「東京大学」に関する諸問題 | 線路の外の風景

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様々な仕事を経験した管理人が、日々思っていることなどを書き綴ります。基本的に,真面目な内容のブログです。

 最近体調不良が続き、ブログの更新がしばらく滞ってしまいましたが、今日は久しぶりに新しい記事を書こうと思います。

 ただし、今回の記事はいつもの医事法や経営理論に関するものではなく、「東京大学」に関するものです。

 管理人の出身大学でもある東京大学は、日本ではトップクラスの大学として知られている一方、その実態について詳しく理解している人は少なく、「東大卒は何でも出来る超人ばかりが集まっている人」などと思われていたり、逆に「東大卒は試験勉強が出来るだけで、他のことは何も出来ない人」などとけなされたり、単なる憶測や偏見で語られることも多く、かなり多くの誤解が生じている大学でもあります。

 最近、私以外で東大卒の人が書いた本を何冊か読む機会があり、今回はそれらの内容も踏まえて、東京大学に関する諸問題について、管理人なりの考察をまとめることにします。

 

1 東大生の分類

 一口に「東大生」と言っても、その中には色々な人がおり、「東大生だから○○」という論理は、一様には成り立ちません。東大生の分類は様々な人が試みていますが、ここでは東大卒ライターの池田渓さん(筆名)の提唱した分類に、管理人の視点から若干修正を加えた分類方法と、分類別の主な傾向について述べることにします。

 

(1)天才型

 天才型とは、東大生の中でもずば抜けた才能を発揮し、東大生という集団の中でも「天才」「バケモノ」などと評価されるようなタイプの人を指します。天才型の東大生は、生まれついての才能も極めて高い上に、名門私立校などの恵まれた教育環境で、幼い頃から英才教育を受けて育っているので、東大生の中でもいわば才能と環境の双方に恵まれたサラブレッドです。

 東京大学の中でも理科Ⅲ類・医学部医学科は、他の科類より入学難易度が高いため天才型の割合が多いと言われていますが、それ以外の科類・学部にも天才と呼ばれる人は時々います。それでも、東大生全体の中では、天才型はおそらく全体の1割にも満たないくらいだろうと思います。

 天才型と言っても、あらゆる行動について常人を超えた能力を発揮出来るという人は殆どおらず、むしろ特定の分野に関し脳の発達が著しく偏っていて、そうした脳の発達具合が大学における高度な学習に適しているという場合が殆どです。そのため、勉強はもの凄く得意でも手先がかなり不器用だったり、知力は高くても常識的な道徳感覚に欠けるサイコパスみたいな人も珍しく無いのですが、天才型は生まれついての才能だけでなく育った環境も良いので、多くの場合自分の恵まれた才能を活かし欠点を隠す術を心得ており、大きな問題を抱えることなく社会で活躍していきます。

 東京大学や東大生の華やかなイメージは、こうしたごく一部の「天才型」によって形成されている面があります。

 

(2)秀才型

 秀才型とは、天才型には及ばないものの、通常人よりは相当程度地頭が良く、東大生を多く輩出している名門高校などで教育を受け、それなりのレベルで東京大学に入学してきたタイプの人を指します。池田氏の見立てでは、東大生の半分くらいはこのタイプに属するとされており、管理人も概ねこれと同意見です。

 秀才型の東大生は、生まれついての才能というよりは、それなりに高い学習意欲と勤勉さ、そして恵まれた学習環境のおかげで東大合格を果たした人たちであり、多くの場合本人もその旨を自覚しています。大学の勉強も真面目に行って無難に卒業して行き、社会に出てからも天才型には及びませんが、その能力を発揮出来る職場・職種に配置されれば、その高い学習意欲と真面目さ、勤勉さを発揮して、それなりの活躍をすることが出来ます。

 ただし、既に敷かれたレールの上を走って行くことで成功を収めた人たちなので、社会に出てからも既に敷かれたレールの上を走ることを好み、先駆者のいない新たな分野を開拓することには消極的な人が多いとも言われています。「東大卒の人間が前例踏襲主義で日本をダメにした」などと叩かれる原因を作っているのは、主に「秀才型」の人たちであろうと推測されます。

 

(3)要領型

 要領型とは、東京大学に合格するために必要最低限の勉強だけを行い、最短距離で東大合格を果たす受験テクニックを身に付けて、東京大学に入学してきたタイプの人を指します。池田氏は自分がこのタイプだと自認されており、また東大生の3割程度はこのタイプだろうと述べられています。

 東京大学の入試では、受験生の本質的な理解力を問う問題が多く出題される一方、高校教育の範囲を逸脱した、重箱の隅を突くような知識を問う問題が出題されることはまずありません。そして、東大生を多く輩出している名門私立中学・高校や名門の予備校などでは、東大入試対策に特化した受験テクニックや教育技術が発達しており、そうしたところでは、東京大学に効率よく合格するにはこのような勉強をすれば良い、この部分は試験に出やすいから覚えるように、この部分は東大入試ではまず出ないから覚える必要は無い、などという教育がなされているようです。

 東京大学の入試においては、全国共通の試験として行われる共通テスト(旧センター試験)ではそれなりに高い点数が必要とされますが、総合の合否判定において共通テストの得点が占める比重は低く、主に二次試験の成績で合否が分かれるわけですが、東京大学入試の合格最低点は、理科Ⅲ類を除けば例年6割前後であり、要領型の東大生は、「東大入試で6割の成績を取る」ためだけの勉強に、高校生活の大半を費やすことになります。

 管理人も聞いたことがありますが、要領型の東大生がよく口にする言葉に「ゼロ完」というものがあります。東大入試の数学では、4つの問題が出題されますが、最後まで完答出来なくても、途中までの計算式が正しいものであれば部分点がもらえます。数学の配点はむしろ部分点の配点が大きいため、4つの問題すべてについて完答出来なかった受験生でも合格することはよくあります。「ゼロ完」とは、4つの問題のうち完答出来たものはゼロだったけど、それでも東京大学に合格してしまったことを意味する俗語です。全体で概ね6割以上得点出来れば合格なので、受験テクニックが通用しない捻った問題が出題された場合には、そのような問題は「捨て問」にして構わないなどとも教えられているようです。

 要領型の東大生は、地頭の良さはせいぜい平均レベルに過ぎないものの、そうした名門校や予備校でテクニックを教わり、最小限の労力で東大合格を目指すことに特化した勉強をし、それ以外のものは捨てるというやり方で東大合格を果たした人たちであり、あまりにも東大受験に特化した勉強をしていたため、滑り止めのつもりで受けた早稲田や慶應などには落ちることも多いそうです。

 昔は、すなわち管理人が東大合格を果たした1990年代くらいの頃は、いくら凄腕の家庭教師などを付けても、地頭も良くないし学習意欲も高くない子供を東京大学に合格させるのはさすがに不可能と考えられていたのですが、最近では指導技術の発達により必ずしも不可能ではなくなったらしく、要領型でも地頭の良さ、学習意欲ともにイマイチとされる受験生が、東京大学に合格してしまう例もあるようです。

 もっとも、こうした要領型の東大生は、東京大学に入学してからの学習は手厚いサポートを受けられなくなり、また天才型はもちろん、秀才型と比べても地頭が良くないので、東大での勉強はどんなに頑張っても苦戦してしまうことが多く、授業に付いていけず落ちこぼれになってしまうケースも少なくありません。

 また、何とか東大を卒業した要領型の学生が社会に出ても、他大学出身の学生より地頭が特に良いというわけでも無いので、学力との親和性が高いデスクワークなどでも、大した才能を発揮することは出来ません。その結果、「東大卒のくせにこんなことも出来ないのか」などと周囲から虐められ、就職先の企業からも役立たずと認定されたり、就職自体に失敗して社会の落ちこぼれになってしまうケースも少なくありません。

 企業などに就職してからもあまり戦力にならないとされ、「東大生は受験勉強が上手いだけだ」などという悪評の原因を作っているのは、おそらく「要領型」の学生や卒業生たちでしょう。また、こうしたタイプの東大生は、周囲と比較しても秀でたものが無いので自身喪失や現実逃避に陥りがちとなり、出身大学は「一応、東大です」などと卑屈になったり、「東大なんか行かなきゃ良かった」などと愚痴をこぼしたりします。

 なお、池田氏自身は、東京大学の農学部を卒業し大学院の博士課程まで進んだものの、博士課程でドロップアウトしてしまいフリーライターになったという経歴の持ち主ですが、東京大学において農学部は不人気学部の一つで、学内では教養学部前期課程の成績があまり良くなかった落ちこぼれの集まりとみなされており、農学部出身者の就職実績も良いとは言えません。

 

(4)雑草型

 雑草型とは、池田氏ではなく管理人が自ら名付けた名称であり、上記(1)から(3)のいずれにも該当しないタイプを指します。東京大学に入学する人の大半は、東大合格者を数多く輩出している名門校の出身であり、東京大学合格を念頭に置いた効率的な受験指導を受けて東大合格を果たしているわけですが、東京大学の門戸はそのような名門校出身者だけに開かれているわけではないため、あまり東大合格者が多いとは言えない、地方の公立進学校などから東京大学に進学してくる学生も一定数います。

 管理人自身はこのタイプで、出身高校は東大合格者が例年10人前後しかいない地元の公立高校であり、高校卒業後、東大合格実績があまり高いとは言えない地元の予備校で1年間の浪人生活を送り、要領型の学生たちが言うような受験テクニックなど全く知らず、必死に勉強して東京大学合格を果たしました。

 両親も決して高学歴とは言えない人だったので、高学歴者の子弟が多い東大生の中ではまさしく「雑草」のような存在だったわけですが、雑草型の中にも色々な人がおり、中には地方の進学校とすら言えない高校から、予備校にも通わないで書籍などをヒントに独自の勉強方法を確立し、東大合格を果たしたという強者もいます。

 こうした「雑草型」の東大生は、あまり東大受験に適しているとは言えない環境の中で合格を果たしたことから、地頭はそれなり以上に良く、また根性もありますが、才能と環境の双方に恵まれた天才型にはとても敵いません。また、東京大学の中ではマイノリティーの存在であり、極めて恵まれた環境の中で東大合格を果たした秀才型や要領型の学生たちを、若干冷ややかな目で見る傾向にあります。

 「雑草型」と思われる東大生の中には、東大入試を課金ゲームに例えた人もいます。パソコンやスマホなどで遊べるオンラインゲームの多くは基本無料ですが、一部のサービスは有料となっており、課金して有料サービスを利用すると、ゲームを有利に進められる仕組みになっています。あまりお金の無い人は、有料サービスを全く利用しない「無課金」か、子供のお小遣い程度の金額で済む安い有料サービスだけを利用する「微課金」でチマチマとゲームを楽しむわけですが、お金に不自由していない人や、ゲームにハマり過ぎて金銭感覚の狂ってしまった人は、一般人の常識では到底考えられない高額の課金を平然と行い、ゲーム内で無課金や微課金のライトユーザーよりはるかに有利な立場を獲得し優越感に浸るわけですが、そのような高額課金をするヘビーユーザーのことを「廃課金」「廃様」などと呼び、基本無料オンラインゲームの運営は、主にそうしたヘビーユーザーの出費によって支えられているのが実態です。

 その東大生いわく、要するに東大入試もこうした基本無料型オンラインゲームと同じようなものであり、東大生を多く輩出している名門校の出身者でなく、また予備校通いなどに多くのお金を費やすことも出来ない、無課金または微課金で勝負せざるを得ない人は、大変な努力をしてようやく東大合格を勝ち取っているのに、名門校の出身者で必要とあれば予備校にも通い、時には凄腕の家庭教師も付けてもらえる受験生たちは、オンラインゲームの廃課金組くらい恵まれた環境で東大合格を果たしている、しかも当人たちの多くはそれを自覚していない、というわけです。

 東京大学における全体的な傾向として、上位層(ここでいう天才型)の質は昔からあまり変わっていないが、中位層や下位層の質は確実に下がってきており、近年は日本語の文章読解力に問題のあるような東大生すら珍しく無い、との感想をこぼす東大教員もいます。おそらくは名門校などによる指導技術の発達が行き過ぎて、長期的には従来より「雑草型」の東大生が大きく減り、その代わりに「要領型」の東大生が大きく増えてしまっているのだろうと考えられます。

 管理人の出身高校も、管理人が卒業した頃は毎年10人前後の東大生を輩出していましたが、近年では東大合格者をほとんど出さなくなってしまい、人気も低迷しているようです。このような運命を辿った地方の公立高校は、他にも少なからず存在していることでしょう。

 

 もちろん、年間3000人近くもの人が入学してくる東京大学の学生には様々な人がおり、例えば天才型と秀才型の中間あたりとか、秀才型と要領型の中間あたりとか、このような類型に上手く当てはまらない人がいる可能性もありますが、以上のような分類は、現役東大生や東大卒の人にとって自分がどのような立ち位置にあるか、また周囲に東大卒の人がいる場合、その人が東大の中でどのような立ち位置にあった人かを理解する上で、ある程度有益な物差しとなり得るだろうと思われます。

 

2 東京大学の「文系学部」は不要か?

 最近、ホリエモンこと堀江貴文氏が、東京大学の文系学部は不要だと発言したことで物議を醸していますが、こうした議論は特に目新しいものではなく、日本の大学における文系教育は以前から、かなり大きな問題を抱えています。

 戦後の日本では大学の数が急激に増え、また大学進学を目指す若者も以前より大幅に増えたこともあって、特に大学の文系学部は粗製乱造化が目立つようになりました。理系の学部では、学生数を増やすには各種の実験器具なども揃える必要があり、定員を増やすことは容易ではありませんが、文系の学部では、要するに大規模な教室を作り、多数の学生が使える机と椅子さえ用意すれば容易に入学定員を増やすことが出来るため、大学経営上の要請もあって各大学の文系学部は安易な定員の拡大が行われ、数百人もの学生を収容できる大教室でのマスプロ授業が当たり前のような存在になってしまいました。

 そのような授業では、1人の教員が数百名もの学生に対し個別に面倒を見るなどほとんど不可能であり、また大学教授は高校までの教員と違い、研究の専門家ではあっても教育の専門家ではなく、その旨を公言するような大学教授もいます。一旦大学教授になってしまえば、余程の不祥事でも起こさない限りクビになる心配はなく、学生への教育実績が教授としての評価に影響する仕組みにもなっていないので、学生への授業にあまり関心を示さない教授も多く、あまり役にも立たないことを延々と喋るだけで授業を終わらせてしまう教授、自分で執筆した教科書を棒読みするだけで授業を終わらせてしまう教授なども珍しくありません。

 そのような教授の授業を受けて、文系学問の知識が身に付くかどうかは学ぶ者次第であり、当然ながら全くと言って良い程何も身に付かない学生も多いわけですが、期末試験を実施して十分な成績を取れていない学生を全員不合格にしてしまえば当然各方面から文句が出るので、成績評価も必然的に緩くなって行き、結果として法律学の知識が全くと言って良いほど身に付いていない学士(法学)様、経済学の知識が全くと言って良いほど身に付いていない学士(経済学)様などを、大量に輩出することになってしまいました。

 こうした傾向は、残念ながら東京大学すらも例外ではなく、東京大学法学部の卒業生でもまともに法律学を理解出来ているのは、司法試験や国家公務員試験に挑戦している人たちくらいであり、ただの法学部卒は相殺(そうさい)を「そうさつ」と読んでしまうことさえあると言っていた教授や、東大法学部生のうち上位3分の1は文句なく法曹に向いている、次の3分の1は鍛え上げれば法曹になれるが、残りの3分の1は法曹に向いていないなどと、公の場で発言した教授もいるほどでした。

 そして、東京大学法学部は伝統的に官尊民卑の風潮が強く、法学部生のうち成績優秀層は法曹になるか国家公務員のキャリア組になるのが常であり、法学部卒で民間企業に就職するのは成績中位層以下の人ばかりだったので、民間企業からは東大法学部卒でもまともに法律を理解していない人が多い、一体東大法学部というところは何をやっているんだ、と言われかねない土壌が以前からありました。

 大学教育の改革について話し合われた文部科学省のある審議会では、企業出身の委員がこうした文系学部の惨状をやり玉に挙げ、東京大学でさえも例外では無い、法学部では役にも立たない憲法理論などを教えるのでは無く、せめて実社会で役に立つ道路交通法の知識でも教えろ、経済学部では役にも立たないミクロ経済学やマクロ経済学などを教えるのでは無く、せめて実社会で役に立つ弥生会計の使い方でも教えろ、などと発言して物議を醸したこともあります。

 日本企業への「文系就職」のあり方も、こうした文系学部の劣化に対応したものになり、法学部・経済学部・経営学部などの文系学部出身者は、どうせ大学における専攻分野の専門性など身に付けていないのでどの学部卒を採用しても同じことだと割り切られ、採用の基準は大学教育で学ぶ専門知識などの有無では無く、SPIといった知能検査や面接、ディスカッション等による人物調査が主なものとなり、日本の大学における文系教育で企業側にその内容が評価されるのは英語などの語学力だけ、というのが常識になってしまいました。

 このような、日本における大学文系学部の凋落は、文系学部を持っている全ての大学に当てはまる問題であり、何も東京大学に限った話では無いのですが、東京大学独自の問題もあります。もともと、日本における大学の学部教育は、最初の2年間が自分の専攻分野にとらわれず、幅広い分野から関心のある学問を学ぶ一般教養教育の期間とされ、後半の2年間が専門教育の期間とされていたのですが、やがて教育効果の不透明な一般教養教育は時間の無駄とされ、ほとんどの大学では一般教養課程が廃止され、最初の2年間は専門以外の共通科目を受講することも出来るという形態に変わってしまったのですが、リベラル・アーツ教育を重視している東京大学では、現在でも最初の2年間は学生全員が教養学部前期課程に所属し、一般教養を学ぶという教育体制が維持されています。そして、後期課程に進学する学部等は、大学出願時や入学時では無く、大学2年生の春学期中に行う進路選択(進振り)で各学生が決定し、自分の専攻したい分野について大学入学後に気が変わった場合でも、ある程度融通の利く仕組みになっています。

 現在では東京大学独自の制度と言われるようになってしまったこの仕組みの影響で、東京大学の学生は他大学と異なり、3年次や4年次に受講しなければならない科目も結構多く、また成績評価も厳しいので、しっかり勉強しなければ単位を落としてしまうこともあります。ところが、企業側は学生が3年生頃から暇になることを前提に、3年生あたりからの学生を対象とした採用活動を行うのが一般的になり、就職活動を行う学生は3年生あたりから、学業より就職活動に忙しい日々を送ることになるわけですが、東京大学の学生は学業と就職活動を両立させることにかなりの困難を抱えることになり、また東京大学は就活に向けた指導などもほとんどやってくれない大学なので、就職活動に失敗する学生も相当数出してしまっています。

 なお、東京大学以外の大学法学部では、成績優秀者については3年で大学を卒業し法科大学院の既修者コースに進学出来る早期卒業制度を設けているところもありますが、東京大学は3年次から法学部へ進学する仕組みになっているため、東京大学法学部では早期卒業制度は設けられていません(もっとも、大学在学中に予備試験合格を果たす人も多いので、仮に制度を設けても利用する人は少ないでしょうが)。

 

 このように、東京大学を含む日本の各大学では、文系学部のあり方についてかなり多くの問題を抱えていることは事実ですが、単純に文系学部自体を廃止すれば事が済むという話でもありません。東京大学の入試に合格しただけの人を企業で鍛えると言っても、前述した要領型のように、東大対策に特化した勉強をしてきただけで大して地頭の良くない人もいますし、大学入試の成績と卒業時の成績に相関性が見られないことは東大の当局も認めています。

 大学としては入試の成績だけで学生を評価するのでは無く、少なくとも他大学よりはかなり厳しい成績評価を行い、一応にせよ4年間の学部課程を終えた者に限って「学士」のお墨付きを与えているわけで、東京大学で文系学部の教育課程を廃止しても、単純に質が落ちるだけです。

 

3 東大生と発達障害

 先に述べたとおり、東大生・東大卒の人間であっても、すべての分野において常人より優れた才能を発揮出来る者など実際にはおらず、東京大学で優秀な頭脳を持っていると評価される人のほとんどは、脳の発達が学業方面に偏っており、そのような脳の特性が、大学の学問に適しているという人であり、「東大アスペ」という言葉があるほど、東大生と発達障害は身近な存在です。

 発達障害は、それ自体が病気というわけではないので、自分が発達障害であると気付かないまま日常生活を送っている人も少なく無いのですが、特に発達障害のうち自閉症スペクトラム(ASD)は、東京大学に行くような人であれば大体当てはまるだろうと言われています。

 自閉症スペクトラムは、従来「アスペルガー症候群」「特定不能の広汎性発達障害」などに分けられていた障害を、自閉症の特徴を持つ障害として統合した概念なのですが、対人関係の困難さやこだわりの強さなどに共通性が見られるとされています。管理人自身もASDと診断されていますが、管理人の場合は脳の考えることに口の動きが追いつかず、幼少の頃から吃音症があり、対人関係に問題を抱えていじめに遭うことも多く、ストレスを溜め込んでうつ病になりやすい性質があるのですが、程度の差こそあれ似たような障害を持つ東大生は多く、総じて東大生はかなり繊細な生き物です。

 一方で、世間では東大生・東大卒というだけで、様々な偏見の目で見られることも多く、東大をライバル視している早稲田や慶應の出身者からいじめに遭う東大卒も珍しく無いのですが、東京大学へ入学すると高度な学びの機会を得て、高い社会的ステータスを得られる可能性がある反面、こうした生きづらさの問題を抱えることになり、「東大なんか行かなきゃ良かった」という悩みを抱える人も少なくありません(管理人自身は、東京大学に行ったこと自体は後悔していませんが)。

 アメリカ合衆国では、ASDの特性を持つ人は「ギフテッド」と呼ばれ、その特性を活かした教育を受けさせて、様々な社会に貢献してもらう仕組みがかなり発達しているのですが、日本における「ギフテッド」の研究はまだ開発途上であり、ASDの特性を持つ人の多くは、その才能を発揮する機会を与えられず、生きづらさに苦しむだけになっているのが実情です。

 しかも発達障害の特性には色々なものがあり、かなり特殊過ぎてどのように社会で活用出来るか判断が難しいタイプの人もいます。東京大学に入学しその勉強に付いていけるだけの学力があれば、ほとんどの人は学力を必要とするデスクワークの仕事は得意なのですが、中には試験対策が異常なまでに得意で、東大法学部在学中に司法試験と国歌公務員総合職試験に合格し、法学部を主席で卒業したという人が、国家公務員になり答えの無い問題に取り組むようになるとまるで仕事が出来ず、職を転々とした後結局大学教授の職に落ち着いたという例もあるようです。

 東京大学というところは良くも悪くも、様々な特性を持った人たちが日本全国から集まってくる大学であり、その多様な才能をどうやって社会で発揮してもらうかは、本来なら日本社会全体で考えるべき問題なのです。

 

4 東大教育の課題

 以上に述べたとおり、東京大学は極めて多くの課題を抱えており、管理人もその多くについては問題点の指摘に留めざるを得ないのですが、東京大学における教育内容のあり方については、この場で述べておきたい注文があります。それを一言で表現すれば、大学入学者への導入教育・入門教育が極めて杜撰だということです。

 高校までの教育と異なり、大学で行われる教育に学習指導要領のようなものは無く、卒業後の国家試験を念頭にカリキュラムの内容がある程度統一されている一部の学部を除き、大学における教育内容は、同じ科目名であっても大学ごと、教授ごとにバラバラという状態です。そして東京大学の教授たちは、学生たちに分かりやすい講義をするよりも、さすが東大教授と言われるような格調高い講義を行うべきだと考えてしまう風潮があるらしく、そのため東京大学法学部の授業は、それと並行して予備校で司法試験や予備試験対策の勉強をしている人などでないと理解に苦しむほど難解なものが多く、しかも大学1年生の段階で行われる導入教育の内容は担当教員によってバラバラで理解の役に立たず、多くの学生を落ちこぼれに追い込む原因となっています。

 管理人自身、約2年間の勉強で旧司法試験に合格出来たので、東大生の中でもそれほど頭が悪い方では無かったと思うのですが、1年生の頃に受けた法学Ⅰの授業は、最高裁の判決文を読ませてその内容に関する問答を行うという、おそらくは法科大学院で一時導入されたケース・メソッドを意識した内容のものだったのですが、期末試験ではそうした授業の内容と全く無関係な法学の基礎概念に関する問題が出題され、「授業でこんな話あったっけ?」という状態になってしまった管理人はまともな解答が出来ずその単位を落としてしまいました。

 その後、3年生になって旧司法試験対策の勉強をするようになり、東大法学部の授業は予備校教育を散々に批判しておきながら、実は予備校の基礎講座などで基本的な知識が身に付いていないと対応できない内容のものだったことに気付くことになりました。予備校での勉強が進むにつれ、大学法学部の授業も次第によく理解出来るようになり、成績も徐々に向上していったのですが、そうした大学教授たちの主導で法科大学院を作るということが決まったとき、管理人は「これは絶対上手く行かない」と確信し、事実そのとおりになりました。

 大学教授のほとんどは、学生への教育に対しほとんど無関心で、法学の分野でも法科大学院が出来た影響で、法律学の教え方に関する研究がようやく行われるようになったという状態らしいのですが、このような大学教授に学生初学者向けの分かりやすい入門講義を行うことは無理です。

 東京大学法学部は、急激な人気低下に伴い学部生の定員を削減したほか、学部生の学力を底上げするため民法のゼミを必須科目とし、一部の授業を英語で行うものとする改革を行ったようですが、真に必要な改革はそこでは無く、まずは初学者向けの入門講義を予備校の講師などに委託し、法学を学ぶために必要な基礎を確実に身に付けさせることではないかと思います。

 法学だけでなく、経済学や経営学についても、資格試験予備校には入門教育のノウハウがありますし、必ずしも地頭が良いわけではない要領型の学生でも、予備校講師の講義であればほとんどの人が理解出来ると思いますので、そうした予備校の知見を借りて入門教育を充実させれば、少なくとも授業に付いていけず落ちこぼれる学生は相当程度減らせるでしょう。

 

 一方で、地頭もさほど良くなく、学習意欲も低い子供に対し、凄腕の家庭教師を付けるなどべらぼうな課金をして無理矢理東大に行かせるのは、子供を自滅に追い込むだけなので絶対に辞めた方が良いです。出来の悪い子供にお金を掛けて何とか名門大学に行かせたいという需要があるのは分かりますが、行かせるならせめて、早稲田か慶應くらいにしておいた方が良いです。

 既に述べたとおり、あまり地頭の良くない人が、受験テクニックだけで東大に合格してしまうと、合格した後で地獄を見ることになります。