私は、他人の死というものを、「悲しい」というより、むしろ「おかしい」「変だ」というふうに感じる。
というのは、死んだ人は死んでいるのだから、自分の死を悲しいとは思っていないはずなのだから、悲しいと思っているのは、したがって、死んだその人ではなくて、生きている側の人である。生きている側の人が、死んだ人はさぞ悲しかろうと思って、そのことで悲しく思ったりするのである。しかし、死んだ人は悲しくはないのだから、死んだ人のことを悲しく思っている生きている人は、すると一方的に悲しんでいるだけということになる。悲しみというのは、多分に、自分勝手なものなのである。生まれてきた子供が、喜んでいるかわからないのに、一方的に喜んでいるのと同じである。
そんなふうな視点をもつと、人の死を悲しむというのは、かえって何かこう分を越えたことをしているような気持ちに、私はなる。
「いつまでも悲しんでいると、死んだ人も悲しみますよ」
という慰めは、よく考えてみると、よく出来ていて、自分が悲しいから悲しいというのは、死んだ人にとっちゃ、知ったこっちゃないことのはずだからである。
「泣かれたって困る」
もし思うとしたら、死んだ人は思うのではないか。思うわけ、ないが。
さすがにその場でそう言ったことはないが、人が死ぬのは「変だ」と感じ、ときに爆笑したくなって困るのが、葬儀の最中である。
人は、お葬式というあのセレモニーによって、いったい「何を」しているのだろう。「死者を送る」「冥福を祈る」「弔辞を読む」、これらすべて、
死んだ人は生きている
と思っているのでなければ、あり得ない行為ではないか。死んだ人は生きている、何らかの形で存在していると思っているのでなければ、人が死者のために何かをするなど、あり得ないはずではないか。しかし、そう思っているなら、なぜ人はお葬式で悲しんでいるのか。それこそ、生者の側の得手勝手ではないのか。
生きていた人が死ぬ、死んで居なくなる、ということは、どう考えても変なことだ。人がそれを、「変だ」と思うより、「悲しい」と思うことのほうが多いのは、人生という出来事を、形式の側からでなく内容の側からのみ見ることに慣れているからだ。人生の内容とは、自分は誰かであって、苦しみとか喜びとかの感情とともに、前方へ向かって生きているといったような意味的内感である。対して、人生の形式とは、ほかでもない、生死というこの枠である。枠それ自体は、無時間、非意味、非人称である。どうしてそうなのだか、それこそ私の知ったこっちゃないから、それは形式と呼ばれるのである。
ところで、この形式をそうと見ているところのこれ、これは、それでは、誰なのか。巨大な疑問符が、ここにおいて笑いへと炸裂する。しかし、お葬式の最中だけは、やはり、まずい。
非意味の形式の側から、意味らしき内容の側を見るときの端的な感情、これをひとことでいうと、
「あ、ばかばかし」
となる。私は自分の人生の毎瞬をわりとそんなふうに感じる。馬鹿にしているのではない、可笑しいのである。お葬式で泣かれても、ちょっと困る。
自分の葬式、式次第を指示しておく人がいるという。あるいは、夫と同じ墓に入るのは「いやだ」とか。内容のほうから形式を見ようとするときに起こりがちな、ほほえましい勘違いである。私ならいっそ、私の葬式をこのように指示しておく。泣いてはならない、しかしまた、決して笑ってはならない、と。
というのは、死んだ人は死んでいるのだから、自分の死を悲しいとは思っていないはずなのだから、悲しいと思っているのは、したがって、死んだその人ではなくて、生きている側の人である。生きている側の人が、死んだ人はさぞ悲しかろうと思って、そのことで悲しく思ったりするのである。しかし、死んだ人は悲しくはないのだから、死んだ人のことを悲しく思っている生きている人は、すると一方的に悲しんでいるだけということになる。悲しみというのは、多分に、自分勝手なものなのである。生まれてきた子供が、喜んでいるかわからないのに、一方的に喜んでいるのと同じである。
そんなふうな視点をもつと、人の死を悲しむというのは、かえって何かこう分を越えたことをしているような気持ちに、私はなる。
「いつまでも悲しんでいると、死んだ人も悲しみますよ」
という慰めは、よく考えてみると、よく出来ていて、自分が悲しいから悲しいというのは、死んだ人にとっちゃ、知ったこっちゃないことのはずだからである。
「泣かれたって困る」
もし思うとしたら、死んだ人は思うのではないか。思うわけ、ないが。
さすがにその場でそう言ったことはないが、人が死ぬのは「変だ」と感じ、ときに爆笑したくなって困るのが、葬儀の最中である。
人は、お葬式というあのセレモニーによって、いったい「何を」しているのだろう。「死者を送る」「冥福を祈る」「弔辞を読む」、これらすべて、
死んだ人は生きている
と思っているのでなければ、あり得ない行為ではないか。死んだ人は生きている、何らかの形で存在していると思っているのでなければ、人が死者のために何かをするなど、あり得ないはずではないか。しかし、そう思っているなら、なぜ人はお葬式で悲しんでいるのか。それこそ、生者の側の得手勝手ではないのか。
生きていた人が死ぬ、死んで居なくなる、ということは、どう考えても変なことだ。人がそれを、「変だ」と思うより、「悲しい」と思うことのほうが多いのは、人生という出来事を、形式の側からでなく内容の側からのみ見ることに慣れているからだ。人生の内容とは、自分は誰かであって、苦しみとか喜びとかの感情とともに、前方へ向かって生きているといったような意味的内感である。対して、人生の形式とは、ほかでもない、生死というこの枠である。枠それ自体は、無時間、非意味、非人称である。どうしてそうなのだか、それこそ私の知ったこっちゃないから、それは形式と呼ばれるのである。
ところで、この形式をそうと見ているところのこれ、これは、それでは、誰なのか。巨大な疑問符が、ここにおいて笑いへと炸裂する。しかし、お葬式の最中だけは、やはり、まずい。
非意味の形式の側から、意味らしき内容の側を見るときの端的な感情、これをひとことでいうと、
「あ、ばかばかし」
となる。私は自分の人生の毎瞬をわりとそんなふうに感じる。馬鹿にしているのではない、可笑しいのである。お葬式で泣かれても、ちょっと困る。
自分の葬式、式次第を指示しておく人がいるという。あるいは、夫と同じ墓に入るのは「いやだ」とか。内容のほうから形式を見ようとするときに起こりがちな、ほほえましい勘違いである。私ならいっそ、私の葬式をこのように指示しておく。泣いてはならない、しかしまた、決して笑ってはならない、と。