一昨日の「徹子の部屋」に出演された浅丘ルリ子さん。
なんと「蔵原監督が好きだった」とおっしゃられたそうで。
もうみんな鬼籍に入ってしまったから隠すことはないのかな。
林真理子著の「RURIKO」では、お名前は出していなかった。
ボルネオ生まれだとか「憎いあンちくしょう」を撮った監督
だとか。アフリカロケの「栄光への5000キロ」が出てくれば、
もちろん蔵原監督のことだとはわかってしまうんですけどね。
1927年5月。サラワク王国クチン生まれの蔵原惟繕監督。
お父様は日沙商會に勤務されていた蔵原惟門氏。
ブルック家3代目Raja Vyner Brookeの時代のことですね。
クチン市街ではなく、サマラハン農園で育った蔵原監督。
お父様とサマラハン河を下ってクチン市街を見た時のことを
「まるで、お菓子の国に迷い込んだようだった」と語ったと、
「ボルネオ・サラワク王国の沖縄移民」(望月雅彦著)では、
書かれています。同書には、監督の弟さん(惟二氏)提供の
サマラハン農園における田植えや稲刈りの写真もありました。
支流からサラワク川へ。当時は裁判所の辺りで船を下りたと
したら。そりゃあ周囲は西洋式の大きな建物ばかりですもの。
さぞやびっくりされたことでしょうね。