【書名】一冊で哲学の名著を読む
【著者】荒木清
【発行日】2004年5月15日
【出版社等】発行:中経出版
【学んだ所】
「笑い」ベルクソン
・哲学はそれまでよく喜劇のからかいの対象であった。一方、哲学の方から喜劇に対して反撃することはほとんどなかったが、19世紀末、ベルクソンは本格的に「笑い」を研究することによって反撃を開始した。
・(概要)「笑い」について、本格的に考察した分析的哲学書。「形のおかしみ」「運動のおかしみ」「おかしみの膨張力」から「状況のおかしみ」「言葉のおかしみ」「性格のおかしみ」について、精神分析的にふれる「笑い」には、現代の「笑い」についても大いに示唆的である。
・人間的であることとおかしさ
- 人間的であるということを抜きにしては、おかしみのあるものはない。⇒(帽子の例にあげると)我々が帽子を見て笑うとき、帽子自体を笑うことはない。猿が、まるでハンフリーボガードのように被って、煙草をくわえて舞台に登場すれば、大笑いになる。=人々は帽子を笑っているのではなく、人間の真似をしている猿の姿や動作を笑っている。帽子が人間を被っているように被られていることを笑っているのである。⇒人間とはこのように、笑うことを心得ている動物であると、アリストテレスはいう。
- 滑稽は、極めて平静な、極めて取り乱さない精神の表面に落ちてくる。
- 笑いはつねに集団の笑い。=仲間でなかったら笑わない。⇒同じような感じ方の人がいて、笑いが生まれる。⇒笑いにも年代その他の共通点がなければ笑えない。⇒笑いは笑い手たちとの合意。あるいは、ほとんど共犯。
- おかしみとは、グループの人々が、感性を沈黙させ、ただ理知のみを働かせて、ひとり(ひとつ)のことに注意を向けるときに生まれる。
- この場合の理知とは、変化の中の不本意なもの、不器用なものを見つけた(理知によって)とき笑うという意味。⇒状況の変化を見てとるのが理知。
- 現実の生活や社会から切り離され、その中で、弾力性のなさを理性で見てとって笑う。⇒悲惨な境遇の源泉を見てとって、笑う=笑いは懲罰である。
- 笑いは、「全体的完成をめざしている」=集団的に、しかも社会における実用を目差している。⇒それも無意識的に、しかも背徳であったとしても。
- まともな顔の人が不格好な顔をした場合、すべて滑稽になる。
- 漫画とは目につかない運動をとらえ、それを拡大してだれの目にもみえるようにすること。
- 人間のからだの態度、身振り、運動は、単なる機械を思わせる程度に正比例して笑いを誘う。⇒生きるものの上に貼りつけられた機械的なものが笑いの対象になる。
- 人が物の印象を我々にあたえるときには、笑いを催す。
・状況のおかしみとことばのおかしみ
- 生の錯覚と機械的な仕組みがかみ合ってわたしたちにあたえる事件の配列は、すべて滑稽である。⇒ことばの滑稽な繰り返しの中に、バネのように弛緩と圧搾が繰り返されると滑稽に通じる。
- 二つの独立しているストーリーが、ある共通点をもっており、そのところが交叉して、まったく異なった方向に展開するとき、滑稽が生まれる。
- ことばがいいあらわすおかしみは習俗、文学、観念を意味し、翻訳はなんとかできる部分。
- ことばが創造するおかしみは、一つの国語から他の国語には翻訳しがたいものである。⇒なぜなら、そこには人間なり、事件なりの特殊な放心があるから。
- 不条理な観念をよく熟した成句の型の中に挿入すれば、滑稽なことばが得られる。
- 精神的なものが問題となっているのに、肉体的な方向へ注意をそらす場合に笑いを催す。
・性格のおかしみ
- 滑稽は社会に対するある不適応を表示するもの=人間を措いては滑稽なものはない。⇒それは社会生活に対するこわばりである。
- 芸術は個性的なものを目差す。また、個性的でなければ一流でないし、芸術とはいえない。⇒模倣はどんなに優れていても二流である。⇒しかし、笑いは個性よりも普遍性を目差す。=普遍性とはみんな知っているもの、すでに見たもの、これからみるもの。
- 虚栄心や張り合う性格は笑いの対象になる。
・笑いの効用
- 笑いは矯正手段である。=笑いの対象となった人の不作法に、笑いをもってやり返す行為である。⇒笑いの的なる行為、姿、ことばの欠点を矯正しようとする意志である。⇒社会に対して振る舞った自由行動に復讐する。そこには矯正の意向がある。