さて、前回の続きです。

人間関係の悩みもつらいけれど、それよりももっと不可抗力なことで苦しんでいる場合はどうしたらいいのでしょう。

病気とか、介護とか、経済的な困窮とか、もうどうにもならない苦境の場合…。

実のところ、私も宗教家ではないし、上から目線で言えること何もないです。月並みですけどまずは、公的支援やNPOなど、求めうるあらゆるサポートを全力で求めましょう。

それでも、「なぜ自分だけがこんな人生なのか?」と胸をかきむしりたくなるときがあるかもしれません。

ここで、この本をご紹介します。

 

ヴィクトール・エミール・フランクル著

「夜と霧」

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著者は精神科医であり心理学者。第二次世界大戦中にユダヤ人としてナチスに拘束され、アウシュビッツを皮切りに各地強制収容所に送られた後に生還を遂げた人です。

 

どうか誤解しないでくださいね。

私はもちろんここで「あなたより過酷な経験をした人もいるんだから、あなたも頑張って」と言いたいわけではありません。

そんなことで皆が元気になるなら、世の中の苦しみは全てなくなるわけですから。

 

私は決してそいういうことを伝えたいのではありません。

ただ、想像を絶するような苛酷な境遇をとおして、人はどのように「生きる意味」を考えるのか…著者の貴重な考察を皆さんと一緒に考えてみたいのです。

なお、確かにこの本には必然的に強制収容所の惨状についての記載がありますが、事実報告を主眼にしているのではなく、また、著者の慟哭をたたきつけるものでもなく、ただ、このような状況下における人間の心理状況の記録と、著者の洞察に主眼が置かれています。

 

前置きはさておき、衝撃を受けた言葉の数々を…。

 

『あらゆるものを奪われた人間に残されたたった一つのもの、それは与えられた運命に対して自分の態度を選ぶ自由、自分のあり方を決める自由である。

 

気持ちが萎え、ときには涙することもあった。だが、涙を恥じることはない。この涙は、苦しむ勇気を持っていることの証だからだ。

   
 

「生きていることにもう何にも期待が持てない」

こんな言葉にたいして、いったいどう応えたらいいのだろう。

ここで必要なのは、生きる意味についての問いを百八十度方向転換することだ。

わたしたちが生きることからなにを期待するかではなく、むしろひたすら、生きることがわたしたちからなにを期待しているかが問題なのだ、ということを学び、絶望している人間に伝えねばならない。

 

もういいかげん、生きることの意味を問うことをやめ、わたしたち自身が問いの前に立っていることを思い知るべきなのだ。生きることは日々、そして時々刻々、問いかけてくる。わたしたちはその問いに答えを迫られている。考え込んだり言辞を弄することによってではなく、ひとえに行動によって、適切な態度によって、正しい答えは出される。

 

生きるとはつまり、生きることの問いに正しく答える義務、生きることが各人に課す課題を果たす義務、時々刻々の要請を充たす義務を引き受けることにほかならない。

 

どんな運命も比類ない。どんな状況も二度と繰り返されない。そしてそれぞれの状況ごとに、人間は異なる対応を迫られる。誰もその人の身代わりになって苦しみを、とことん苦しむことはできない。この運命を引き当てたその人自身がこの苦しみを引き受けることに、ふたつとない何かをなしとげる、たった一度の可能性はあるのだ

 

そして↓の叙述は著者の別の著書「それでも人生にイエスと言う」からですが…。

幸せは、決して目標ではないし、目標であってもならないし、さらに目標であることもできません。それは結果にすぎないのです。

 

これらの言葉を噛み締めましょう。ご一緒に…。

(「夜と霧」には新旧版二つの翻訳があります。上記は新版によるものです)

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