僕の住んでいる地域では小、中学校では給食がありました。

 

今はコロナウイルスなどの影響で給食の提供方法についてもいろいろな工夫があると思いますが、僕の頃は基本的には

  • 主食(米、パン、たまにソフト麺など)
  • 主菜(肉、魚など)
  • 副菜(サラダなど)
  • 汁物(みそ汁、スープなど)
  • 飲み物(ほぼ牛乳、ほんとにたまにお茶など)

この5つで構成されていました。たまにこれらに加えてプリンやアイスなどが出てクラス内での駆け引きを伴う争奪戦が行われていました。

 

懐かしいですね。もう一度でいいから給食を食べたいな、なんて思います。

 

ただ、僕には子供ながらに疑問に思い続けていた組み合わせがありました。

 

それは

「米と牛乳の組み合わせ」

でした。

 

パンと牛乳はわかります。パンを口に入れた後に牛乳を流し込むと小麦の素朴な味わいと牛乳のまろやかさが見事にマッチしました。

 

「米と牛乳っておかしくないか?」

 

みんな平然と米を掻き込んでみそ汁を飲んだ後に牛乳を飲んでいる。

 

「僕だけだろうか、この違和感は?」

 

先生に聞いてみると

 

「牛乳にもお米にもそれぞれ栄養がたくさん入ってるから笹沼くんもちゃんとどっちも残さないようにね。」

と聞いたはずの疑問と全然違う答えが返ってきました。

 

子供ながらに

「話を逸らされたな。」

と感じそれ以上聞くのは止めました。

 

そして、いざ米を頬張ったあとに牛乳を流し込むと、食べられないこともありませんでした。

 

それからは平然とそのような食べ方をするようになりました。

 

なんなら、米の甘みと牛乳の甘みがそれぞれ微妙に違って、でもお互い邪魔することなく共存して、美味いと感じるようになりました。

 

いつの日からか、家での晩ご飯に僕が選ぶ飲み物はおかずがカレーでも、とんかつでも、ピザでも牛乳になっていました。

 

「食べてみないとわかんない発見ってあるよな」

と感じました。

 

マヨネーズご飯とかおいしいらしいですね、不健康そうだし、変にはまるとヤバいからやらないですけど。

 

でも、それは何も食べ物に限った話じゃないと思った。

 

野球ってほかのスポーツに比べて動く量が少なくて楽だって言うけどベース1週ダッシュすることは本当にきつい。

 

恋愛は人を幸せにするって言うけど失恋することはあまりにも悲しい。

 

いずれにおいても自分が「体験する」ことで得た「発見」だった。

 

そして、その「発見」はどんな本よりもどんなサイトよりも信憑性が高い僕の

「経験」

となった。

 

「経験」が増えるたびに視野が広がるような気がして、

僕が抱えている

「自分とはどういう人間なのか」

という答えが少しずつ見えてくるような感覚があった。

 

例えば、失恋してそれをひきずった、ということから

「どうやら、僕は気持ちの切り替えが普通の人より時間がかかる奴なんだな」

といった具合である。

 

いろんなことを「体験する」ことでわかることがたくさんあるのかもしれない。

 

よし、じゃあ、今まで1回もやったことのないデリヘル嬢のサービスをやってみようかな。

 

え?やましい気持ちなんかないですよ?

 

僕は「初体験」をしたいだけですけど。

 

読んでくださりありがとうございました。お願い

昨日の昼、東京はとにかく暑かったですね。

 

「よし、本屋に行こう」

と散歩をしていると体内から汗が噴き出してくるわくるわ。

 

梅雨の時期は好き、何て言ってましたが地球温暖化でしょうかね、

普通に

「あれ、梅雨終わった?」

って思いました。

 

背中の汗が肌とシャツの糊のような役割を頼んでもないのに遂行し、べったりくっついて離さなかったです。

 

僕の行きつけの本屋はちょっとしたビルの3階に位置し、その横には

「ラーメンスクエア」

称するラーメン屋がたくさん立ち並んでいるラーメン特区みたいなものがあります。

 

12時半くらいに本屋があるビルにつきました。疲れと達成感、体内に残る暑さをも抱え込んでエスカレーターに乗って3階に向かいました。

 

すると、前後5メートルくらいにそれぞれお昼休みだと思われるYシャツを纏ったおっさんがそれぞれ乗っていました。

 

とてもお昼休みに本を買いに来るとは考えにくいですね。

 

「おいおい。まさかこんな暑い日にラーメン食うの?ただでさえこんな汗だくなのにもっと汗かいて加齢臭と汗臭さ、ニンニク臭さのトリプルコンボでOLからめちゃめちゃ嫌われるぞ。」

 

推測通り、おっさんたちは2人とも汗だくのまま「ラーメンスクエア」の中に入っていきました。

 

 

10秒ほど本屋とラーメンスクエアの間に立ちすくんだ後に抱いた感想は

「おっさんってすげえなぁ」でした。

 

こんな日に食いに行くってことはそれなりのラーメン好きだ。

そして、彼らのラーメンに対する熱意に今日の天候なんて関係ないのだ。

OLがどう思うかなんて関係ないのだ。

 

 

 

僕は考えてみれば、いつの日からか何か行動するときに

「他人がどう思うのか」

ということを気にするようになっていた。

 

もちろん、それは大人になって、他人に迷惑をかけないためにある程度必要な感情だとは思う。

 

ただ、自分が本当に好きなものまで他人の目を介在させるのは時に自分の本当の感情に無意識に嘘をつくことになる。

 

「こんなことにハマってる俺、イタくね?」と思われるという視点が本当はハマりたくてもブレーキをかけるのだ。

 

 

いろいろ思われることさえも厭わないようなおっさんたちはやっぱり図太いし(良い意味)、強い。生き様にブレがない。

 

さすがGDP3位のこの国を支えている人たちだな、と尊敬しました。

 

僕もおっさんになったらあんな風にラーメンを食べに行けるかな。

 

いや、OLからの目線とかそういうこと以前に、そもそもあんな暑い日にラーメンはむりだわ。

 

読んでくださりありがとうございました。お願い

最近では大学の授業はすべてオンラインで行われます。

 

中高のように学習指導要領がない大学では授業形式、成績の判断方法などについて教授にゆだねられている部分が大きく

 

  • 課題をワードなどで提示し提出することで出席とするタイプ
  • ZOOMを使ったオンライン授業
  • オンデマンド(録画)を配信するタイプ

などいろいろあって面白いんですけど

 

最近気づきました。

ZOOMを使う授業方式を採用しているのは女性の教授の方が多い。

 

もちろん、たまたまなのかもしれませんが僕がとっている授業で、このZOOM方式を採用している教授の3分の2くらいが女性の方でした。

 

男性の教授はオンデマンド型を採用しているのが多いという印象です。

 

なんでだろうな。

 

ちょっと考えてみた。

 

オンデマンド型の授業を聞いた後にZOOMの授業に参加し終えると本来の疑問と全然違う答えが出てきた。

 

「ZOOM授業を採用する教授は生徒のリアクションというのを大切にしているな。」

 

ZOOM授業を採用する教授は授業内容について一通り説明を終えると、

 

「どう?わかった?」

と確認して

 

僕らがうなずいたり

「わかった。」

と発言したり、チャットに書くと

 

「嬉しい!」とか「よし!」

と笑顔を見せる。

 

表情が変わらなかったりわかんない雰囲気を感じると

 

「難しいよね!もう1回説明するよ!」

と対応する。

 

ZOOMの授業を採用する教授は

『目の前に伝える相手がいて「共感する」ということ』

を大切にしているんだろうな。

 

別にオンデマンドを否定している訳じゃない。

 

論理的なアプローチをするならオンデマンドの方がわからなかったら止められるし何回も見れる。わかってるところは飛ばせるし効率がいい。

 

絶対にオンデマンドの方が「効率的」ではある。

 

ただ、その「効率的」でない分、「共感性」をZOOMには感じる。

 

どちらがいいか、なんてのはわからない。

 

ただ、ZOOM授業をしていた教授は楽しそうだった。

 

僕が思ったのは

「僕は相手のことを考えて人に接してきたか?」という自分への問いだった。

 

気づけば僕は気心知れない人と話すのが苦手になっていた。

 

「この人はどういう人なんだろうか。」

 

「僕のことにどういう印象を抱いていて、今この発言をしたらどう変わるだろうか。」

 

そんなことを考えると何も話せなくなるのである。

 

そして、なんとなく気まずくなって終わる、というのがテンプレートだった。

 

僕はいままで他人のことを知ろうとはしていたが共感しようなんて気持ちはみじんもなかった。

 

なんなら、バカにしていた。

 

TIKTOKで口をパクパクさせていたり、ウインクしている女子のことを本当にイタイ奴らだと決めつけていた。

 

彼女たちと話さなきゃいけないときは、とにかく表面的、形式的なオンデマンドのような話をして自分の本心を出してしまわないように俯いた。

 

「相手の気持ちを理解して共感してあげること」

 

なかなか難しい。

けど、これができれば僕の人見知りはおそらく治る。

 

「絶対にこの人見知りを治すんだ!!」

 

そう決めて

インスタグラムに載っていた知り合いの女の子のプリクラ写真。

 

どんだけ目を大きくしてんだよ。そんなデカかったらもはやエイリアンだろ

 

「目がパッチリでかわいいな。」と共感して、強めに「いいね」を押した。

 

読んでくださりありがとうございました。お願い

関東は今日から梅雨入りらしいですね。

 

今日は梅雨らしいどんよりと湿った空気を涼しい風が撫でていき、とても気持ちよかったです。

 

梅雨の時期は雨が多いので嫌われがちですが、僕にとって6月、とくに梅雨はかなり過ごしやすい月です。

 

心地よく涼しいし、心地よく湿ってる。

 

晴れても暑すぎないし、雨でも寒くない。

 

雨が降れば部活の練習は、中止か室内での軽いトレーニングに変わる。

 

そして、雨の日にはただ家にいるというだけでどことなく幸福感を感じるんですよね。

 

屋根に打ち付ける雨の音を聞きながら読書をしていると

自分の日頃のストレスが雨に流されていく感覚があります。

 

テルテル坊主を作っているそこの君に言いたい。

 

「君は雨を晴れにはできない。雨の日は雨の日で素晴らしい1日だよ。」

 

読んでくださりありがとうございました。お願い

 

僕の大学では春学期の授業を全部オンライン形式で行うことが決まりました。

 

それに従って、期末試験を対面で実施できないことから大学側はレポートなどの課題によって期末試験の代替をする、という対応をしなければいけなくなりました。

 

つまり、課題の量が増えました。

 

なかなかハードな課題を出されることもあるのですが、できなくはないので上手くやりくりしながら取り組んでいる、という状態です。

 

その課題の中に「あなたは、〇〇〇についてどう思う?」という漠然としたものがありました。

 

本音を書くなら、「どうでもいい。」でした。

 

教授と違って深い知識を持っている訳でもないし、僕の意見で何か変わるわけでもないんだからそんな課題出すよりあなたの持っている豊富な知識の一部を教えてくれよ。

 

でも、そうは書きませんでした。

 

そうすることは、教授への抗議の表明となるからです。

 

僕が不満を持っているのはその課題のその質問のみですが、それを書くことは教授の授業そのものや教授という人間をも否定している発言だととられかねない。そう思ったからです。

 

高校の部活ではそういうことが多かった。

 

基本的には賛成してるし支持しているんだけど

「ここの部分だけちょっとおかしくないか?」なんてことはたくさんあった。

 

後輩が先輩を敬い敬語で接するべきということは理解できたし賛成だった。

 

ただ、後輩は一人称を「自分」で統一する(例、自分はこう思います。)というルールは理解できなかった。

 

なぜ「僕」や「私」ではダメなのか。

「自分」という呼び方は礼儀を表すものなのか?

会社の面接とかは「私」だよな。

不思議に思った。

 

でも、そういう発言をすることはできませんでした。

 

それは僕にとっては一部分でも

先輩たちから見ると後輩がこの部のルールにケチをつけた

ということになるから。

 

先輩たちの指示にケチをつけることが

「生意気な奴」とか「メンドクサイやつ」というふうになることは容易に想像できました。

 

そして、どうせそのルールが変わらないことも。

 

自分の本音に蓋をしながら隠しながら生きていくということがそのあたりから始まりました。

 

ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー

 

最近、自分の中に溜め込んで日記だけに書いていたことをこのブログに掲載するということを始めました。

 

「初めてよかったな。」と思いました。

 

顔もわからないし会ったこともないし嘘なのかもしれないけど

 

いいねしてくれたりコメントをもらったりすると

「あ。理解してくれる人がいるんだ。」と感じてかなり気持ちがほっとします。

 

いつかここに書いてきたような自分の本音を受け止めてくれるような人ができたらこのブログを辞めたいな、と思っています。

 

まだ書き方は覚束ないですが

読んでくださりありがとうございました。お願い