EleMariRai @ JB

EleMariRai @ JB

三人の娘たちとフルタイムのワーキングマザー。
マレーシア最南端のジョホールバルでのあれこれを綴ります。

FBの歴史グループの友人が、博物館関連の催しへの参加のため

来JB。日本人墓地へ行きたい!と言うので、案内しました。

 

image

 

楽しそうに動画を撮っているので、しばらくの間、放置する。

 

image

 

 朝から雨も降らないので、よい天気だとぼ〜としていたら、

 

ピンクの着物の子供と母親がいる。

黒っぽい着物のハゲ頭の人が歩き回っている。

たくさんの人がいるんだね!と言われて😨。

友人のひとりは、実は視える人なんだと知りました。

 

墓地が発見された当時は80柱くらいあったらしい墓標たちも、 だんだんと木が朽ちていって、ほぼ失われてしまっています。

 

KLやシンガポールの日本人墓地と違い、ジョホール日本人墓地

に埋葬名簿が残っていないことも埋葬者を辿ることができない

理由ですが。それでも姿を見せてくれたことは嬉しいです。

 

名前もわからないけれども、墓地に眠る彼らのことを忘れない

ように、前回の改修時には供養碑を建てました。

その後「故郷へ帰る夢が叶わなかった」人たち(埋葬者以外も

含む)のための供養碑も大使館と日本人会で建立。

 

帰り際に友人から「お墓を守ってくれてありがとうだって」と

言われて、日本語わからないじゃん?と一瞬だけ思ったものの

彼と一緒に本格的な調査を始めてみたいとも思いました。

まず戦前の邦字新聞にある死亡報告から辿ってみませうかね。

数少ない大切なマレーシア人の友人が亡くなったことを知って
Ngee Hengの葬祭場まで会いに行ってきました。

共通の友人のAMYちゃんがシンガポールへ行ってしまってから

会う回数が減ってしまい、コロナの後は会っていなかった小芳。

ガンで闘病していたと聞き、会わなかったことを後悔しました。

気がついてみれば、いつもこんなことを繰返している(涙)。

 


 

私にはちょっとだけお姉さんだったウサギ年の小芳。

優しくしてくれて、仲よくしてくれて本当にありがとう。

私もそのうちに行くから、先に待っててちょうだいね。

それから今日はもうひとり。友人ではないけれど同世代の

マルジャン・サトラピさんが亡くなったことも知りました。

 

 

読んだよね。ペルセポリス。DVDも買って子供たちと見たし、

Embroideries(←ちょっと大人の話)も買って読みました。

 

56歳だったそうです。死因は「夫の死による悲しみのあまり」。

まだまだ活躍できる人だったと思うけど、それでも生き続ける

ということの意味について、私は考えさせられています。

 

2009年から書いているこのブログも、Family matterが少なく

なった今では、蓋棺録が多くなってきているかもしれません。

それでも。アラカンの私は今日も元気に生きています。

帰天するまで何年か?なんて「神のみぞ知る」ですしね。

ハリラヤ3日目は金曜日だったので、慌ててSITI KHADIJAHで

お買い物。いつもは従兄のISMAILさんのお店でスルンディンを

買っていましたが、数年前に彼は帰天してしまいました(涙)。

 

困った時の妹その1ということで、おすすめストールの番号を

教えてもらい、ライライとお土産用にスルンディン等を購入。

あちこち歩いてみたら、先月行ったサンダカンの市場みたいに、お土産もちゃんと売っているお店がありました。

 

義母に会ってから午後早めにコタバルを出たものの、倒木2件

&暴風で夜遅くクアラトランガヌへ到着したまいファミリー。

ホテルのすぐ裏にPULAU WARISANがあったので、夕ご飯を

そこで調達し、ホテルで3人で食べたのでした。

 

さて4日目。クアラトレンガヌで行かなければならない場所と

言えば、KG. LOSONG。あのクロポ・レコーの発祥の地です。

 

image

 

チェックアウト後、人が多く並んでいるお店(WARISAN)の

列に私たちも入り、オリジナルとチーズ味を購入。

あまりにも美味しかったので、真空パックを何種類か購入。

 

image

 

次はNOOR ARFA。大きなバティック工場のOUTLETコーナー。

裏にコーヒー屋さんができていて、有名らしかったのですが

先を急ぐので、次の機会(まで続いていたら)に行きませう。

 

義弟が住んでいたDUNGUNや、石油工場の炎が明るいPAKA。

最近は高速道路ばかりだったので久しぶりの一般道は楽しく

あっという間に目的地のKEMASIKという地域へ入りました。
 
ゴルフ場や瀟洒な家が並ぶペトロナスの住宅地が何キロも続き、ショッピングモールを過ぎたら、ようやく市街に入りました。
 
YAK YAHからの道との交差点の辺りが中心地と思われるので、
そこから海岸へ出てみました。
 
image
 
戦前にはこの街には西垣さんという人がいて、サルタンからの
信頼も厚く、現在のYBのような身分を賜っていたそうです。
 
Kemasik からKijalへ続く道は、西垣さんが造ったとのこと。
道路は「西垣道路」、架けた橋は「仙造橋」と名付けられたと
新聞には書いてありますが、現在は何の名残りもありませぬ。
なお最終的にはKemamanまで繋ぐ壮大な計画だったようです。
 
トレンガヌの王室と関係のあった日本人の方は他にもいるので
そのうち彼らについても記事を書いてみます。

ハリラヤ・ハジで絶賛コタバル帰省中のまいファミリー。

二日目はクランタン川を渡ってTUMPATへ行ってきました。

 

image

 

前回Kampong Lautへ向かった道。

鉄橋の下をくぐるのが面白かったので、ここを通ってみました。

 

image

 

目的地その1。1921年建造の賭博場(カジノ)だった建物。

なかなか立派な建物なので、華人関連の施設や博物館として

整備をすればいいのにね。

 

image

 

目的地その2。Dato Wee Kwee Theow旧宅。1927年建造。

その1の建物と向かい合っています。彼の死後、長男によって

売却された後、80年代から2000年代にかけてTumpat市役所と

して利用されていました。

 

image

 

目的地その3。鉄道施設の中にあるRumah Api(灯台)。

第二次大戦中は、日本軍が管理していたんだそうです。

 

 

2017年8月にTumpat駅で撮影した一枚にも灯台が!

この時はMALAYAN TIGERを撮りたかったので、後方に見える

灯台には全く気づいていませんでした。

 

この車両はオハネ15-2004。JR九州から来たブルートレイン。

MALAYAN TIGERは2011年12月に運航を開始しました。

JB駅での出発セレモニーには鈴木大使が出席されています。

 

image

 

目的地その4。鉄鉱石の積み出しに使われていた線路の橋桁。

説明によれば、TEMANGAN鉱山(日系)からの鉄鉱石を船に

運ぶための軽便鉄道がこの上を走っていたとありました。

 

image

 

説明には日本の会社の名前はOriental Miningとありましたが、

それは南洋鉄鉱の戦後の名称で、英国企業と合弁で作った会社

です。鉱物資源の枯渇のため1965年で採掘が停止されています。

 

戦前の名前は南洋鉄鉱。日本鋼管系列の会社で、川崎製鉄所へ

鉄鉱石を供給していました。拙ブログでも何度か書いています。

 

 

南洋鉄鉱時代はPalekbang駅まで鉄鉱石を運んだという記録が

あります。ですから。TUMPAT駅からここまで軽便鉄道を利用

していたのはOriental Mining社時代のことなのかもしれません。

 

 

しかしなあ。こんな風景を期待して行ったんですけどね。

日本軍上陸地の碑が再設置されたことからもわかるように、

東海岸の海岸線って地球温暖化のせいか上がって来ている。

 

草の生えっぷりを見る限りでは、大潮の時にだけ地面が~では

なさそうなので、沖の砂州が大きくなっているんでしょうね。

 

image

 

夫がTUMPATでVIRALなチェンドル屋さんがある!と言うので

探してみたら、すぐ近くのGetingというエリアにありました。

 

そこで知ったこと。亡き義兄と夫は、タイ側に住む伯父さんに

会いに行くために、こっそりGetingからボートに乗ったことが

あるんだそうです(←もちろん旅券は不携帯)。

 

それを聞いて、Google Mapで調べてみたライライ。

そんなに近いなら国境まで行ってみよう!ということになり(笑)

そのままPengkalan Kuburまで勢いで行ってしまいました。

 

image

 

ここには免税店があって、たくさん買わなければ無税です。

お酒やたばこではなく、チョコレートやタイのお菓子、衣類、

台所用品(ZEBRAやコレール)などを売っています。

 

ライライの好きなKABUKIやチョコレート、タイのラーメンを
買った後、無事に税金を払うことなくコタバルへ戻りました。

ハリラヤハジには帰省をしよう!と、3年ぶりにコタバルへ。

ずっと独り暮らしだった義母が義弟の家に引取られてからは、

私は会いに行っていませんでした。

 

義母がいた頃の義実家は、居心地がよかったわけじゃない。

泊っていた頃は、次々と人がやってきて面倒くさかったし、

夫と義兄が朝のお祈りをサボった時も、起こさなかった私が

悪いと怒られたこともありました(←誰の息子たちでせう?)。

 

それでも、最近ではホテルに泊まることが多かったけれど、

あの高床式の家に行けば、いつでも義母が待っていてくれた。

数年前からあまり手の込んだ料理はしなくなっていて、朝食は

いつも私が好きなクエを買ってきて、一緒に食べたものでした。

 

 

高速をクアラトレンガヌで下りて、コタバルへ向かう途中で

お土産を探したんですけどね。いかんせんハリラヤハジ当日。

ルマンのストールがあったので、そこで調達致しました。

 

義弟の家に着いたら、姪がひとりで留守番をしていました。

で、奥の部屋に入ったら義母がベッドの上にいました。食器や

ポットがそのままで、恐らく歩くのも大変なんだと思われます。

 

義弟はモスクで屠殺中らしく、姪がひとり、またひとりと帰宅

したものの、義弟と甥には会わないままホテルへあっさり移動。

 

 

今回のホテルはHOLIDAY VILLA。WAKAF CHE YEHの真ん前。

奥に見える広い土地はRTMだと夫が教えてくれました。

 

おおっ?コタバルのRTMは、確かIVERSENさんが設計したはず。

近くで見よう!と、義妹その1の家へ行くときに前を通るよう

夫に頼んだのですが。ぱっと見はよくある普通の建物でした。

 

 

以前コタバルの友人からもらった写真を探してみたところ、

どうも改築しまくったようですね。ああもったいない。

 

 

義妹その1は、ちょうどハリラヤ初日が誕生日。好物らしい

ETOK(しじみみたいな貝)を買って家に行ったのですが。

 

誰もいない(←Rantau Panjangへ行っていたらしい)。

 

義母が義実家にいた頃は、誰もが入れ代わり立ち代わり顔を

出し、私たちも兄弟姉妹に簡単に会うことができました。

でも今年のハリラヤ初日には、義母は義弟の家でひとりきり。

 

近くに住んで義母の面倒を見ていた義妹その1も、義弟の家は

遠いので、しょっちゅう会いに行くわけでもなさそうだし。

義兄たちも然り。まだ小さい子のいる義妹その2も忙しそう。

 

もちろん遠く離れたジョホールに住んでいる=何もしていない

私たちが口を挟めることじゃあなく、見ているしかないけれど。

それでも「義実家がなくなる=義母を中心とした生活の終わり」みたいで、ちょっと切なくなった帰省でした。