)で、能登(757年、越中国より割く)、加賀(823年、越前国より割く)よりも古い。そうした単独国家としての意識が強いのに、佐々成政時代を最後として加賀に併呑(へいどん)されたという無念さがある。

それだけでなく、越中の莫大な金銀山や黒部奥山の大森林、肥沃な越中の年貢収納によって、加賀百万石は潤いながら、内実、越中は加賀の植民地のような扱いを受けた。(中略)越中の人びとが「佐々成政の悲劇は、越中の悲劇」と思い込むのも無理はない。

こうして起こった分県運動が功を奏し、明治十六年(1883年)五月九日、富山県として再出発することができた。民衆が、佐々成政当時の越中の国を、三百年の空白期間を置いて取り戻し、無念の思いをして越中を去ったに違いない成政に、恩返しをしたといえよう。

 

※佐々成政の家臣が著した「武功夜話」には「前田利家は成政から大変に御恩を受けた。流浪しているときには成政にかくまってもらい、精神的にも経済的にも助けてもらった。織田家に再仕官するときには、戦で佐々勢に加えてもらうなどして助けてもらった。これだけ御恩を受けていたにも拘わらず、利家は成政を裏切った」と重臣たちが嘆いていたことが書かれています。(中略)私は越中の民衆が成政を慕っている理由として、初めは「善政をしいたから」「悲劇の武将だから」だと思っていましたが、調べているうちに、越中の民衆は、成政の悲劇と同じように自分たちも悲劇の共有者であると感じているに違いないと思うようになったのです。成政が去って以来、越中の国は約300年間、加賀藩に支配されました。これを越中の民衆は屈辱に感じていたと思われる資料がいくつもあるのです。

富山県商工会議所連合会 遠藤和子氏講演録より

 

富山市には舟倉(旧大沢野町船峅)と呉羽町姫本にそれぞれ姉倉比賣神社(あねくらひめじんじゃ)があります。

どちらも姉倉姫(あねくらひめ)というジモトの女神様を祀った神社です。

なぜ20km以上離れた所に同じ名前の神社があるのか?

その由縁は、江戸時代に各地の神話や伝説をまとめた書物によって明らかになっています。

 

以下、越中通史の先駆けともいえる壮大な物語記録『肯搆泉達録』(こうこうせんたつろく:1815年完成)の巻頭を飾る姉倉姫神話「船倉神と能登神、闘争の事」の全文(一部現代語訳)です。

新川郡船倉山(ふなくらやま)の神を姉倉比売(あねくらひめ:以下姉倉姫)と云い、能登の補益山(ふえきやま)の神を伊須流伎比古(いするぎひこ:以下石動彦)と云う。(石動彦は)姉倉姫と陰陽(めお:夫婦)の神なり。

また、能登の杣木山(そまきやま)の神を能登比咩(のとひめ:咩は原文では日偏に畢:以下能登姫)という。

石動彦、姉倉姫を遠ざけ能登姫と陰陽の契(いんようのちぎり:男女のまじわり)浅からざりければ、姉倉姫妬(ねた)みたまい、一山の石を盡(つく)し礫(つぶていし:石ころを投げつけること)して能登姫を攻め給う。

布倉山(ぬのくらやま:現尖山)の神、布倉媛(ぬのくらひめ)も姉倉姫に力を戮(あわ)せて布倉山の鉄を打ち砕き給いければ、能登姫、姉倉姫の手暴(てごわ)きを怒り、颶風(おおかぜ)を起こし、海濤を山壑に𣿐ぎて(かいとうをさんがくにそそぎて:大波を山や谷にうちかけて)防ぎ給う。

また、加夫刀山の神、加夫刀比古(かぶとひこ)も能登姫を援(たす)けて射水郡宇波山に出で坤軸を鑪とし(こんじくをたたらとし:大地の軸を溶鉱炉とし)隕(お)つる鉄石を鎔かし海に淪(しず)め給う。

闘争久しうして止まず、怒気積陰をなし(どきせきいんをなし:怒りがみなぎって暗くなり)渾々沌々(こんこんとんとん:混沌に同じ)として両儀(りょうぎ:天地)の光を見ず。四序分たず(しじょわかたず:四季、昼夜の区別なく)、蒼生育せず(そうせいいくせず:人々が生活できず)、故に、天地の諸神これを愁い給い、高皇産霊尊(たかみむすびのみこと:天地創造神の一柱)に告げ給う。

尊驚かせ給い、大已貴命(おおあなむちのみこと:大国主命の別名:以下大国主命)に勅(みことのり)し、「闘争を平ぐべし」とありければ、大国主命、勅を受け急ぎ越路に天降り給う。

大国主命、先ず越の神胤(しんいん:神々の子孫)を召(よ)び給いければ、雄山より手刀王比古命(たちおうひこのみこと)、船倉山より䋱子姫命(おきひめのみこと)、篠山より貞治命(さだぢのみこと)、布倉山より伊勢彦、能登の鳳至山中より釜成彦(かまなりひこ)、各(おのおの)来て命に見(まみ)え給う。

命曰く「姉倉姫、能登姫を後妻討(うわなりうち:前妻が後妻の家を襲うこと)し両神の怒り積陰をなし、霄壌(あめつち)に充ち塞がる。これ補益の陽神(ようじん:男神、ここでは石動彦)、爕理する(しょうりする:やわらげ納める)ことあたわざるは、もとより色に淫する(いろにいんする:色欲に溺れた)ゆえなり。今、我、勅を奉(う)けて討罰(とうばつ:討伐に同じ)す。汝等神孫、我と心力を一にして勲(いさお)あれ」と宣(のたま)いければ、各謹んで命にしたがう。

手刀王比古命曰く「教諭の如く、陰神(いんじん:女神、ここでは姉倉姫と能登姫)の怒りは陽神の致すところなりといえども、重く陽を誅(ちゅう)せば、陰専にして(もっぱらにして:見境がなくなって)かえって害あらん。ただ陰陽調和の謀(はかりごと)しからん。」とありければ、命、諾(だく)し給い、三神に先ず文告の命(ぶんこうのめい:文書による命令)あり。

次いで威譲の辞(いじょうのことば:脅し責める言葉)ありしに、(三神ともこれに)服し給わざりければ、遂に軍議し、貞治命をして五個の日鉾(ひぼこ:太陽をかたどった聖剣)を作らしめ、枲(からむし:麻の一種)を以て八尺(やさか)の幣を造って五色に染め、五の鉾に垂れ、五行の備(ごじょうのそなえ:五段の戦構え)を設(もう)く。

かくて大国主命、船倉を攻め給いけるに、山巓(さんてん:頂上)に方七里の池あり。宮城に登ること難ければ、山を鑿(うが)ち、池水を決(さぐ)りたまいけるに、忽ち一大流となり、池水盡(ことごと)く落ちて、前駆、容易に宮城に登りける。

姉倉姫すでに柿梭の宮(かきひのみや)へ逃げ給うと䋱子姫(おきひめ)告げ給いければ、命遂に柿梭の宮を攻め姉倉姫を捕らえ小竹野(おだけの:現富山市呉羽一帯の野)に流刑を命じ、また、「布を織って貢となし、世の婦女にも紡職の業(わざ)を教えて罪を贖(あがな)うべし」となり。

また、布倉姫を捕らえ、姉倉を援けし罪を責めて柿梭の宮へ遷(うつ)し、「柿の梭(ひ:機を織るとき横糸を送り出す道具)を作り綊(おさ:機を織るとき縦糸を治める道具)を編み、姉倉と同じく布を織り貢とし、また女功(じょこう:女の手仕事)を世に教えて罪を庚(あがな)うべし」と命じ給う。

姉倉・布倉の神すでに罪に服し給いければ、大国主命、能登の補益・杣木の神(石動彦と能登姫)を攻め、遂に擒(とりこ)とし、これ人民のためにもっとも戒む可き罪なりとて、二神を海浜に暴(さら)し給う。

また、加夫刀山の神、能登姫を援け給える罪を責めて、山を崩し遠く海を埋み、ここに加夫刀比古を置き、命じて曰く「風濤大いに起こらば、禦(ふせ)ぎて陸へ上(のぼ)すことなかれ。また、先ず人に報じ知らしめ、これを職とし罪を贖うべし」となり。

命すでに船倉・能登を平均(へいきん:平定に同じ)し給う。

五(いつたり)の神孫も各、丹誠を抽んで(たんせいをぬきんで:真心を尽くして)日鉾を捧げ、渾沌を鑿(うが)ち給いしかば、雲将・雨師、隊を乱して奔走し、飛廉・神公は深山幽洞に隠れ、海童・波臣は尾閭(びりょ)に遁げ入りければ、積陰忽ち披(ひら)いて陽光明らかに、天地位し(くらいし:あるべき姿に落ち着き)、万物育して北陸(ほくろく)静寧なり。

 

柿梭の宮は柿沢という所にあり、神の業を伝えて中古まで柿沢より柿の梭綊(ひおさ)などを作り出せり。姉倉姫、八構布(はっこうふ:八講布とも)を織りて世に教え給う。今に伝えて越中より八構布を出す。これ名産なりと『三才図絵』にも記せり。また、布市に一痕の流れあり。油川(あぶらがわ)、化粧川(けはいがわ)、曝川(さらしがわ)の三つの名あり。油川、化粧川とは、姉倉姫、能登を攻めんとしてこの川に臨み沐(かみあら)い化粧(けはい)し給うゆえに名づくとぞ。また、曝川とは、布倉姫、葛粉水(くずみず)をもって布をさらし給うゆえに称すと、また布倉姫、栽え給うとて布倉山に葛を生ず。これを製して鉄山葛(かなやまくず)という。また名産なり。また、能登の補益・杣木の神、中古まで、二月初午より神輿を海浜に遷し曝して祭礼とすと云えり。また、今に砲軍雲(かさぐも:荒天のきざし)起り、能登の海荒れんとする時に、加夫刀山に烽燧(ほうすい:のろし)の如き気を生ず。これ神の告なりとて、海中の船急ぎ陸へ避くるとなり。また、討罰の事畢(おわ)りて、五行の日鉾、各功ありし所に納む。かつまた、五の神孫もここに神とし祭れり。手刀王比古は太田保手刀王寺、水無(すいむ)の宮これなり。浹子姫命は月岡野月尊(つきよみ)の宮これなり。後、この所に潔き水湧いて池となる。月の清水と称す。釜成彦は砺波郡遊善山の下、風神・雨神(かざかみ、あまがみ)の宮これなり。風雨を司れる神にて、今に風を求めて風神の宮の樹を撼(うごか)せば風忽ちに起り、雨神の宮の池水を摶(う)てば雨驟(にわか)に至る。かつて商売の利を貪り米の値を昮げんとて樹を撼かし池水を摶ちしかば、大風雨して尽く禾稼(かか:穀物)を害す。故に稼穡(かしょく:収穫)終るまで山中に入る事を禁ず。

貞治命は射水郡闇野松田江の火の宮これなり。海上風波悪しく船覆らんとし、また、暗夜に方角を弁(わき)まえざる時、この宮の森に高く火燃えて海上を照らし、船を陸に導く。昔より北海の旅船難免るる事度々なりとぞ。伊勢彦は下村の神社これなり。今に祭礼に牛乗をなす。加茂の競馬(くらべうま)に似たれども、しからず。これ玄古の遺事なりとぞ。洪荒の世を語るは痴人の夢を説くごとくなれども和漢相同じ。『准南子』ニ曰ク「住古之時、四極廃シ、九州裂ケ、天ハ兼ネ覆ハズ、地ハ周ク載セズ、女媧氏、五色石を練リテ、以蒼天ヲ補ヒ、鼈ノ足ヲキッテ、以テ四極ヲ立ツ。」と。

 

船倉・能登の神、闘争の事、伝えて人口に膾炙す(じんこうにかいしゃす:だれの口にものぼり広く世間に知られる)。姉倉姫礫(つぶていし)せしより船倉上野(うわの)に一挙石を余さず(いっけんせきをあまさず:ひとつぶの石ころも残っていない)、奇とすべし。また、小竹野に流刑ありしによって、『延喜式』にも姉倉比売神社(あねくらひめじんじゃ:現在の二社のいずれか不明)は婦負郡七社の中に入れり。この余(ほか)遺跡の多く存すれば、徴(しるし)とするにたらん。

 

以上です。

また後日談として、「小竹野(呉羽)に流された姉倉姫は女たちに機織りを教え土地の人々から慕われた。姫が機を織っていると、窓から蝶が舞い込んで姫の仕事の手助けをした。この蝶は蜆ケ森(しじみがもり:貝塚がある)のシジミ貝が変化したものだった。また、数年後、姉倉姫が許されて故郷の船峅に帰るとき、無数の蝶が姫を慕って舞いながらついていった。」といった伝説も残っています。

こうした由緒があることから、本居地の船峅にも、流刑地の呉羽にも姉倉姫が祀られているのだということです。

 

富山市には、ヤマト王権以前(弥生時代末期、邪馬臺国連合の時代?)に出雲と何らかの協力関係があったと思わせる遺跡(四隅突出型墳丘墓:杉谷4号墳など)が出土していますが、越中神話の中でもジモト神と出雲大社の大国主命(大已貴命)との関係が語られているのは、いかにも興味深いところですね。

 

ちなみに、姉倉姫、石動彦、能登姫の(現在の神社の)位置関係は次のとおりです。

能登の補益山や杣木山がどこかわかりませんが、どこにせよ船峅から能登まで石を投げたって、姉倉姫の肩はどんだけ強いんだ。さすがは神様。

ただ、これに対して能登姫は、姉倉姫を攻め返したんじゃなくて、大風や荒波で防いだだけなんですよね。

なのに大国主命の御裁断では、姉倉姫の流罪(と言ってもそう遠くない地での機織りの普及とか比較的軽い罰)に対して能登姫は石動彦とともに「これ人民のためにもっとも戒むべき罪なり」として浜辺で晒しの罰を受けました。

晒しというのは、江戸時代には心中未遂や不義密通の男女なんかに精神的苦痛を与えつつ人々への見せしめとした刑罰だそうですから、肯搆泉達録の時代の倫理観に合わせた話になっているのかもしれませんね。

いずれにせよ本当に悪いのは浮気男というか二股かけたチャラ男の方なんですけどね?

 幕末の晒し刑(wikipediaより)

 

以下ついでに、三州奇談』(さんしゅうきだん:宝暦~安永年間(1751~1772)完成)第五巻より「妬気成霊」(ときしょうりょう?)の抜粋(一部現代語訳)です。

越中婦負郡呉服村(今は五福村と云えり)呉服の宮は、神名婦倉媛命(あねくらひめのみこと)と云い、能登国能登彦(のとひこ)神の婦なり。一日婦倉媛織をなすとて、此くれはの村に飛び給う。能登彦の神この隙を窺(うかが)いて、能登媛(のとひめ)の神を迎えて後妻となす。婦倉媛怒りて、越中新川郡上野村に出で、能登彦の社地に向いて石を投げ、終に石を投げ盡せりとて、上野村一郷地中今に石なし。其神今は同郡の内舟蔵村に鎮(しずまり)し給う。織を業となす者、皆此社に詣ずるに、祈るに時に必験し(かならずためし)あり。さいみ布(貲布:織り目の粗い麻布)を切りて団子を包みて祭礼をなす。土俗(どぞく:土地の風俗)ひへこ祭と云う。あんねん坊(安養坊の誤りか:呉羽山と同義か)の下呉服村にも此の祭あり。両社式相似たりとぞ。此等は神の妬気(とき:嫉妬心)(が由縁)なるべし。

 

以上です。

 

※杉谷古墳群(すぎたにこふんぐん)は、富山県富山市杉谷にある古墳群。史跡指定はされていない。富山県中央部、富山平野を東西に二分する呉羽丘陵から発達する、杉谷丘陵の縁辺部に営造された古墳時代初頭頃の古墳群である。前方後方墳1基(一番塚)・四隅突出墳1基(4号墳)・円墳1基(三番塚)・方墳または長方墳7基・不明1基の計11基から構成される。現在は富山大学杉谷キャンパス(旧富山医科薬科大学)を取り巻く位置に分布し、これまでに測量・発掘調査が実施されている。

古墳群のうち特に4号墳は、方墳の四隅が舌状に突出する四隅突出墳(四隅突出型墳丘墓/四隅突出型方墳)という特異な形状として注目され、四隅突出墳としては最大級の規模になる

     杉谷古墳群復元図(富山市HPより)

 

四隅突出墳は山陰地方の島根県を中心に分布する弥生時代-古墳時代初頭の墓制であるが、北陸地方でも18基(福井県6基、石川県2基、富山県10基)が確認され、いずれも外表施設に貼石を持たない点や突出部の形状など山陰地方とは異なる特徴を示しており、日本海文化圏の実態を考察するうえで重要な資料になる。関連して5号墳と4号墳の間(大学への進入路)の杉谷A遺跡では、古墳時代初頭の方形周溝墓17基・円形周溝墓1基・土壙2基などの墳墓群が確認されているが、杉谷古墳群はその上位の首長墓群と想定され、当時の首長系譜を考察するうえで重要視される古墳群になる。(wikipediaより一部補正)

 

 

 

富山市には6月1日に「まんじゅう」を食べる風習がある。

いつ頃からこれがはじまったかは分からないが、今日まで続いていて、近年まで中央通りの竹林堂本舗には甘酒まんじゅうを買い求める人々の長蛇の列ができていた。
 

朔日饅頭(ついたちまんじゅう)並んできました(2011年)

ついたちまんじゅう後日談

朔日饅頭(ついたちまんじゅう)並んできました(2012年)

朔日饅頭(ついたちまんじゅう)並んできました(2013年)

朔日饅頭(ついたちまんじゅう)並んできました(2015年)

 

かつては、6月1日の早朝から子供たちがまんじゅうの触れ売りをしていた。10歳から15歳ほどまでの男の子が、まんじゅうを入れた箱を肩に乗せて、

 マンジューや マンジュ

 マンジュいらんけ マンジュ

 ついたちマンジュ

と節をつけて触れ歩いた。それは昭和初期までの初夏の風物詩であった。

ついたちまんじゅうの触れ売り

 

奈良時代、陰暦の6月朔日(ついたち)、宮中で冬の氷を氷室から出し官人に配る儀式が行われていたので、この日を「氷室の朔日」あるいは「氷の朔日」と呼んでいた。

民間では、硬くなった正月の鏡餅を欠かしたもの(欠き餅)を焼いて、6月1日に食べる風習が全国へ広まっていった。また、その年に取れた麦で「まんじゅう」を作り、それを神仏に供え、この日に食べると「腹の虫が死ぬ」という疫祓(やくはらい)行事になった地方や、雑穀粉と餅米で作った餅に餡を入れ、それを6月1日に食べて「焼き餅節句」と呼んできた地域もあった。

 

富山城下(旧富山市)では、安永年間(1722~81)創業の竹林堂の甘酒まんじゅうの味が、藩主をはじめ城下町民に高い評価を受け、「朔日まんじゅうは竹林堂」といった具合になったようである。

竹林堂の甘酒まんじゅう

 

以上<五番町地区郷土史>(2012年発行)より一部補正

 

※酒饅頭は、酒母(酒種、麹に出芽酵母を繁殖させたもの)を使って小麦粉の生地を発酵させ、中に餡を入れた饅頭。「酒饅頭」は富山県や福井県三国では形状は平たく焼き印を入れてあり、長野市、新潟県長岡市ではあんまんのようなもの、岐阜県大垣市のものは茶饅頭のようなものであるなど地域によって形状、味覚、製法が異なる。酒饅頭を氷水で浸したものを水饅頭と形容する場合もある。あんパンのアイデアの基になった。群馬県の焼きまんじゅうのように、菓子店ばかりでなく、軽食として一般家庭で作られる事もあった。近年は、野菜の煮物や漬物などを餡として酒饅頭の生地で包んだ、かつての菜饅頭のような甘くないタイプの饅頭も登場している。(wikipediaより)