【書名】一冊で哲学の名著を読む
【著者】荒木清
【発行日】2004年5月15日
【出版社等】発行:中経出版
【学んだ所】
「存在と時間」ハイデガー
・「わたしたちは本当に存在しているといえるのか、存在の意味とは何か」というもっとも根源的な問いに真正面からぶつかっていた哲学者がハイデガーである。彼は「存在の探求者」といわれ、現代人の存在の危うさを鋭く追究する。
・(概要)わたしたちの存在=現存在は、問うことのできる存在である。また、他の世界・内・存在とともに生きている世界・内・存在である。その実存の意味を真正面に据えて、ギリシャ以来の哲学と現象学をふまえて、この存在の問題を探究する。
・存在の意味への問い
- ハイデガーはまず、わたしたちはこの世界内で生きている存在だ、という。⇒このわたしたちのことを「世界・内・存在」であると規定する。⇒また、この世界には机やパソコン、着るもの、履くものも存在する。これらも「世界・内・存在」である。
- ハンマーは釘を打とうとするとき、そのためにはもっとも便利なものというハンマーへの「配慮」がある。⇒釘を打とうとしたとき、我々はハンマーと「出会って」いる。⇒また、ハンマーを我々が必要とするときは釘を打つとき。このとき、ハンマーは釘を打つときに便利だという独自の性格をもっている。=これはハンマーの存在する意味である。⇒このとき、ハンマーや釘や何かを打つものという「指示」をあたえている。また、ハンマーはそのような「記号」である。
- ウィンカー(=自動車の方向指示器)はまさしく自動車のゆく方向を指示する。⇒ウィンカーはこの意味で方向を「表示」するためにある。⇒この「表示」するウィンカーの性格は、ウィンカーを規定するもの。
- ハンマーもウィンカーもひとと同じように世界・内・存在でありながら、道具として、方向を示すものとして、優れた用途をもっている。⇒このような道具というさまざまな世界・内・存在に取り囲まれながら、我々は世界内に存在している。⇒世界のなかに在る、あるものと関係したり、作ったり、用いたり、失ったり、計画したり、観察したりするような仕方で、世界のなかに在るのである。⇒このように我々は、道具という存在の「指示」を「了解」し、道具という存在に親しみ、依存して、世界・内・存在として生きている。
- 我々は道具との関係をもって生存している。⇒ウィンカーが右を指した「ために」歩き出すとか、ハンマーを「もって」釘を打つとかする。⇒このように「ために」「もって」というように、さまざまな道具と関わり合いになりながら、生存している。
- このように我々は、さまざまな世界・内・存在によって取り囲まれている。あるいはそれらに「没入」している。⇒このときに、わたしという世界・内・存在は、「だれか」という問いに答えなければならない。⇒「わたしはだれか」と問うとき、我々は「主体」となり、「自己」となる。⇒もはや主体として「了解」し、「自己」という性格をもっている。⇒さらに目を廻らせてみると、我々は、自我をもった他人に取り囲まれている。⇒他人なしの孤立したわたくし=自我は考えられない。
- 机やパソコン、自我をもった他人に取り囲まれ、それを「通路」として、それらを「共同現存在」として存在している。⇒この共同現存在の中で、「わたしはだれか」と問うときに我々の「実存」がある。=「わたしはだれか」と根源的な問いをもって、まわりを「配慮」し「見まわす」とき、わたしという現存在は実存している。⇒わたしの実存は他人が出現する共同現存在によってだけなのである。
- 我々は他人に対して関心をもち、さまざまな配慮をしている。⇒そのなかでも他人を気遣い、世話をするという「顧慮」するとき、もっとも実存している。⇒他人への無関心、互いに知らないふりをすること、互いにゆきずりであることなどは、この「顧慮」の欠如である。
- 顧慮する=面倒見ること。⇒他人の心配を取り除いてやり、尽力してやること。⇒また、他人の可能性において「飛んでみせる」(=模範を示す、率先垂範する)こともできる。⇒このことは、他人の心配事を自分を例にして見通させ、心配事から「自由」になるようにさせること。⇒共同存在として、本質的には他人のために「存在する」という。このときに実存している。
- 他人への無関心、「かえり見ないこと」=無遠慮・無頓着は実存に反することとして否定する。
- 差異のあるところには「支配」が存在する。⇒文学や美術を例にすると、ある批評家が絶賛した作品は、我々はすばらしいと思って鑑賞しがちである。ベストセラーの本が集中して売れてゆくのと同じ、また、エキサイティングな音楽の批評があると、ついそのように聴いてしまう。⇒このことは絶賛・評価差異から生じる「支配」である。⇒支配のなかで、我々は平均化、平坦化される。⇒このような差異性、平均性、平坦化は我々の在り方としての「公共性」をうみだす。
- この曇りガラスのようにどんよりした「公共性」に、我々は流されてしまいがち。⇒流されつつ没入してゆく。⇒このとき我々は世界・内・存在の現存在ではあっても、実存していない。⇒このように日常性は多くのことに誤たれ、支配という曇りガラスに覆われている。⇒そこには本来の自己という「自己同一性」はない。=日常はこのような自分を見失うという崖っぷちに立たされている。