蒸気機関車とデカ盛りと道の駅を求めて毎週末、家族旅行しているのにキャンプ歴のない軽自動車キャンピングカー「eK-Camp(ROTUS(ロータス)RV販売 )」銀色テントむし乗りのnorizoです。
都 営地下鉄新宿線の西大島(にしおおじま)駅のA1出口から都道306号線を南へ進み、小名木川を渡った先の進開橋南詰交差点から小名木川沿いを西に 270m、貨物線の高架をくぐり1本目の路地を南に進むと160mほどで西側に見えてくるのが北砂小学校で、その校門のすぐ奥に置かれた掲示板付近が 「ジョン万次郎宅跡宅跡」です。
わかりやすく「ジョン万次郎」としましたが、現地の掲示板には「中濱萬次郎(なかはままんじろう)宅跡」と記載されています。
小学校の校門の中にあり、訪問時にはちょうど改修工事中で門をくぐることは出来ませんでしたが、小学校内には「ジョン万ルーム」と言う資料室もあるそうで、。
ジョン万次郎こと中濱萬次郎は土佐藩(高知県)中浜の漁師で、14歳だった天保12年(1841年)に遭難し鳥島で半年ほど無人島生活をしていたたところをアメリカの捕鯨船に救われて渡米しました。
アメリカ本土に渡った万次郎は船長の養子となり、学校で、英語・数学・測量・航海術・造船技術などを学びました。
嘉永4年(1851年)に薩摩藩領の琉球(現:沖縄県)に帰国しますが薩摩藩や長崎奉行所などで長期に渡って尋問を受けました。
嘉永6年(1853年)土佐へ帰国した際に日本語をほとんど忘れていた万次郎は、外国語に精通した河田小龍ら立ち合いのもと尋問を受けその際に「漂巽紀略全4冊」が発行されています。
その後高知城下の藩校・教授館の教授となり後藤象二郎(ごとうしょうじろう)、岩崎弥太郎(いわさきやたろう)等が直接指導を受けたと言われています。
万次郎は幕府に招聘され江戸で直参旗本となり故郷である「中濱」を姓として授かり、中濱万次郎と名乗るようになりました。
この異例の出世の背景には、ペリー来航によりアメリカの情報を必要としていた幕府がありました。
万次郎は翻訳や通訳、造船指揮にと精力的に働き、また藩校の教授にも任命され活躍しますが、その頃に暮らしていたのがこの場所であると言われています。
ち なみに、ここへ至る際に歩いた小名木(おなぎ)川も歴史に深くかかわっており、1590年頃に江戸城を居城に定めた徳川家康(とくがわいえやす)が兵糧と しての塩の確保のため行徳塩田(現在の千葉県市川市行徳)に目を付け、小名木四郎兵衛(おなぎしろべえ)に命じて運河を開削させたのが始まりです。
都内各所を歩いてみると、「教科書で名前は見たことがあるけれど何をした人だっけ?」と言う有名人の史跡が数多く存在します。
ちょっとした休みに、見つけた史跡をもとに歴史小説などをめくってみるのも楽しい休日ではないでしょうか。
□ジョン万次郎宅跡宅跡
TEL:利用不可
東京都江東区北砂1丁目19-11
※北砂小学校内(無断侵入不可)
開館時間 9:00-17:00
※小学校内にジョン万ルームと言う資料室があるらしい。
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2016/03/13 16:30 天候:曇り
測定値:未測定(測定器具:エアカウンターS)
測定場所:駐車場GL約1000mm(腰高)