「幸せになりたい」という思いは、誰もが持つ自然な気持ちだと思います。

私も相談者から「結婚したら幸せになれますか」とか「老後は幸せでしょうか」と訊かれることがあります。

でも基本的に私が「幸せになれます」とか「幸せではありません」とか言うことはありません。それは私が決めることではなく、ご本人が感じ取るものだからです。

 

例えて言えば、鑑定者は気象予報士や地図ナビのようなもので、私は天気予報や道路状況などの重要情報を伝えるだけの立場です。

その情報を活かしてルートと装備を決定し、実際に人生の旅をするのはご本人であるわけで、その旅物語の主人公は他の誰でもないご本人なのです。

 

それはさておき、そもそもその結婚が…、或いはその人生が「幸せかどうか」なんて、長い歳月を経て死ぬ瞬間にならないと、なんとも言えないと思います。

 

老師に命理学を教わって私が知ったゆるぎない真実…

それはこの世は全て「無常」であるということです。

本当に全ての事象は時間の経過とともに常に移ろい変化してゆきます。人の運勢だけではなく風水も変化します。つまり、命理学は時系列変化を観察する学問だとも言えます。

 

で、もし相談者の方がとてもお若い場合はですね、私も特に「幸せになりたい」というご本人の思いに水を差したくなし、尊重したいと思っています。それがその人の前に進む原動力にもなるでしょう。だから、若い人の未来について限定的な言い方もしたくありません。

 

ですが、もし相談者が中年以上の場合、口に出さずとも私の気持ちとしては「幸せを目指す重荷は、もう肩から下ろしてしまっていいですよね?」というスタンスでいます。

 

『幸せは、決して目標ではないし、目標であってもならないし、さらに目標であることもできません。それは結果にすぎないのです。』

(ヴィクトール・エミール・フランクル著 「それでも人生にイエスという」より)

フランクル博士の考え方については以前ブログでご紹介していますのでこちらをご覧ください

 

つまり、私たちが生きることに何かを期待するのではなく、本当は逆に私たちが人生から常に問われていて、人生から課された課題に答える義務があるだけなのです。

 

要はですね、中年以降になってくると重要なのは「自分の現実に向き合うこと」だと五十路の私は思うのです。あなたの望みは良きパートナー?お金?温かい家庭?立派な子供?他人からの評価?…こういった若い頃に憧れをもって眺めていた「欲しいもの図鑑」、でも中年になったら閉じてしまいましょうよ!人生にはどうしても手に入らないものがあり、仮に「幸せなるもの」を掴んだ瞬間があったとしても、それはいずれ移ろう定めのものです。

 

「幸せかどうか」というモノサシを捨てても、人生の価値が揺らぐことはないはずです。

 

努力を重ねることは大切ですが「不確かな未来の幸せ」のために、今を仮の姿だと思って生きるのは実にもったいないことではないでしょうか。(特に中年以降)

幸せを目指すと、つい人と自分を比べて「私も幸せになりたい」と思ったり、「自分はなぜまだ幸せではないのか」とモヤモヤしませんか?

 

それで消耗するくらいだったら、自分の現実を見つめて、自分にできることをやって、今日の日を心やすらかに機嫌よく過ごしたほうがよいのではないでしょうか。

 

誤解がないように書きますが、「幸せ」を感じること自体は私も素敵なことだと思います。手入れをしていた花がきれいに咲いて「幸せ」だと感じることは素晴らしいですが、もし「なぜこの鉢は咲かない?咲かなければ意味がない」とジリジリしてしまったら、毎日がつまらなくなってしまうだろうということです。

 

それは目標を取り違えているということでは?

もし、あなたがその鉢に毎日水をやったり害虫をとったりして世話をしてきたなら、それは立派に責任を果たしたということではないでょうか?

 

それに、もし花が咲いても、それは必ず枯れる時が来ます。「ある瞬間に感じた幸せ」もいつか必ず過去へと遠ざかってゆきます。その移ろいを静かに見送るのが私たちの義務なのかもしれません。

 

つまり、今ではない「不確かな未来の幸せ」を追い求めていると、ストレスが溜まりませんか?と言いたいのです。

 

事実として、それぞれの人生にはどうしても手に入らないものがあるのです。だけど人にはそれぞれ取り組むべき課題がある…その課題を勇気をもって引き受ける人は美しく、その姿にこそ生きる価値があると私は思います。

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