体育大学の教育課程を卒業したので、一応わたし、中・高校の保健体育の教員免許(教員受験資格)持ってます。
その後、リハビリテーションの世界に入って、リハビリテーションが教育に置き換えられて表現されていることに、いつも注目してしまいます。
(そのことを認知しているセラピストも少ない事実があるのは悲しいけど)
教師は固まった教育法を引っ提げて教壇に立つのではなく、白紙の教育法で教壇に立たないといけない。
面と向かった生徒に対して、生徒の表現や間合い、いわゆる学力や性格に合わせて教育を展開していかないといけない。
これは、臨床現場での患者さんの運動や認知面の表現に合わせて、教師となる療法士が随時治療展開を発案・提供し、その反応を受理して更なる展開を再考察していき、その中で、患者さんとの空間を共有していかないといけないことに類似しています。
そして共有することが、機能改善に結びつかないといけない。
「教育とは感動させること」、と簡潔に表現出来ます。
頭ごなしに自分の知識や方法論を植え付けようとするのは良い指導とは思いませんし、受け手側の成長を阻害する恐れもあると思います。例え経験豊富な指導者が語る経験論であっても。
(ひねくれ者の私は、いつもそんな経験論で指導された時は、もちろんイイナと思うものは頂戴しながら、反面、「あくまでもあなたの経験でしょ」と感じていました。)
要するに指導側に大切なことは、相手を知ることでしょうね。
実習に来る学生を指導する時にも良く思います。
後輩指導に当たる時にも感じます。
相手は、なぜ今の立場を選んでその場所に居て、この瞬間自分の話を聞いてるのか、その話から何を掴もうとしているのか。
そういった相手のことを教える側が知らなければ、相手の求める答えに沿った提示は出来ず、的外れな指導となってしまいかねない。
そのことを理解していない指導者に良くある残念なことは、自らの指導力を見つめなおすことを棚に上げて「あの生徒は覚えが悪い」○○が不足している」「何を教えてもやる気がない」と、決めつけてしまう。
一流選手が一流コーチとは限らないといった名台詞(?)は、こういった要素の配慮が絡んでいるのではないでしょうかね!
リハビリテーションにおいては…、
患者さんを少しでも知ること。
知ろうとすること。知ろうとし続けること。
人である以上、合う合わないといった感情はあるでしょうけど、
すべてはその人の機能改善のために、プロフェッショナルとして、知ろうとする意識を持つことは最低ラインだと思っています。
がんばります。
Masa