奈良国立博物館 特別展 大安寺のすべて <後編 > ─ 令和4年5月7日 ─ | タクヤNote

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今月5月7日の土曜日に鑑賞をした奈良国立博物館での特別展『大安寺のすべて ─天平のみほとけと祈り─』、前後編二つの記事に分けた、その前編となる5月29日の記事は『第一章 大安寺のはじまり』『第二章 華やかなる大寺』の東新館での展示を紹介しましたが、後編となるこの記事では、西新館での展示を紹介します。

 

前半展示の東新館が会場から後半の西新館へは、正倉院展同様に二階連絡通路を通っての移動します。

東新館での展示は現在の大安寺が所蔵する寺宝や、旧大安寺跡から発掘された考古的資料など大安寺と直結する文化財の展示が中心でしたが、日本を代表する大寺院であった大安寺だけに、各地の寺院にも大安寺と関連する遺物も少なくありません。西新館では現在の大安寺以外からの出展を中心に、大寺院・大安寺がどのようなものであったかを検証する展示となっていました。

 

三番目のコーナーは『第三章 大安寺釈迦如来像をめぐる世界』

現在の大安寺の御本尊は本堂安置の十一面観音立像ですが、奈良時代の大安寺金堂で本尊として鎮座していたのは釈迦如来坐像でした。

 

旧大安寺金堂跡 画像引用:タクヤnote2013年10月19日記事

 

旧金堂は記録によるとの横幅約35メートルと薬師寺金堂の約1.3倍。本尊の釈迦如来像は丈六の坐像ということで、そこは薬師寺本尊の薬師如来坐像と同じですが、薬師寺本尊が銅像であるのに対し、大安寺釈迦如来は東大寺三月堂の仏像群と同じ漆と麻布を重ね造る乾漆像であったようです。

平安時代後期の学者、大江親道が南都の諸寺を見聞した『七大寺巡礼私記』によると、「薬師寺金堂の本尊は大安寺釈迦如来を除くと、最も荘厳だった」という記述で、大安寺の釈迦如来が当時別格の秀逸の仏像であったことを伝えています。

現在古代の仏像の中でも最も秀でているとされる薬師寺本尊釈迦如来ですら及ばなかった、別格の仏像とされたという大安寺釈迦如来坐像。現存すれば日本の至宝と讃えられたでしょうが、天正13(1586)年の天正地震と文禄5(1596)年の慶長伏見地震で大安寺は壊滅的に大破したと記録され、また別に永禄~元亀(1558~1573)に大和の戦国武将・松永久秀が大和国一帯で繰り広げた戦乱により本尊が焼失したという記録もあり、釈迦如来坐像もその頃には失われてしまったようです。

 

参考 薬師寺金堂本尊 薬師如来坐像(入江泰吉撮影)画像引用:平成20年 東京国立博物館『国宝 薬師寺展』図録

 

残念ながら現存しない旧大安寺本尊釈迦如来ですが、奈良時代・平安時代の文献には釈迦如来像を褒め讃える文章が多々残されていて、また失われた釈迦如来像の姿を知るヒントとなる日本各地の様々な文献や書画が残されています。

第三のコーナーでは、それらの資料を元に名高い大安寺釈迦如来像の在りし日の姿を探究しています。

 

まず、釈迦如来像および大安寺について書かれた文献として、先にも取り上げた大江親道が著した『七大寺巡礼私記』があります。この特別展では法隆寺に伝わる、国の重要文化財に指定されている七大寺巡礼私記の鎌倉時代の写本の展示がありました。(展示コーナーは第二章)

 

七大寺巡礼私記(法隆寺蔵・鎌倉時代写本)[重文・原本平安時代] 画像引用:大安寺のすべて展図録

 

七大寺巡礼私記にある大安寺釈迦如来像の記述は以下のようなものとなっています。

 

足を下にして左足を上に置き、迎接の印を結んでいる。光背には化仏が十二体、飛天が二体があり、須弥炎には多宝塔が取り付けられていて、その塔の回りに雲の形がある。この像を人々は、解文恵と稽主勲が造ったのだと言っている。顔立ちは厳かで美しく、霊山の釈迦と少しも違わない。天人の影と声とが、常に奉仕していると言われている。 

 

第三のコーナーでのは『倶舎曼荼羅』[平安時代・国宝]が出展されます。(後期からの展示なので小生が鑑賞した時には展示はありませんでした。

東大寺に伝わる南都六宗の一つ倶舎宗の法要のために作成された仏画で、釈迦を中心に仏弟子や倶舎宗開基の十師、梵天・帝釈天や四天王が描かれています。その中央に描かれた釈迦如来像ですが、細部にわたって前述の大安寺釈迦如来像の特徴と一致し、描かれた時代もあいまって大安寺の釈迦如来像の姿を知る仏画として今回ピックアップされています。

 

七大寺巡礼私記(法隆寺蔵・鎌倉時代写本)[重文・原本平安時代] 画像引用:大安寺のすべて展図録

 

同じ平城京の官寺として、大安寺と浅からぬ関係であった東大寺に伝わるこの仏画。これが大安寺釈迦如来坐像の姿を、今の伝えるものであったとしてもおかしく無いと考えられます。

 

他にこのコーナーで展示されていたのは『諸尊図像』[平安時代・重文]という二巻の図画集。平安時代末の図像研究家であった心覚が撰述したとされ、主要な密教の尊像をまとめたもの。この特別展では各尊格別に分類された中、釈迦の項を取り上げられていました。

ここに当時大安寺にあった、本尊・釈迦如来坐像の図画が描かれているのです。おそらくハッキリと大安寺本尊釈迦如来像を写したと記録される現存する唯一図画であります。

 

諸尊図像(静岡MOA美術館蔵)[平安時代・重文] 画像引用:大安寺のすべて展図録

 

そして次に紹介するのは、京都左京区・高尾山の神護寺に伝わる『釈迦如来像』[平安時代・国宝]です。神護寺は教科書にも載っている『伝源頼朝像』で有名なお寺ですが、この釈迦如来像も『赤釈迦』の愛称で親しまれている信仰を集める有名な仏画。法華会の法要のために描かれたものですが、見比べても『諸尊図像』に描かれた大安寺の釈迦如来坐像と酷似しているのです。

 

釈迦如来(神護寺蔵)[平安時代・国宝] 画像引用:大安寺のすべて展図録

 

神護寺は宇佐八幡神託事件で知られる和気清麻呂が建立し、大安寺とも関わりの深い天台宗開祖の最澄や真言宗開祖の空海も住んだことがあることでも知られ、当然大安寺の教学がここでも説かれていたと考えます。

複数の文献から大安寺の釈迦如来坐像は、インドの霊鷲山で説法をする釈迦の生き写しと当時の釈迦の規範像とされていたと伺うことが出来、神護寺など多くの寺院の釈迦如来像が大安寺の本尊をモデルとしたと当然考えられます。

 

他に、長谷寺出土の『法華説法図』[飛鳥-奈良時代・国宝]や京都山科・勧修寺に伝えられた『刺繍釈迦如来説法図』[飛鳥時代あるいは中国・唐・国宝]といった奈良国立博物館所蔵の国宝の釈迦像、橿原考古学研究所所蔵の奈良県御所市の二光廃寺出土『大型多尊塼仏』[飛鳥時代]といった、大安寺より時代がさかのぼる飛鳥時代の釈迦如来像が、大安寺釈迦如来坐像のルーツとして展示されていました。二光廃寺は、高市大寺だった説も唱えられていることもあり注目されます。

 

大型多尊塼仏[飛鳥時代] 画像引用:大安寺のすべて展図録

 

四番目のコーナーは『第四章 大安寺をめぐる人々と信仰』

コーナ名の通り大安寺ゆかりの人物と、その教学について取り上げる展示です。そのこともあってたくさんの僧侶や仏教関係者の名前が取り上げられます。

今回の特別展の冒頭(もちろん第一のコーナー)で展示されていたのは『聖徳太子像』[室町時代]でした。

 

聖徳太子像[室町時代] 画像引用:大安寺のすべて展図録

 

現在奈良国立博物館所蔵となっているこの聖徳太子像ですが、元のこの絵の所蔵は大和郡山市の額安寺でした。実は額安寺は大安寺の起源とされる聖徳太子開基の熊凝精舎の法灯を受け継ぐ寺院と伝えられ、そこからこの肖像画が置かれるようになったというわけです。つまり大安寺のはじまりのはじまりは聖徳太子からとされているのです。

 

この第四コーナーは聖徳太子からスタートする大安寺にまつわる高僧の名前が次々と出て来ます。

大安寺というお寺は今で言う仏教大学のような施設であり、この当時の最高学府という位置づけだった場所。そのこともありこの時代の高僧のほとんどは大安寺と何らかの関わりがあったと言っても過言では無く、この時代に詳しくなくとも知っているようなビッグネームが次々と登場します。

 

まず紹介しますのが 道慈 です。道慈の資料として奈良国立博物館像の『道慈律師像』[室町時代]が出展されていました。

 

道慈律師像[室町時代] 画像引用:大安寺のすべて展図録

 

この肖像は実は先に紹介した聖徳太子像と同時期に描かれ同じ大和郡山市の額安寺に受け継がれていたもので、この二枚の肖像画はセットで額安寺の始祖として崇拝されていたものだったのです。

道慈は額安寺を氏寺とする額田氏の出身。大宝2(702)年の遣唐使節団として唐に渡り、15年の留学で“仁王般若経を講じる百人”の一人に唐から選ばれるほどの名声を得ました。帰国後は律師の役を賜り藤原京の大官大寺を大安寺として平城京に遷す事業の主導的な役を担い、言ってみれば真の大安寺の開基とも言える人物であります。

この時代においてトップの地位に立っていた道慈でしたが、平安時代以後の新興宗派の台頭によりその名声を今も称える寺院は少なく、他の高僧が多く肖像が残される中 道慈の肖像画はこれが唯一のものとなっているのです。

道慈つながりということか、岡寺から奈良国立博物館が委託管理している名宝中の名宝、貴重な奈良時代の肖像彫刻、道慈の師である『義淵僧正坐像』[奈良時代・国宝]も展示されていました。

 

義淵僧正坐像[奈良時代・国宝] 画像引用:大安寺のすべて展図録

 

大安寺に住していたのは日本人僧だけではありませんでした。唐から渡来した僧侶の他、インド人の菩提僊那、ベトナム人の仏哲、ペルシャ人の李密翳といった中央アジアや西アジアの人種も違ったであろう渡来僧も当時の日本には多くいて、中には来日後大安寺に住していたり師僧として教学を講じたりするもしていました。

菩提僊那は来日後大安寺僧であったことが記録されています。菩提僊那を紹介する展示として『四聖御影』[建長本 鎌倉時代、永和本、南北朝時代・いずれも重文]と、前期『東大寺縁起絵巻』[室町時代・重文]、後期『東大寺縁起』[室町時代]などの絵画が出展していました。いずれも東大寺大仏の開眼法要の開眼導師として注目した展示です。

 

 

左 四聖御影[建長本 室町時代・重文] 右 東大寺縁起絵巻[室町時代・重文]

いずれも部分、菩提僊那肖像を拡大 画像引用:大安寺のすべて展図録

 

東大寺に関する展覧会にはよく出展される展示物ですが、今回は大安寺に住した菩提僊那にスポットライトを当てての展示となりました。

 

そして平安時代になりますが、特別展でまず取り上げられたのは勤操という大安寺僧です。奈良時代末期から平安時代初期にかけて三論宗の学士として当時の仏教界で大いに活躍をしました。

勤操はあの空海が、得度した時の師として知られています。そのこともあって、高野山では勤操を大いに讃え、高野山普門院には最古の勤操の肖像が伝えられています。国宝に指定されている平安時代の肖像画ですが、今回の特別展での展示はされていたものの開幕直後の一週間限定で、小生が鑑賞した時には現在大安寺が所蔵している室町~江戸時代に描かれた勤操像の展示となっていました。

 

勤操僧正像[室町~江戸時代] 画像引用:大安寺のすべて展図録

 

空海の師であったと伝えられたこともあって他の寺院にも肖像が伝えられている勤操、京都の東寺と言えば空海の寺という認識ですが、空海が嵯峨天皇から東寺を下賜されたのは東寺が創建されてから二十数年後のことで、勤操はそれ以前に東寺や東大寺の寺務最高責任者・別当も歴任しました。

また、勤操は比叡山延暦寺の根本中堂落慶の堂達として落慶法要を勤めもしており、空海だけでは無く最澄とのつながりも浅くは無かったのです。

 

そして、大安寺僧・勤操を経て、空海・最澄の時代を迎えるのです。

空海・最澄と言えば平安時代初期の仏教界のビックネームですが、両者は共に大安寺僧を師とし、学僧として大安寺で仏教を学び、空海は後に大安寺の別当の職に就くなど、後世に空海が日本仏教界のスーパースターとして崇拝をされるようになると大安寺は弘法大師 空海によって重要な聖蹟と讃えられるようになり、現在では真言宗を宗派とする空海の寺という立ち位置になったのです。

には。

後期からは神護寺所蔵の重要文化財の『弘法大師像』(真言八祖像の一つ)[鎌倉時代]の展示がされますが、小生が鑑賞した前期は大安寺所蔵の『弘法大師像』[鎌倉~南北朝時代]の展示となっていました。

 

弘法大師像[鎌倉~南北朝時代] 画像引用:大安寺のすべて展図録

 

空海もあれば最澄の展示ということですが、京都国立博物館で同時に『最澄と天台宗のすべて』の特別展が開催されていたこともあってか展示の規模は小さめ。肖像画は無く『伝教大師求法書等』[鎌倉時代・重文]のみが出展となっていました。最澄が書いた書状と遺言、最澄の弟子 円澄の書状。それらを鎌倉時代に写したという最澄ゆかりの物としては少し薄い感もありますが、これも奈良国立博物館の所蔵ということで出しやすかったのかも知れません。

 

伝教大師求法書等[鎌倉時代写本・重文] 画像引用:大安寺のすべて展図録

 

最澄の師である行表も大安寺僧でした。日本の仏教の教学をさかのぼると、そのすべてがどこかで大安寺につながって来るという、日本という仏教国の根幹が創造されたとも言っても過言ではない、大安寺とはそういう場所であったのです。

 

この第四章のコーナーの最後は、京都府八幡市の石清水八幡宮についての展示でした。

石清水八幡宮は平安時代に、清和天皇が男山の峯に社殿を造営したことが由緒となっています。清和天皇は清和源氏の祖であり、その清和天皇が造営した石清水八幡宮は源氏の、そして後々日本の実権を掌握し続けた将軍家の鎮守として崇められて来ました。

清和天皇がなぜ男山に石清水八幡宮を造営したかと言うと、大分の宇佐神宮で男山に分祀せよという神託があったからと伝えられています。そして記録ではその神託をしたのは大安寺の僧の行教であったとあり、ここでまた大安寺とのつながりが見いだせるのです。

石清水八幡宮からは『石清水八幡宮護国寺略記』『諸起記 不足本(石清水八幡宮護国寺略記)』『大安寺八幡大菩薩御鎮座記 并 大安寺塔中院建立縁起』『諸縁起 口不足本(大安寺塔中院建立縁起)』と国指定重要文化財の古文書四巻が出展です。

 

  

左 岩清水八幡宮護国寺略記  右 同 諸起記 不足本[鎌倉時代]

 

 

左 大安寺八幡大菩薩御鎮座記 幷 大安寺塔中院建立縁起  右 初縁起 口不足本(大安寺塔中建立縁起)[鎌倉時代]

画像引用:大安寺のすべて展図録

 

いずれも鎌倉時代に書かれたもので、石清水八幡宮護国寺略記によると、宇佐から男山へ神託によって勧請された。もう一つの大安寺塔中院建立縁起によると、八幡神は行教の自坊の僧坊東室・岩清水坊に遷座された後、朝廷の命によって東塔の北に社が造営され岩清水八幡宮と号された。しかし再度神託がなされ宇佐神は男山に遷座、その跡地に改めて八幡神が祀ら直されたと違う由緒が書かれています。

今の大安寺塔跡に祀られている大安寺鎮守八幡神社は、後者の由緒から『元岩清水八幡宮』の名でも呼ばれています。

 

現在の大安寺鎮守八幡神社(元岩清水八幡宮) 撮影:平成22年8月9日

 

岩清水八幡宮からの直接の出展はこの4点の古文書だけ。同八幡宮は4躰の『木彫童形神坐像』[平安時代末~鎌倉時代・重文]も所蔵していて、今回それが出展されるのではと思ったのですが、今回の特別展に出展されたのは石清水八幡宮の神像では無く、何故だか奈良国立博物館の委託管理をしている薬師寺鎮守の休ヶ岡八幡宮に伝えられた『八幡三神坐像』[平安時代・国宝]だったのです。

 

  

八幡三神坐像(薬師寺)[平安時代・国宝] 画像引用:大安寺のすべて展図録

 

図録の解説を見ると石清水八幡宮と休ヶ岡八幡宮との関わりについて詳しい説明が書かれていたのですが、いくら国宝の貴重な三神像とはいえ、大安寺とは直接の関わりの無いこの像は大安寺展に出す展示品としては適当なのかちょっと考えてしまいました。

今回の特別展で思ったのは、この八幡三神像といい岡寺の義淵僧正像といい、奈良国立博物館所蔵管理の文化財を巧みに展示品に加えたという印象を持ちました。「出しやすい展示物を選んだ」という感は否めず、まぼろしの大安寺を紹介するという大きなテーマの特別展としてこれで良かったのかと考えさせれました。

 

最後のコーナーとなるのが『第五章 中世以降の大安寺』です。

聖徳太子に始まった大安寺の歴史の行く末をテーマにした展示ですが、ここで言う中世以後とはいつからなのか図録の説明を見ると、11世紀初頭といいますから平安時代、藤原摂関政治が頂点を迎えていた頃に堂塔の多くが焼失するという大きな被害を受けたころから、大安寺の権威が落ちていったと書かれていました。

今回の特別展ですが、中世以後の大安寺について紹介する最後のコーナーは全展示会場の中の西新館の出口一角のわずかな広さしかありませんでした。AD600年頃だった聖徳太子の時代から1400年の歴史を持つ大安寺ですが、1~3のコーナーで取り上げられた時代はわずか400年、その後の千年間をこのわずかな展示で紹介するという慌ただしさ、これこそが大安寺の行く末なのだと言えます。

 

このコーナーの展示としてまず、東大寺文書『春華秋月抄草』、『法勝寺御八講問答記』[いずれも鎌倉時代・重文]を紹介します。

 

春華秋月抄草[鎌倉時代・重文] 画像引用:大安寺のすべて展図録

 

法勝寺御八講問答記[鎌倉時代・重文] 画像引用:大安寺のすべて展図録

 

いずれも東大寺の学僧・宗性の著書で、春華秋月抄草は大安寺別当に就任していた宗性が、大安寺修理の勧進を行った記述があります。

また、法勝寺御八講問答記は京都の白河別業跡に建てられていた大規模な国家鎮護の官寺であった法勝寺で営まれた御八講の問答の記録。その中に大安寺別当の職として大安寺の堂塔の修復をしたことが記録として書かれているのです。

この最後のコーナーで一番多かった出品元は真言律宗の総本山・西大寺でした。西大寺は奈良時代、称徳女帝の発願で平城京左京一条の大半が西大寺の境内だったという大寺院でしたが、他の官寺同様に中世に衰退した後、鎌倉時代中期・真言律宗を開いた叡尊が古刹をその総本山として整備復興し今に到ります。

次に紹介する展示物は西大寺所蔵の文書『関東祈祷寺注文案』[鎌倉時代]、『西大寺諸国末寺帳』[南北朝時代]

 

関東祈祷寺注文案[鎌倉時代] 画像引用:大安寺のすべて展図録

 

西大寺諸国末寺帳[南北朝時代] 画像引用:大安寺のすべて展図録

 

関東祈祷寺注文案とは鎌倉幕府の祈祷を担う寺院の一覧で、ここは西大寺一派の寺院が記されています。西大寺諸国末寺帳は真言律宗の総本山・西大寺が支配下に置いた末寺の一覧。

こららの文書からわかるように、鎌倉中期には大安寺は西大寺の末寺の扱いだったのです。国家が官寺を管理する時代が終わると、かつての官寺は自立経済での寺の維持が必要になりました。東大寺や興福寺はしっかりとした荘園経営を行い寺格を維持してましたが、確たる経営資本を持たなかった大安寺は経済力を持つ他の大寺院の力を借りて経営を維持して来たのです。

先に紹介した東大寺 宗性の文書にあるように東大寺、そして興福寺から別当をら出して両寺院の傘下となっていましたが、やがて完全な興福寺の末寺へとなって行き、そして西大寺が真言律宗の総本山として隆盛すると、大安寺はそちらの末寺にもなり多くの大安寺僧が真言律宗の集団に加わりました。

関東祈祷寺注文案では西大寺末寺の12番目、西大寺諸国末寺帳では大和国での3番目、かつての日本最高の規模と教学を誇った官寺として君臨し空海や最澄を輩出した大安寺は、鎌倉時代中期には大和の小さな寺院と格式を並べていたことが伺えます。かつての大寺院は新興宗派の一派になって法灯をつないでいたのです。

 

特別展の展示は、そんな時代の大安寺の足跡を見る展示となっています。このコーナーでまず紹介されているのは、興福寺北円堂所在の平安時代前期造の四天王像。北円堂と言えば運慶作で有名な無著・世親像が有名ですが、本尊の弥勒如来を護る四天王像、その台座の墨書きから平安時代前期に造像され、元々は大安寺にあったことがわかります。

 

興福寺北円堂四天王像[平安時代・国宝] 画像引用:大安寺のすべて展図録

 

特別展では元・大安寺四天王像の模刻である、大分・永興寺の四天王像[鎌倉時代・重文]が出展されていました。

 

 

持国天                 増長天録

 

広目天                 多聞天

大分 永興寺 四天王像[鎌倉時代・重文] 画像引用:大安寺のすべて展図録

 

永興寺は西大寺の末寺である真言律宗の寺です。その永興寺に鎌倉時代に造られた大安寺の四天王の模刻像が伝えられていることは、既に荒廃が著しかった当時の大安寺でしたが、それでも隆盛期の仏像を多く伝えていて、その模刻像が関連寺院に置かれていたことを示しています。

 

そして、中世大安寺を代表する宝物が、西大寺に伝わる『金銅透彫舎利容器』[鎌倉~南北朝時代・国宝]です。

 

西大寺 金銅透彫舎利容器[鎌倉~南北朝時代・国宝] 画像引用:大安寺のすべて展図録

 

繊細で大胆な透彫の装飾は金工の技工を尽くした、日本を代表する工芸品とも言われる名品中の名品。後世の修理時の補強板の刻銘から、大安寺舎利殿に安置されていたことが確かめられています。

大安寺舎利殿については在所等確かでは無いのですが、大安寺には菩提僊那由来の舎利があったという記録もあり、本品はその舎利を納めるための物だったのではとも考えられています。

 

金銅透彫舎利容器(部分・拡大) 画像引用:大安寺のすべて展図録

 

この舎利容器は西大寺でも屈指の名宝で、2017年9月9日のブロク記事で書いた、大阪あべのハルカス美術館で開催された『奈良 西大寺展』の図録の表紙に選ばれています。(この舎利容器は東京と山口の会場での出展だったので、小生は見れませんでしたが)

 

 

他の大寺院の末寺にならなければ寺院経営もままならない状況だった当時の大安寺でしたが、それでもこれだけの名品が残された、やはり大寺院としての威光は決して失われていなかったのではと思わせられる宝物であります。

 

こうして興福寺や西大寺の末寺として法灯を維持してきた大安寺でしたが、文禄5(1956)年の慶長伏見の大地震で壊滅的な被害に逢い、江戸時代には仏僧が居住するこすら困難な有様まで荒廃してしまいました。現在の真言宗の癌封じのお寺として復興したのは、明治時代・真言宗の宝塚市 中山寺の石堂猛恵師が現在の本堂を建立するなど近年のことです。

 

奈良国立博物館の全展示スペースを使っての『大安寺のすべて展』でしたが、この特別展でかつての日本一の大寺院・大安寺の盛衰のすべてを伝えきれたか…となると、やはり十分とは言えないのではというのが感想となりました。これだけ全力で残された文化財を持ち出しても、かつての繁栄を伝えることは現状では困難なほど大安寺は歴史の流れの中に消えてしまったのではと思います。

 

小生が今回の特別展で一番かつての大伽藍をイメージできたのは、西新館入口の映像コーナーだったかも知れません。

上映されていたのは15分ほどのショートムービーだったのですが、奈良文化財研究所監修でCGクリエーターによって制作された、コンピューターグラフィックスで復元された天平の大伽藍の映像動画だったのです。

 

 

 

大安寺ではコントローラーを操作して、好きなアングルから天平伽藍を見ることが出来る機器を設置されているそうです。奈良国立博物館の映像コーナーでは迫力の大スクリーンでこの復元伽藍の映像が上映され、CGとは言え天平の大伽藍をもっとも体感出来たのはこの映像でありました。

 

 

 

ちなみに特別展での映像では、一人の少女が現代の大安寺の南門からタイムスリップしてCG伽藍の世界へといざなわれるという演出がなされていました。

演出としてはそれも悪くは無かったのですが、欲を言えばナビゲーターは少女よりも、せっかく特別展ナビゲーターキャラクターのオニやんを作ったのですから、ここでアニメで登場させてナビゲートさせた方が良かったのではなんて思いました。

 

画像引用:鑑賞ガイドリーフレット『大安寺のひみつ オニやんの鑑賞会レポート』

 

今回の特別展を見て、大安寺という歴史の流れの中に消えてしまった幻の大寺院を取り上げる難しさを実感したように思います。

どうやったら偉大だった大寺院 大安寺のイメージを伝えることが出来るのか。例えば平城宮跡資料館ならび平城宮いざない館では平城宮を体感させる方法として大規模な平城宮のジオラマを展示していました。

 

平城宮いざない館 朝堂院ジオラマ 画像引用:タクヤNote 2020年11月7日記事

 

小生はかねてから、このようなジオラマや映像展示に頼った展示に対して疑問を呈していましたが、大安寺のような現在に残るものが少ない施設などを取り上げるとなると、このようなジオラマを実物展示と併用して使う必要もあるのではとも考えました。

どうやって、南都七大寺の中でも最も大規模で重要だったにもかかわらず一番に衰退をしてしまった大安寺、その大安寺というものをいかに未来に伝えていくか。今回の特別展はそれを提言した将来へのステップだったのかも知れません。

 

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