立花隆さんという人は、おっちょこちょいな人だなあ。先日、NHKの「人間大学」で、臨死体験の話をされているのを聞いて、私は思った。気持ちはわかるのだけど。
政治や経済、せいぜいインターネットくらいまでなら、調査とデータとデータ分析で、わかりたいことはわかるだろうが、こと、「死」、生きているというまさにそのことにおいて誰ひとりわかるわけのない死について、調査とデータとデータ分析でわかるだろうと思って頑張っている立花さんは、ちょっと気の毒みたいだ。
カテゴリー・エラーというより、ジャーナリズムの限界だろう。私は聞いていて、なんだか痒くなるような心地がした。臨死体験者何パーセントはお花畑を見、さらに何パーセントはそこで先に死んだ人に会った。これだけの事例で性急に結論づけるわけにはいかないが、さらなる調査によって、臨死体験はどうも現実のものと言えるのではなかろうか。
そんなに知りたいのなら、死んでみればー
意地悪でなく、率直に私はそう思った。何百何千の事例を集めたところで、臨死体験を語るひとは、ひとり残らず、生きている人である。死を語っているのは、生きている人である。あれは、どこまでも、生きている人の言葉なのである。生きている人に、死のことは、逆立ちしたって語れやしないのだ。そして、死んでいる人には、逆立ちも、語ることも、できやしないのだ。したがって、どうしても生きているうちに死のことを知りたいのなら、自分で死んでみるしかないのである。
生死について考えるためには、事例は不要だ、論理だけで十分なのだ。氏においては、「死とは何か」という問に対して、事例によって答えが為される。その限り、「死とは何か」と問いながらも、じつは「死」は氏にとって、すでに自明とされているのだ。事例によって答えが為されるそのようなものとして、すでに自明なものなのだ。しかし、何が自明か。自明ならば、なにゆえにそのように思い悩んでおられるのか。つまり、「死とは何か」と問うて、事例によって答えが為されるところのその「死」こそが、問われているのだから、事例はその答えにならないということである。
あるいはまた、「死後の世界は在るか無いか」という問い方が為される。何をもって「死」と言うかが明瞭でないのに、何をもって「死後」と言うべきか。在る側の我々が、「在る」と言うなら同じ「在る」だし、無いなら無いで、無いことの無いを、在る我々にいかにして知り得ましょうか。
さらにはまた、「脳内現象」か「現実体験」か、という判別の仕方が為される。脳内現象なら幻覚で、現実体験こそ本当ということらしい。しかし、なぜ脳内現象が現実体験であってはならないのか。脳以外の何が現実を体験しているというのか。幽体離脱なるものは「脳外体験」であるとして、それすら脳の見る夢であって何の不都合があろう。脳の見る夢であっては困るのなら、そんなの、夜毎のことではないか。ましてや、白昼のこの現実が、脳の見る夢であることには、もっと困っていいはずではないか。なにゆえに臨死体験ばかり、その真偽が問われるのだろう、問えると思っているのだろう。
私には、凡百の臨死体験なんぞより、臨生体験、自分が今この生に臨んでいるということのほうが、はるかに理解し難い不思議である。先に考えるべきは、こっちである。臨死のお楽しみは、最後のことで、よろしいのではないでしょうか。
政治や経済、せいぜいインターネットくらいまでなら、調査とデータとデータ分析で、わかりたいことはわかるだろうが、こと、「死」、生きているというまさにそのことにおいて誰ひとりわかるわけのない死について、調査とデータとデータ分析でわかるだろうと思って頑張っている立花さんは、ちょっと気の毒みたいだ。
カテゴリー・エラーというより、ジャーナリズムの限界だろう。私は聞いていて、なんだか痒くなるような心地がした。臨死体験者何パーセントはお花畑を見、さらに何パーセントはそこで先に死んだ人に会った。これだけの事例で性急に結論づけるわけにはいかないが、さらなる調査によって、臨死体験はどうも現実のものと言えるのではなかろうか。
そんなに知りたいのなら、死んでみればー
意地悪でなく、率直に私はそう思った。何百何千の事例を集めたところで、臨死体験を語るひとは、ひとり残らず、生きている人である。死を語っているのは、生きている人である。あれは、どこまでも、生きている人の言葉なのである。生きている人に、死のことは、逆立ちしたって語れやしないのだ。そして、死んでいる人には、逆立ちも、語ることも、できやしないのだ。したがって、どうしても生きているうちに死のことを知りたいのなら、自分で死んでみるしかないのである。
生死について考えるためには、事例は不要だ、論理だけで十分なのだ。氏においては、「死とは何か」という問に対して、事例によって答えが為される。その限り、「死とは何か」と問いながらも、じつは「死」は氏にとって、すでに自明とされているのだ。事例によって答えが為されるそのようなものとして、すでに自明なものなのだ。しかし、何が自明か。自明ならば、なにゆえにそのように思い悩んでおられるのか。つまり、「死とは何か」と問うて、事例によって答えが為されるところのその「死」こそが、問われているのだから、事例はその答えにならないということである。
あるいはまた、「死後の世界は在るか無いか」という問い方が為される。何をもって「死」と言うかが明瞭でないのに、何をもって「死後」と言うべきか。在る側の我々が、「在る」と言うなら同じ「在る」だし、無いなら無いで、無いことの無いを、在る我々にいかにして知り得ましょうか。
さらにはまた、「脳内現象」か「現実体験」か、という判別の仕方が為される。脳内現象なら幻覚で、現実体験こそ本当ということらしい。しかし、なぜ脳内現象が現実体験であってはならないのか。脳以外の何が現実を体験しているというのか。幽体離脱なるものは「脳外体験」であるとして、それすら脳の見る夢であって何の不都合があろう。脳の見る夢であっては困るのなら、そんなの、夜毎のことではないか。ましてや、白昼のこの現実が、脳の見る夢であることには、もっと困っていいはずではないか。なにゆえに臨死体験ばかり、その真偽が問われるのだろう、問えると思っているのだろう。
私には、凡百の臨死体験なんぞより、臨生体験、自分が今この生に臨んでいるということのほうが、はるかに理解し難い不思議である。先に考えるべきは、こっちである。臨死のお楽しみは、最後のことで、よろしいのではないでしょうか。