【書名】一冊で哲学の名著を読む
【著者】荒木清
【発行日】2004年5月15日
【出版社等】発行:中経出版
【学んだ所】
「存在と時間」ハイデガー
・「わたしたちは本当に存在しているといえるのか、存在の意味とは何か」というもっとも根源的な問いに真正面からぶつかっていた哲学者がハイデガーである。彼は「存在の探求者」といわれ、現代人の存在の危うさを鋭く追究する。
・(概要)わたしたちの存在=現存在は、問うことのできる存在である。また、他の世界・内・存在とともに生きている世界・内・存在である。その実存の意味を真正面に据えて、ギリシャ以来の哲学と現象学をふまえて、この存在の問題を探究する。
・存在のしかたと了解
- 我々は世界・内・存在として、この世界に存在している。⇒そして他の世界・内・存在への配慮、見まわし、顧慮といった関係をとりながら存在している。⇒このとき、我々には「気分」という現象がうまれる。⇒不快さ・不満・不機嫌という気分は、存在の重荷となる。我々はこのとき、その気分のなかに投げ込まれているのである。
- 我々がそこに見いだす自分とは、このような「気分づけられた自分」を見いだしている。⇒そのときの自分の見いだし方は、避けたい、逃げ出したいという仕方で自分を見いだしている。
- 我々が恐れというとき、三つの視点がある。①何に対して恐れているのか、②恐れとは、③何のために恐れるのか、である。
- 何かの理由で恐れることは他人に関係する。⇒他人のために恐れ、気をつかう。⇒脅かすものはどの瞬間であれ、配慮している世界・内・存在のなかに殴り込んでくる。⇒それは驚愕(おどろき)、戦慄(おののき)、仰天(ぶったまげ)となる。⇒また、これらは臆病、内気、心配などへと変容する。
- 我々現存在の本質は情態性をもつ実存的存在としてある。⇒この情態性と並んで、「了解」という働きがある。
- 現存在は実存しながら、その現である。
- 了解の働きは、現存在(我々)の独自な存在可能としての存在を開示している。⇒この了解の働きは、つねにさまざまな可能性を我々(現存在)を開示している。=今、ここに在る我々を了解し、我々の可能性を見いだすことができる。⇒それだからこそ、目の前の未来を選択し、そこに投企することができる。⇒現存在があるかぎり、我々は未来へと投企しながら存在することができる。⇒可能性のなかへ投企した自分自身を了解することが、実存の第一歩である。
- 自己欺瞞は見通しのわるさ、自己中心的な見方あるいは無知に根差している。
- 自己存在は配慮や了解に基づいて投企することによって、つまり、自分を新たな世界に投げ入れることによって了解される。
- 存在の意味とは、あらかじめもち、あらかじめ視て、あらかじめ掴むことによって「決意された自己投企」を根拠として、新たに生まれた自分を了解するところにある。⇒この「意味」は「実存」とともに了解されている。⇒つまり、自分がこうありたい、と決意し、それを達成すると自分を「了解」し、自分の存在の意味を納得する。このことが存在の意味であり、「実存」である。
- 到達された「意味」は、「陳述」することが必要だ。⇒陳述とは、三つの意義がある。①提示、②限定、③伝達ということが不可欠である。
- 提示とは、取り出してみせること。意味を取り出してみせるだけである。感想などはいらない。
- 限定とは、「ハンマーが重い」というときの述語である「重い」である。主語のハンマーは、①提示にあたる。⇒しかし、述語である「重い、重すぎる」をはっきりと表に出すことが限定となり、陳述となる。
- また、陳述は伝達である。⇒普遍妥当性を目差す。他人へともに見せることである。⇒陳述は伝達によって他人に語り継がれ、妥当することによって拡大される。⇒聞き伝えによって成長する。成長することによって、世界・内・存在として存在してゆく。このようにして、意味をもってくる。⇒こうして、陳述は世界・内・存在への「通路」としての性格をもつ。
- 語りが外に向かって発言されたとき、「ことば」となる。⇒このとき、「語り」は共同存在として属しているところの世界・内・存在の物分かりを「意義をあたえながら」分かつことである。⇒聴く人は承諾したり、拒絶したり、勧告したり、警告したりしながら、ことばを受け取り、話し合う。⇒こうして語りは世界・内・存在の開示性を世界・内・存在とともに構成してゆく。伝達は共同存在としての了解力を「分かつこと」となる。
- 語ることと聞くことは、了解にとっては一つのセットである。⇒また、そのなかには「黙ること」も、同じ意味をもっている。⇒逆に、長々としゃべることは了解の保証にはならない。⇒語るしろ、沈黙するにしろ、古代ギリシャ人が「人間はことばをもつ動物」といったことは、「人間は語るところの存在者」ということである。
- 語りは単なる「おしゃべり」とはちがう。⇒おしゃべりは「根無し草」という性格をもっている。⇒おしゃべりは相手が開示したことを了解することとは限らない。あるときはそれを覆ってしまう。⇒受け売り、吹きまくりといったおしゃべりは、根無し草の方へ間断なく流れてゆく。このような不気味さを、おしゃべりは曇りガラスで覆っている。
- 我々は本質的に世界・内・存在との距離をなくそうとする存在である。⇒遠くの、見知らぬものとの距離をなくそうと、見まわす。そこに「好奇心」が生まれてくる。⇒好奇心とは、新しいものから、新たにまた新しいものへと飛び移るためにだけ、新しいものを追求すること。
- 「あいまいさ」とは真意が了解され、把握されているようにみえていて、じつはそうではないことである。⇒「あいまいさ」は、他人の語りの「跡をつけている」だけのことである。⇒すべてが起こりながら、じつは何事も起こってはいない。
- おしゃべりのひとが、よくものごとを理解しているとはかぎらない。
- おしゃべり・好奇心・あいまいさという三つの性格は、その人の日常の現存在の性格を示している。⇒このとき、その人は、世界へ「転落」している。⇒その人は非本来的な生き方をしている。⇒自分自身でない現存在は、このように公共性のなかに転落している。
- 根無し草に転落してしまった現存在は、また自分自身への絶え間ない誘惑者となる。⇒このおしゃべり・好奇心・あいまいさは現存在にとって、すべての門戸が開かれているような自己を欺瞞する慰めとなる。こうして、この三つの性格は転落を深めてゆく。⇒こうしてまた、もっとも自己的な存在においてでしか自由にはなれないという実存的な自由な生き方から離れてゆく。⇒転落が深まれば深まるほど、自己疎外的な生き方になる。
- 自分自身に対する誘惑、慰め、自己疎外はまさしく転落の特徴である。⇒この揺れ動きをハイデガーは「墜落」と名づける。=日常生活の根無し草、むなしさのなかへと突っ込み、落下することである。⇒このときに現存在のなかに不安がうまれる。