姉倉姫神話の由来~肯搆泉達録と三州奇談~ | のぼこの庵

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あとは爺放談?

富山市には舟倉(旧大沢野町船峅)と呉羽町姫本にそれぞれ姉倉比賣神社(あねくらひめじんじゃ)があります。

どちらも姉倉姫(あねくらひめ)というジモトの女神様を祀った神社です。

なぜ20km以上離れた所に同じ名前の神社があるのか?

その由縁は、江戸時代に各地の神話や伝説をまとめた書物によって明らかになっています。

 

以下、越中通史の先駆けともいえる壮大な物語記録『肯搆泉達録』(こうこうせんたつろく:1815年完成)の巻頭を飾る姉倉姫神話「船倉神と能登神、闘争の事」の全文(一部現代語訳)です。

新川郡船倉山(ふなくらやま)の神を姉倉比売(あねくらひめ:以下姉倉姫)と云い、能登の補益山(ふえきやま)の神を伊須流伎比古(いするぎひこ:以下石動彦)と云う。(石動彦は)姉倉姫と陰陽(めお:夫婦)の神なり。

また、能登の杣木山(そまきやま)の神を能登比咩(のとひめ:咩は原文では日偏に畢:以下能登姫)という。

石動彦、姉倉姫を遠ざけ能登姫と陰陽の契(いんようのちぎり:男女のまじわり)浅からざりければ、姉倉姫妬(ねた)みたまい、一山の石を盡(つく)し礫(つぶていし:石ころを投げつけること)して能登姫を攻め給う。

布倉山(ぬのくらやま:現尖山)の神、布倉媛(ぬのくらひめ)も姉倉姫に力を戮(あわ)せて布倉山の鉄を打ち砕き給いければ、能登姫、姉倉姫の手暴(てごわ)きを怒り、颶風(おおかぜ)を起こし、海濤を山壑に𣿐ぎて(かいとうをさんがくにそそぎて:大波を山や谷にうちかけて)防ぎ給う。

また、加夫刀山の神、加夫刀比古(かぶとひこ)も能登姫を援(たす)けて射水郡宇波山に出で坤軸を鑪とし(こんじくをたたらとし:大地の軸を溶鉱炉とし)隕(お)つる鉄石を鎔かし海に淪(しず)め給う。

闘争久しうして止まず、怒気積陰をなし(どきせきいんをなし:怒りがみなぎって暗くなり)渾々沌々(こんこんとんとん:混沌に同じ)として両儀(りょうぎ:天地)の光を見ず。四序分たず(しじょわかたず:四季、昼夜の区別なく)、蒼生育せず(そうせいいくせず:人々が生活できず)、故に、天地の諸神これを愁い給い、高皇産霊尊(たかみむすびのみこと:天地創造神の一柱)に告げ給う。

尊驚かせ給い、大已貴命(おおあなむちのみこと:大国主命の別名:以下大国主命)に勅(みことのり)し、「闘争を平ぐべし」とありければ、大国主命、勅を受け急ぎ越路に天降り給う。

大国主命、先ず越の神胤(しんいん:神々の子孫)を召(よ)び給いければ、雄山より手刀王比古命(たちおうひこのみこと)、船倉山より䋱子姫命(おきひめのみこと)、篠山より貞治命(さだぢのみこと)、布倉山より伊勢彦、能登の鳳至山中より釜成彦(かまなりひこ)、各(おのおの)来て命に見(まみ)え給う。

命曰く「姉倉姫、能登姫を後妻討(うわなりうち:前妻が後妻の家を襲うこと)し両神の怒り積陰をなし、霄壌(あめつち)に充ち塞がる。これ補益の陽神(ようじん:男神、ここでは石動彦)、爕理する(しょうりする:やわらげ納める)ことあたわざるは、もとより色に淫する(いろにいんする:色欲に溺れた)ゆえなり。今、我、勅を奉(う)けて討罰(とうばつ:討伐に同じ)す。汝等神孫、我と心力を一にして勲(いさお)あれ」と宣(のたま)いければ、各謹んで命にしたがう。

手刀王比古命曰く「教諭の如く、陰神(いんじん:女神、ここでは姉倉姫と能登姫)の怒りは陽神の致すところなりといえども、重く陽を誅(ちゅう)せば、陰専にして(もっぱらにして:見境がなくなって)かえって害あらん。ただ陰陽調和の謀(はかりごと)しからん。」とありければ、命、諾(だく)し給い、三神に先ず文告の命(ぶんこうのめい:文書による命令)あり。

次いで威譲の辞(いじょうのことば:脅し責める言葉)ありしに、(三神ともこれに)服し給わざりければ、遂に軍議し、貞治命をして五個の日鉾(ひぼこ:太陽をかたどった聖剣)を作らしめ、枲(からむし:麻の一種)を以て八尺(やさか)の幣を造って五色に染め、五の鉾に垂れ、五行の備(ごじょうのそなえ:五段の戦構え)を設(もう)く。

かくて大国主命、船倉を攻め給いけるに、山巓(さんてん:頂上)に方七里の池あり。宮城に登ること難ければ、山を鑿(うが)ち、池水を決(さぐ)りたまいけるに、忽ち一大流となり、池水盡(ことごと)く落ちて、前駆、容易に宮城に登りける。

姉倉姫すでに柿梭の宮(かきひのみや)へ逃げ給うと䋱子姫(おきひめ)告げ給いければ、命遂に柿梭の宮を攻め姉倉姫を捕らえ小竹野(おだけの:現富山市呉羽一帯の野)に流刑を命じ、また、「布を織って貢となし、世の婦女にも紡職の業(わざ)を教えて罪を贖(あがな)うべし」となり。

また、布倉姫を捕らえ、姉倉を援けし罪を責めて柿梭の宮へ遷(うつ)し、「柿の梭(ひ:機を織るとき横糸を送り出す道具)を作り綊(おさ:機を織るとき縦糸を治める道具)を編み、姉倉と同じく布を織り貢とし、また女功(じょこう:女の手仕事)を世に教えて罪を庚(あがな)うべし」と命じ給う。

姉倉・布倉の神すでに罪に服し給いければ、大国主命、能登の補益・杣木の神(石動彦と能登姫)を攻め、遂に擒(とりこ)とし、これ人民のためにもっとも戒む可き罪なりとて、二神を海浜に暴(さら)し給う。

また、加夫刀山の神、能登姫を援け給える罪を責めて、山を崩し遠く海を埋み、ここに加夫刀比古を置き、命じて曰く「風濤大いに起こらば、禦(ふせ)ぎて陸へ上(のぼ)すことなかれ。また、先ず人に報じ知らしめ、これを職とし罪を贖うべし」となり。

命すでに船倉・能登を平均(へいきん:平定に同じ)し給う。

五(いつたり)の神孫も各、丹誠を抽んで(たんせいをぬきんで:真心を尽くして)日鉾を捧げ、渾沌を鑿(うが)ち給いしかば、雲将・雨師、隊を乱して奔走し、飛廉・神公は深山幽洞に隠れ、海童・波臣は尾閭(びりょ)に遁げ入りければ、積陰忽ち披(ひら)いて陽光明らかに、天地位し(くらいし:あるべき姿に落ち着き)、万物育して北陸(ほくろく)静寧なり。

 

柿梭の宮は柿沢という所にあり、神の業を伝えて中古まで柿沢より柿の梭綊(ひおさ)などを作り出せり。姉倉姫、八構布(はっこうふ:八講布とも)を織りて世に教え給う。今に伝えて越中より八構布を出す。これ名産なりと『三才図絵』にも記せり。また、布市に一痕の流れあり。油川(あぶらがわ)、化粧川(けはいがわ)、曝川(さらしがわ)の三つの名あり。油川、化粧川とは、姉倉姫、能登を攻めんとしてこの川に臨み沐(かみあら)い化粧(けはい)し給うゆえに名づくとぞ。また、曝川とは、布倉姫、葛粉水(くずみず)をもって布をさらし給うゆえに称すと、また布倉姫、栽え給うとて布倉山に葛を生ず。これを製して鉄山葛(かなやまくず)という。また名産なり。また、能登の補益・杣木の神、中古まで、二月初午より神輿を海浜に遷し曝して祭礼とすと云えり。また、今に砲軍雲(かさぐも:荒天のきざし)起り、能登の海荒れんとする時に、加夫刀山に烽燧(ほうすい:のろし)の如き気を生ず。これ神の告なりとて、海中の船急ぎ陸へ避くるとなり。また、討罰の事畢(おわ)りて、五行の日鉾、各功ありし所に納む。かつまた、五の神孫もここに神とし祭れり。手刀王比古は太田保手刀王寺、水無(すいむ)の宮これなり。浹子姫命は月岡野月尊(つきよみ)の宮これなり。後、この所に潔き水湧いて池となる。月の清水と称す。釜成彦は砺波郡遊善山の下、風神・雨神(かざかみ、あまがみ)の宮これなり。風雨を司れる神にて、今に風を求めて風神の宮の樹を撼(うごか)せば風忽ちに起り、雨神の宮の池水を摶(う)てば雨驟(にわか)に至る。かつて商売の利を貪り米の値を昮げんとて樹を撼かし池水を摶ちしかば、大風雨して尽く禾稼(かか:穀物)を害す。故に稼穡(かしょく:収穫)終るまで山中に入る事を禁ず。

貞治命は射水郡闇野松田江の火の宮これなり。海上風波悪しく船覆らんとし、また、暗夜に方角を弁(わき)まえざる時、この宮の森に高く火燃えて海上を照らし、船を陸に導く。昔より北海の旅船難免るる事度々なりとぞ。伊勢彦は下村の神社これなり。今に祭礼に牛乗をなす。加茂の競馬(くらべうま)に似たれども、しからず。これ玄古の遺事なりとぞ。洪荒の世を語るは痴人の夢を説くごとくなれども和漢相同じ。『准南子』ニ曰ク「住古之時、四極廃シ、九州裂ケ、天ハ兼ネ覆ハズ、地ハ周ク載セズ、女媧氏、五色石を練リテ、以蒼天ヲ補ヒ、鼈ノ足ヲキッテ、以テ四極ヲ立ツ。」と。

 

船倉・能登の神、闘争の事、伝えて人口に膾炙す(じんこうにかいしゃす:だれの口にものぼり広く世間に知られる)。姉倉姫礫(つぶていし)せしより船倉上野(うわの)に一挙石を余さず(いっけんせきをあまさず:ひとつぶの石ころも残っていない)、奇とすべし。また、小竹野に流刑ありしによって、『延喜式』にも姉倉比売神社(あねくらひめじんじゃ:現在の二社のいずれか不明)は婦負郡七社の中に入れり。この余(ほか)遺跡の多く存すれば、徴(しるし)とするにたらん。

 

以上です。

また後日談として、「小竹野(呉羽)に流された姉倉姫は女たちに機織りを教え土地の人々から慕われた。姫が機を織っていると、窓から蝶が舞い込んで姫の仕事の手助けをした。この蝶は蜆ケ森(しじみがもり:貝塚がある)のシジミ貝が変化したものだった。また、数年後、姉倉姫が許されて故郷の船峅に帰るとき、無数の蝶が姫を慕って舞いながらついていった。」といった伝説も残っています。

こうした由緒があることから、本居地の船峅にも、流刑地の呉羽にも姉倉姫が祀られているのだということです。

 

富山市には、ヤマト王権以前(弥生時代末期、邪馬臺国連合の時代?)に出雲と何らかの協力関係があったと思わせる遺跡(四隅突出型墳丘墓:杉谷4号墳など)が出土していますが、越中神話の中でもジモト神と出雲大社の大国主命(大已貴命)との関係が語られているのは、いかにも興味深いところですね。

 

ちなみに、姉倉姫、石動彦、能登姫の(現在の神社の)位置関係は次のとおりです。

能登の補益山や杣木山がどこかわかりませんが、どこにせよ船峅から能登まで石を投げたって、姉倉姫の肩はどんだけ強いんだ。さすがは神様。

ただ、これに対して能登姫は、姉倉姫を攻め返したんじゃなくて、大風や荒波で防いだだけなんですよね。

なのに大国主命の御裁断では、姉倉姫の流罪(と言ってもそう遠くない地での機織りの普及とか比較的軽い罰)に対して能登姫は石動彦とともに「これ人民のためにもっとも戒むべき罪なり」として浜辺で晒しの罰を受けました。

晒しというのは、江戸時代には心中未遂や不義密通の男女なんかに精神的苦痛を与えつつ人々への見せしめとした刑罰だそうですから、肯搆泉達録の時代の倫理観に合わせた話になっているのかもしれませんね。

いずれにせよ本当に悪いのは浮気男というか二股かけたチャラ男の方なんですけどね?

 幕末の晒し刑(wikipediaより)

 

以下ついでに、三州奇談』(さんしゅうきだん:宝暦~安永年間(1751~1772)完成)第五巻より「妬気成霊」(ときしょうりょう?)の抜粋(一部現代語訳)です。

越中婦負郡呉服村(今は五福村と云えり)呉服の宮は、神名婦倉媛命(あねくらひめのみこと)と云い、能登国能登彦(のとひこ)神の婦なり。一日婦倉媛織をなすとて、此くれはの村に飛び給う。能登彦の神この隙を窺(うかが)いて、能登媛(のとひめ)の神を迎えて後妻となす。婦倉媛怒りて、越中新川郡上野村に出で、能登彦の社地に向いて石を投げ、終に石を投げ盡せりとて、上野村一郷地中今に石なし。其神今は同郡の内舟蔵村に鎮(しずまり)し給う。織を業となす者、皆此社に詣ずるに、祈るに時に必験し(かならずためし)あり。さいみ布(貲布:織り目の粗い麻布)を切りて団子を包みて祭礼をなす。土俗(どぞく:土地の風俗)ひへこ祭と云う。あんねん坊(安養坊の誤りか:呉羽山と同義か)の下呉服村にも此の祭あり。両社式相似たりとぞ。此等は神の妬気(とき:嫉妬心)(が由縁)なるべし。

 

以上です。

 

※杉谷古墳群(すぎたにこふんぐん)は、富山県富山市杉谷にある古墳群。史跡指定はされていない。富山県中央部、富山平野を東西に二分する呉羽丘陵から発達する、杉谷丘陵の縁辺部に営造された古墳時代初頭頃の古墳群である。前方後方墳1基(一番塚)・四隅突出墳1基(4号墳)・円墳1基(三番塚)・方墳または長方墳7基・不明1基の計11基から構成される。現在は富山大学杉谷キャンパス(旧富山医科薬科大学)を取り巻く位置に分布し、これまでに測量・発掘調査が実施されている。

古墳群のうち特に4号墳は、方墳の四隅が舌状に突出する四隅突出墳(四隅突出型墳丘墓/四隅突出型方墳)という特異な形状として注目され、四隅突出墳としては最大級の規模になる

     杉谷古墳群復元図(富山市HPより)

 

四隅突出墳は山陰地方の島根県を中心に分布する弥生時代-古墳時代初頭の墓制であるが、北陸地方でも18基(福井県6基、石川県2基、富山県10基)が確認され、いずれも外表施設に貼石を持たない点や突出部の形状など山陰地方とは異なる特徴を示しており、日本海文化圏の実態を考察するうえで重要な資料になる。関連して5号墳と4号墳の間(大学への進入路)の杉谷A遺跡では、古墳時代初頭の方形周溝墓17基・円形周溝墓1基・土壙2基などの墳墓群が確認されているが、杉谷古墳群はその上位の首長墓群と想定され、当時の首長系譜を考察するうえで重要視される古墳群になる。(wikipediaより一部補正)