EleMariRai @ JB

EleMariRai @ JB

三人の娘たちとフルタイムのワーキングマザー。
マレーシア最南端のジョホールバルでのあれこれを綴ります。

「虎に翼」始まりましたね。

 

 

恥ずかしながら私は三淵嘉子さんのことを存じませんでした。

最初はJGの先輩かな?って思ったら、女高師の附属のご出身。

じゃあ、お嬢さんが多いんじゃ?と思ったら、らいてうさんも

三宅やすこさんや宮本百合子さんだってご同窓でしたね。

ふむふむ。リベラルなご家庭のお嬢さんたちってことか。

 

(平凡社©)

 

日本初の女性弁護士となったのは、三淵嘉子さんの他に2名。

3名とも明治大学専門部女子部で法律を学んだとのこと。

白雲なびく駿河台。権利自由の揺籃の。すごいぞ明治大学。

 

 

三淵嘉子さんは大正3年11月にシンガポールで出生。

新嘉坡にちなんで嘉子と名付けられたんだそうです。

お父様のお勤め先は台湾銀行シンガポール支店。

当時はBattery Roadにありました。

ご生家はRiver Valley Rd。社宅があったんでしょうかね?

 

 

オープニングのアニメーションが、私はとても好きですが

ネットでもおおむね好評ですね(←ブギウギがひどすぎた)。

シシヤマザキさんとおっしゃる方が手掛けたそうです。

メモメモ。水彩画が動き出すのが、とても素敵だと思う。

東京からの友人をアブバカールモスクへ案内して帰る途中、

昔の刑務所の門が開いていることに気づきました。

 

image

 

茫々と茂っていた雑草も刈られ、駐車スペースとなっている。

かつての刑務官宿舎だってみんな更地になっていました。

 

image

 

なんでも11月にPERSADAで開催された国連関係のイベントの

駐車場として利用されたんだそうです。そりゃあ頑張るよね。

 

image

 

友人とこっそりと中へ潜入。

ここが閉鎖されたのは2005年8月、中はそのままのようでした。

 

image

 

こっちへおいで、と誘うような階段が続いていましたが(笑)。

ヘビでも出てきちゃ嫌なので、ここであっさりと撤退。

 

image

 

監視塔へ続くであろう階段の扉にも「WELCOME」の落書き。

守衛さんもいないし。上りたくなって困ったのでした。

 

image

 

こうやって見ると改築予定があるように思えるんですけどね。

もう20年近く放置されているこの建物の設立は1883年。

サルタンアブバカールの頃ですから、建築はWong Ah Fook。

 

ここでは終戦後に3名のBC級戦犯の方の処刑が行われました。

軍事法廷がどこで設けられていたのか?はまだ調査中ですが、

ジョホールバルでは4法廷が開かれ、起訴された5名のうち

絞首刑3名、有期刑1名、無罪が1名だったそうです。

また、シンガポールでの判決後ここで服役された方もいます。

 

当時シンガポールに置かれていた日本人戦犯弁護部では、

ジョホールバルも含めて活動されていたそうです。よって

チャンギ―刑務所にて教誨師を務められていた田中本隆師は

(後の第81代池上本門寺貫主および第48代日蓮宗管長猊下)

ジョホールバルでの処刑にも立ち会っていらっしゃいました。

 

処刑後、チャンギ―刑務所の塀外に仮埋葬されていた方々は、

昭和30年にシンガポール日本人墓地に正式埋葬されましたが、

オートラムとジョホールバルで法務死された方々の埋葬場所に

ついては、現在まで判明していません。

週末はPARIT SULONGにて慰霊祭があったので、東京から

参加をした友人を案内がてら、夫と行ってきました。

 

image

 

まずAYER HITAMにあるジョホール州華僑殉難烈士の碑へ。

中華民国の国章がある公墓。いいのよ三ツ星じゃないから。

本国に戻って日本との戦争に参加された方もいたでしょう。

どうぞ安らかに眠ってください。

 

image

 

それから。ちょっと道を外れてSenggaranへ。ここは友人の

お父様が属していた近衛歩兵5連隊が通過しているそうです。(もっともお父様は占領後に入隊したので通ってません)。

 

image

 

小さな街なんですが、古い建物がそのまま残っていて萌え。

 

image

 

その後はBatu Pahatへ。Briyani Gumの都のBatu Pahat。

ということで。ランチはBP Briyani Powerにて。

 

image

 

私はビーフ。夫はマトン。友人はチキン。

ちゃんと色も味も違うブリヤニが出てきたのでした。

ACARも美味しかった。

 

image

 

やっぱりここですよね。金子光晴の泊まった日本人倶楽部。

この辺りは布地屋さんが多く、スマトラからの輸入品が安い

ので、夫と友人が写真を撮っている間、私はお買い物を。

 

image

 

行くぞ!Parit Sulong!とバトパハから移動し始めた時、

見覚えのある建物が、やけにスッキリした様子でご登場。

 

image

 

3年近く前に行ったときはこんなでした。

 

image

 

建物はほぼなくなっていて、後ろまでよく見えました。
何だったんだろう。普通のショップハウスだったのかな?
 
image
 
さて。友人をParit Sulongまで送って戻ったらもう夜。
ブリヤニでお腹がいっぱいなので、軽いものを探しに散策。
 
image
 
夫は有名なMEE RACUNを打包。私はKim Leng Bakeryを
目指して歩いていたら、そこだけやけに明るい建物を発見。

引かれるように入ってしまい、夫とお茶してしまいました。

 

image

 

前に来た時にはボロボロの廃墟だったのにね。

元々はMCAのバトパハ部長だった人の家だったそうです。

 

image

 

Kim Lengには選ぶのが難しいほど美味しいものがある。

スラバヤケーキなどの昔ながらの焼菓子が多いのです。

 

image

 

結局。スラバヤケーキ等こんなに買ってしまったのでした。

そして。ホテルに戻ってからしっかり食べたのでした。

 

image

 

日本人学校があったと言われている辺りの交差点。

バトパハの夜は、こうして更けていったのでした。
 
image
 
翌日は早朝からParit Sulong。
 
image
 
親しくしている歴史グループの人たちのコスプレ。
いや。マレーシア人がしているのですからノーコメントで。
 
image
 
式典の後、慰霊碑にポピーの花輪が捧げられているところ。
オーストラリアと英国の武官が、はるばるKLからご参列。
 
ここで亡くなった豪州兵は、置き去りにされたけが人でした。
近衛5連隊は、構わずシンガポールに向かえばよかったのに、
「始末せよ」という指示に従い豪州兵の息の根を止めました。
これが「Parit Sulongの虐殺」という呼ばれている出来事です。
 
image
 
ドローンを飛ばし、上から全員で記念撮影を。
 
image
 
恐れ多くも天皇陛下から賜った九九式狙撃銃がここにも一挺。
マレーシア国軍の博物館が本物を貸してくれたとのこと。
マレー連隊やアドナン中尉に関するブースもありました。
 
image
 
JBに戻る途中で、ヨンペンにある慰霊碑に立ち寄りましたが。
これには三ツ星があるので、MPAJA関連のものと判断します。
 
image
 
翌日。友人と日本人墓地へ行った帰りに近くの華僑慰霊碑へ。
こちらも中華民国の国章がある公墓です。
 
image
 
日本軍によって殺害された罪のない市民のための慰霊碑です。
犠牲者には中国に義捐金を送っていた人たちが多かったとの
記述がありましたが。故郷に送金をして何が悪い?
武器で攻撃してくるゲリラ(=MPAJA)相手ならともかく、
無抵抗の市民を殺戮したのはやってはならないことでした。

シンガポールの旧同仁病院の建物に工事が入っていると聞き、

用事のついでに行ってみることとしました。

 

image

 

が。すでに窓も外され、立ち入ることもできませんでした。

 

 

同仁病院は戦後すぐから1988年までMiddle Road hospitalに

なりました。敵性資産として英国に接収されたんでしょうね。

 

image

 

お隣は有名なDavid Elias building。ダビデの星があります。

最初のテナントはCOLD STORAGEだったそうです。

ここにあった「LE CAFE」にタルトを買いに来たことを、

数年前に拙ブログに書いたこともありました。

 

 

Middle Road周辺と言えば、戦前は日本人街だったのですが、

ユダヤ人コミュニティもあり、シナゴーグも近くにあります。

 

 

昭和の初めからは日本人会事務所もSelegie Roadに移転。

この写真は、1936年9月にベルリンオリンピック選手団が

寄港地だったシンガポールに立ち寄った時との記載あり。

 

image

 

次なる目的地は占領中に料亭「つるや」があった場所。

Middle Roadをそのまま進むと、道が二手に分かれます。

Sophia Flatsという素敵な建物があったのを横目に(笑)、

まず左側のSophia Rdを進みました。

 

image

 

コンドが立ち並ぶ合間に、古いテラスハウスが今もご健在。

 

image

 

こんな建物ばかりが並んでいた頃のことを想像してしまう。

 

image

 

料亭「つるや」に使われていた建物は、そのままありました。

 

image

 

元々は「南華女子中学校」。

女学校を料亭として使っていたんですね。まったく。

 

周囲の家も接収されて、どうも慰安施設になっていたようで、

大達市長が寺内総司令官に直接談判して閉鎖となりました。

 

お二人は碁友(←市長は素人初段)でウマが合ったようです。

碁を打ちながら、市政について聞いてもらっていた市長は、

「碁は下手糞だがいい人だ」と総司令官を評していました。

 

昭和29年10月7日の徳川無声と大達市長との対談(週刊朝日)

にも、この南華女学校の話が出てきますが、

総司令官の公邸は現在のISTANAだったので、風向きによって

太鼓の音がタランカタランカ聞こえてきたんだそうです。

 

image

 

そのまま左のAdis Roadに沿って丘を登ると、こんな素敵な

建物がありました。「Tower House」と呼ばれる家です。

1892年にとあるディベロッパーのために建てられました。

 

お向いは元メソジスト女学校。道がぐるっと迂回しているので

その裏が元南華女学校。昔は学校が多いエリアだったそうです。

 

image

 

そのまま道なりに進んでいくと、ISTANAの裏に出ました。

これじゃあ、風に乗って太鼓の音も聞こえる距離ですよね。

 

image

 

右折して、Upper Wilkie Roadのつきあたりにあったのは、

旧日本国領事館。1939年から開戦まで使われていました。

開戦前の1940年11月には、鶴見憲総領事もここにご着任。

 

元々はSIAKのサルタンのISTANAだったそうです。

日本国領事館になる前には、池田さんという歯医者さんが

住んでいらしたそうですが。まさに豪邸ですよね。

 

 

中央通りと呼ばれていたMiddle Roadからは、正面の丘の上に

総領事館が見え、在留邦人たちは心強く思っていたそうです。

この写真はDavid Elias Building辺りから撮ったものでしょう。

 

image

 

ここからは細い抜け道を通り、Wilkie Roadへ下りれます。

右側に古い家があるのが見えたので、行ってみたところ、

Abdullah Salleh Shookerというユダヤ人の家だったそうで、

日本占領中に亡くなられた後、福祉施設として使われていた

そうです(名前からムスリムだと思ってしまいました)。

 

image

 

ドビーゴートからMRTに乗るため、CATHAYビルの前を通過。

背後にあったホテルはなくなり、またもや改装中であります。

 

 

往時はなかなか立派な建物だったようですね。

BBCマラヤのために建築されたビルだったので、占領中には

NHKが入っていました。小津安二郎もここに住んでいました。

 

image

 

さすがに疲れたので、Tiong Bahru Bakeryでひと休み。

昨日がお七夜だった新米ママのマリリンにもお土産を買い、

レモンタルトが売切れだったので、チーズケーキとコーヒー。

どこのお皿かと思ったら、ジョホールが誇るCLAY TAN!

気取っていないのはフランス人がオーナーだからかな(笑)。

 

全部の通りを網羅しようと、ぐるぐるっと迂回を繰り返して

歩いてきたのですが。実は何ヶ所か建物と建物との間にある

抜け道(=階段)を通って丘の下までおりることができます。

「Tower House」の脇からも、CATHAY裏のHandy Roadへ

下りてくることができますので、試してみて下さい。

100段くらいあるので、上りより絶対に下りをお勧めします。

 

なお。Mount Sophiaはラッフルズの二番目の奥さんの名前に

由来する、もしくはこの辺りの農園主だったプリンセップの

娘さんに因んでいるなどのいくつかの説がありますが。

隣接しているMount EmilyとMount Caroline(=ISTANA)が

同じくプリンセップの娘さんたちに因んでいるとのことなので、

Mount Sophiaも同じに違いない、と私は思ってます。

未だ行方不明のMH370便(2014年3月)でも、ウクライナで

撃墜されたMH17便(2014年7月)の話でもありません。

 

 

1977年12月4日。ジョホール州南部のタンジョン・クパンに

ペナンからKLへ向かっていたMH653便が墜落しました。

ハイジャックされ、行き先をシンガポールに変更したという話

だったので、日本赤軍の関与も巷では噂されていたそうです。

クアラルンプール事件の数年後ですしね。

 

 

真相は、同機が爆発後に墜落したため現在まで不明です。

乗客93人と乗務員7名。乗客には日本人も1名いました。

乗務員の中にはフセイン・オン首相の甥御さんもいました。

 

激しく損傷し完全ではなかったご遺体は、クブンテーにある

慰霊碑の下に一緒に埋葬されています。現在ならDNA鑑定が

可能でも、1977年当時には判別が不能だったのでしょうね。

 

 

クブンテーにある慰霊碑は、日本人墓地からはやや北側。

寛柔一小の並びにあり、唯一の日本人犠牲者である GOTO TOMIO さんの名前も刻まれています。