経営理論の考察(8) ダイナミック・ケイパビリティ | 線路の外の風景

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様々な仕事を経験した管理人が、日々思っていることなどを書き綴ります。基本的に,真面目な内容のブログです。

 今回の記事で取り上げるのは、『世界標準の経営理論』第17章で紹介されている、ダイナミック・ケイパビリティ理論です。

 記事を書くにあたって、医事法の『人生会議』に関する記事を先に書くか、それともダイナミック・ケイパビリティを先に書くかで随分迷いました。どちらも最先端のトピックスで書きにくいというのがその主な理由ですが、何とか分かりやすく書けるよう努力しますので、興味のある方は頑張って付いてきてください。

 

1 ダイナミック・ケイパビリティとは

 ダイナミック・ケイパビリティは、現代の経営学で盛んに議論されている視点なのですが、実はその定義自体が論者によってまちまちであり、「ダイナミック・ケイパビリティは未だ理論とは言えない」とする経営学者も少なくありません。ただし、総じて言えば、ダイナミック・ケイパビリティは「企業の変化」を説明しようとする理論であり、近年はこうした分野への関心が非常に高まっています。

 なぜ、未だ理論としては未完成な「企業の変化」を説明する理論に関心が高まっているかというと、現代社会においては、事業環境の変化するスピードが非常に高まっており、企業も短期間で変化を続けなければ生き残れない時代になっているという事情があります。アメリカのコンサルティング企業「イノサイト」の調査によれば、1935年にS&P500の株価指数に組み入れられていた企業の平均余命は、その時点から90年程度あると見込まれていましたが、2005年にS&P500の株価指数に組み入れられていた企業の平均余命は、15年程度にまで縮まっています。

 S&P500は、株式市場に詳しい人なら説明しなくても分かると思いますが、アメリカ合衆国の全体的な市場動向を把握するために使用されている株価指数であり、S&P500の対象銘柄に含まれるということは、アメリカを代表する株式会社500社の中に入っていることを意味します。そのような企業でさえも平均で15年程度しか存続できず、しかも調査から十数年が経った現在では、この余命は更に短くなっていると考えられています。

 このブログでは、心理学由来の経営理論を先に取り上げ、経営学の理論としては歴史的伝統のある経済学由来の経営理論を後回しにするというイレギュラーな構成を採用してしまったため、経済学由来のSCP理論やRBV理論といった競争戦略の理論をまだ取り上げていませんが、これらの経営理論は持続的な競争優位を確立するための理論であり、事業環境がこれほどまでに速く変化することは想定されていませんでした。

 現代の社会では、経済のグローバル化やIT技術の発展などにより世界レベルで競争が激化しており、こうした環境のことを経営学の用語で「ハイパーコンペティション」と呼びます。SCP理論やRBV理論といった、20世紀に成立した経済学由来の経営理論は、語弊があるのを承知の上で感覚的に表現すれば、一度ビジネスモデルの確立に成功し競争優位を確立すれば、大体5年か10年くらいはそのやり方で利益を上げられるだろう、その先業界がどうなるかについてもある程度は予測が付く、といった事業環境を想定した理論だったのですが、近年の成長産業(特にIT関連)における事業環境はそのような生易しいものではなく、一旦ビジネスモデルの構築に成功し競争優位を確立したと思っても、下手をすれば1年か2年くらいで新しいライバルが登場し従来の競争優位は失われる、しかも事業環境が将来どのように変化するか事前に予測するのも困難であり、このような事業環境では、従来のSCP理論やRBV理論はほとんど役に立たないわけです。

 もっとも、このような事業環境の変化を拱手傍観しているだけでは、経営学自体が「役に立たない学問」というレッテルを貼られることになりかねないため、世界の経営学者たちはこのような「ハイパーコンペティション」に対応できる経営理論の構築に躍起となっており、そのために提唱されているのが企業の「変化する力」を説明するための理論、すなわちダイナミック・ケイパビリティなのです。

 

2 ダイナミック・ケイパビリティの理論基盤

 ダイナミック・ケイパビリティは、主に2つの理論基盤から成り立っています。

 理論基盤の1つ目がRBVであり、このブログではRBVについてまだ本格的に取り上げていませんが、ごく簡単に説明すると、企業の競争優位はその持っているリソース(人材・技術・ブランドなどの経営資源)の組み合わせによって成り立っており、競争優位をもたらすリソースの組み合わせについて、企業が時間をかけて蓄積し、その因果関係が複雑かつ曖昧であり、複雑な人間関係・社会的環境に依拠しているほど、他社による模倣が困難となるため、持続的な競争優位をもたらしやすいと考える理論です。

 もっとも、「ハイパーコンペティション」と呼ばれる事業環境の下では、持続的な競争優位を確立することは不可能であるため、企業が生き残るためには、持っているリソースを絶えず組み合わせ直す力が求められます。そこで、リソースを組み合わせ直し続ける力を「ダイナミック・ケイパビリティ」と定義し、リソースの上位概念に位置づけようとの試みがなされています。

 理論基盤の2つ目は、先の記事で紹介した進化理論の「ルーティン」であり、進化理論ではダイナミック・ケイパビリティをルーティンの発展型として捉えており、現場レベルで漸進的な変化をもたらすものを「オペレーション・ルーティン」、そうした現場レベルのルーティンを変化させて組み合わせ直し続ける高次のルーティンを、ダイナミック・ケイパビリティと位置づけています。

 これらをまとめると、経営学上のダイナミック・ケイパビリティとは、急速に変化するビジネス環境の中で、変化に対応するために内外のリソースを組み合わせ続ける、企業固有の能力・ルーティンの総称ということになります。もっとも、管理人を含め経営学に関心を持つ人としては、ダイナミック・ケイパビリティの定義そのものよりも、「企業はどうすればダイナミック・ケイパビリティを高められるのか」を聞きたいわけですが、この問いに対する経営学者のコンセンサスはまだ得られていません。

 もっとも、これだけでは理論としてあまりにも役に立たないので、入山氏は個人の見解として、ダイナミック・ケイパビリティを高めるために有効と考えられる2つの視点を提示しています。

 

3 センシングとサイジング

 カリフォルニア大学バークレー校のデイビッド・ティース氏は、1997年の論文でダイナミック・ケイパビリティを初めて明示的に定義し、同理論の成立過程を語る上で欠かせない経営学者の一人となっていますが、ティースが2007年に投稿した論文では、その基礎付けとして「センシング」と「サイジング」を提示しています。

 センシング(sensing)とは、事業機会や脅威を感知する力のことです。業界構造がそれほど変わらない事業環境の下では、事業機会や脅威について、経営コンサルタントなどの力を借りて冷静に経営分析を行うことも可能ですが、業界構造自体が激しく変化するハイパーコンペティションの中では、現在における事業機会や脅威が何であるか敏感に察知して行かなければ企業が生き残ることは出来ず、こうした感知する力自体が重要となるわけです。

 ティースが提唱する「センシング」の概念は、カーネギー学派の唱える「サーチ」とほぼ同義であり、組織としての認知能力には限界があるため、自分の周囲だけを探索する「ローカル・サーチ」だけで満足してしまいがちですが、ダイナミック・ケイパビリティを高めるには、なるべく遠くの事業機会や脅威に対しても、センシング(サーチ)を行う必要があるとされています。

 そして、センシングにより察知した事業機会を実際に捉えることをサイジング(seizing)と言い、より遠くの事業機会に投資することがこれにあたります。サイジングは、カーネギー学派の唱える「知の探索型」の投資とほぼ同義ですが、こうした投資は不確実性が高く、失敗に終わるリスクも高いため、企業はこうした投資を敬遠しがちになります。これに加えてティースは、企業はサイシングを行うにあたり、投資した新規事業が既存事業の顧客を奪ってしまうこと、すなわち「共食い」が発生してしまうことを恐れる傾向にあると指摘しています。

 結果として、企業はサイジング(知の探索型の投資)を怠りがちになり、コンピテンシー・トラップの状態に陥ってしまうので、「知の探索・知の深化」理論のところで紹介したような各種の施策を講じることにより知の探索を促すことが、ダイナミック・ケイパビリティの形成に繋がる、というわけです。

 ティースの理論は、カーネギー学派の理論にRBVやルーティンの視点も取り込んだ、心理学系経営理論の「統合知」とも言える理論なのですが、この内容をブログ記事でも紹介できる範囲にまで要約してしまうと、要するにカーネギー学派がこれまで言ってきたことと殆ど変わらないという問題があり、独自の「経営理論」として一般的に承認されるには至っていません。

 

4 IBMのダイナミック・ケイパビリティ

 このようなセンシング・サイジングの力を持った企業の代表例として取り上げられるのが、アメリカのIBM社です。

 IBMは、1970年代から80年代にかけては、メインフレーム事業で世界ナンバーワンの地位を占めていましたが、パソコンの普及が始まるとパソコン・サーバー事業を展開し、一方で1990年代以降はその事業を大胆に変革し、ソリューション事業(顧客の抱えている問題を解決するため、それを支援する製品やサービスを提供する事業)にその中心を移すなど、絶えず変化を続けるIT業界の中で、事業を組み替えながら現在でも巧みに生き残り続けています。

 このIBMを対象とした事例研究によれば、こうした事業転換が成功しているのは、IBM中興の祖であるルイス・ガースナーと、彼に続いたサミュエル・パルミサーノが、同社にセンシングとサイジングの仕組みを組み込んでいったことがその背景にあると指摘されています。例えば、1990年代からのIBMでは、次のような施策が組み込まれていたそうです(注:以下に紹介するのは、論文に書かれている1990年代以降のIBMで採用された施策であり、現在のIBMは状況が変わっている可能性があります)。

 

(1)マネージャークラスの戦略立案への取り込み

 ガースナーがCEOに就任する前のIBMでは、戦略部門は戦略計画の専門家がその大半を占めていましたが、こうした専門家たちは、戦略を実践する経験に乏しいという難点がありました。そこでガースナーは、戦略部門を担当する人材の多くを、実践経験の豊富な事業部門のゼネラルマネージャーたちに入れ替え、彼らが戦略部門に1年半から3年半程度の期間で入れ替わりながら参加する仕組みに改めました。

 このような施策を採ることで、事業部における生の情報が戦略部門に直接持ち込まれるようになり、IBMが組織全体として事業機会の関知(センシング)を行う力が高まったわけです。同時期の日本企業において、現場の声が本社の戦略部門に対し全くと言って良い程届かず、次々と没落していったのとは対照的です。

 

(2)ディープ・ダイブ

 ディープ・ダイブとは、事業課題に直面するマネージャーからの要請で形成されたプロセスで、マネージャーと戦略部門の人々が共同で戦略的意思決定をするというものです。このプロセスでは、すべての議論がファクトベースであることが重視され、一度始めたら具体的な問題解決の道筋が明確化されるまで、議論や分析が中止されることはありません。

 

(3)ウィニング・プレイ

 ウィニング・プレイとは、CEOや上級役員に抜擢された約300人の社内リーダー候補たちが、部門横断型の問題解決にあたることです。その解決プロセスではしばしばディープ・ダイブが活用され、その成果は四半期ペースで全社に報告されました。こうしたディープ・ダイブとウィニング・プレイの活用により、各事業部門の前線で得られた事業機会の共有とセンシングが、IBMの全体でなされるようになったわけです。

 

(4)新興の事業機会(EBO)

 EBOは、IBM社における新事業実践のためのプログラム・施策の総称です。新しい事業では、既存のビジネスとは全く異なる取り組みが必要であるという問題意識から、新事業は既存のビジネスとは全く独立した組織で行われ、独立したリーダーシップが取られ、独立した予算編成が取られました。IBMでは1998年から2005年までの約7年間で18のEBOが試みられ、その多くは失敗に終わったものの、ライフサイエンスなど一部の事業では大きな成功を収めました。「知の探索・知の深化」理論で言われているような教訓は、IBMでは既に社内ルールとして埋め込まれているわけです。

 

(5)戦略的リーダーシップフォーラム(SLF)

 SLFは、IBMの社内で3日半の時間を掛けて行われる、リーダー育成のためのワークショップです。SLFでは、例えば上級役員が「EBOをどのように成長させるか」といった課題を提示し、リーダー候補の参加者たちは、課題に対してグループ別で徹底した分析とアクションプランの作成を行います。

 日本の企業でも、オフサイトミーティングという社外の場所で話し合いの場が設けられることはありますが、SLFはオフサイトミーティングとは異なり、IBMにおける実際の事業課題への落とし込みを前提とした真剣な議論が行われ、時には喧嘩混じりの議論になることも珍しくありません。こうしたワークショップを通じて、リーダー候補生はIBMの共通言語や考え方を体得していくことになります。

 

(6)コーポレート・インベストメント・ファンド

 EBOなどの新規事業に振り分けられる約5億ドルのファンドです。ガースナーは、新規事業には常に失敗がつきものであり、年次の予算サイクルから乖離させるべきとの考えを持っていたことから、このファンドにおける資金は、IBMの年次予算には組み込まれない事業に振り分けられるものとされていました。

 いわば、「知の探索」型の投資に毎年一定の予算を確保する仕組みであり、これによってIBMはソフトウェア部門のサービス向けアーキテクチャの開発や、中国・インドなど新興市場の人材開発など、通常予算の枠外で新しい事業に投資するための資金が確保され、コンピテンシー・トラップに陥る事態を回避できたわけです。

 

5 「共食い」を推奨するアマゾンの戦略

 今や、EC(電子商取引)の分野で世界的大企業に成長したアマゾンですが、1993年に創業してからしばらくは赤字経営が続いており、2001年にアマゾンが黒字転換したのは、AWS事業(クラウドコンピューティングサービス事業)が軌道に乗ってからのことであり、今やアマゾンの主な収益源は、AWS事業に移っています。

 入山氏がそんなアマゾン社を取材したところ、アマゾンではカニバリゼーション(共食い)を恐れるどころか、むしろ推奨する文化があるそうです。アマゾン社が提供しているAWSビジネスには小規模な組織が大量に作られ、中には他の組織と被っているところも少なく無いのですが、そのようなカニバリぜーションは社内では全く問題にされず、むしろ創業者CEOのジェフ・ベゾスからは「もっとカニバリゼーションを起こせ! アマゾンの既存事業を潰せ」といった趣旨のメールが届くそうです。

 アマゾンほどではありませんが、日本の全日本空輸もカニバリゼーションを恐れなかった企業の一つでした。全日空のような既存の大手航空会社が、LCCと呼ばれる格安航空事業に参入することは、必然的に既存の事業と共食いを発生させることになり危険な賭けでしたが、当時の山元峯生社長は「どうせこれからはLCCが増えるのだから、他社にやられる前に自分たちでLCCを始めよう」という発想から、社内の猛反発を押し切って2011年にピーチの事業を始め、ピーチは国内最大規模のLCCに成長しています。

 こうした戦略をどのように理論化するかは大きな課題ですが、大企業がダイナミック・ケイパビリティを高めるには、むしろ社内での共食い(カニバリゼーション)を促進し、内部競争させるのも一つの方法だ、などと唱えられるようになるのかも知れません。

 

6 シンプル・ルール戦略

 これまで紹介してきたのは、ティース理論とこれに関係する企業の事例研究ですが、ティースとやや異なる側面からダイナミック・ケイパビリティの理論を展開しているのが、スタンフォード大学のキャスリーン・アイゼンハートです。彼女は、2000年にダイナミック・ケイパビリティに関する論文を公表して以来、企業のルーティンに重点を置いた理論を展開しており、「シンプル・ルール」の重要性を主張しています。

 アイゼンハートの提唱する「シンプル・ルール」論の骨子は、変化が激しい環境下で企業がダイナミック・ケイパビリティを発揮するには、数を絞ったシンプルなルールだけを組織にルーティンとして徹底させ、それ以外は状況に合わせて柔軟に意思決定すべきというものです。

 組織に埋め込まれたルーティンは、蓄積されるほど細かいものになりがちであり、そうした細かいルーティンはそれなりに安定した事業環境の下で漸進的に成長するには向いていますが、事業環境の変化が極端に激しいときには、細かいルーティンは組織の硬直化に繋がるおそれもあります。アイゼンハートは、急激に変化する状況下では、企業が意思決定のルールを敢えてシンプルなものにして、行動規範や優先順位などの限られた大枠だけを定めてそれをルーティン化しておけば、企業の意思決定者・マネージャーは大きな環境変化のもとでも、本質的な部分については足並みを揃えつつ、他の様々な予想外の出来事に対し、各自柔軟に対応することができ、ダイナミック・ケイパビリティを高めることができると主張しています。

 アイゼンハートは、このような理論を唱えるだけで無く、豊富な事例分析やコンピュータシミュレーションなどを通じてシンプル・ルールの重要性を実証しており、2001年に投稿された論文では、アメリカのインテル社が取り上げられています。1980年代に日本の半導体メーカーが世界を席巻し始めた頃、インテルは「メモリーの粗利率が下がってマイクロプロセッサーの粗利率が上昇するなら、マイクロプロセッサーを増産する」という極めてシンプルなルールだけを組織に徹底させることで、効率的な至言配分を行うことに成功し、現在でもCPUや半導体素子のメーカーとして高い存在感を発揮しています。

 アメリカのシスコシステムズ(略称シスコ)は、1990年代に多くの関連企業を買収し、インターネット化の波に乗って急成長し、コンピュータネットワーク機器の開発会社として高い存在感を示している企業ですが、同社が初めてM&A路線に踏み切ったときには、「買収先企業の従業員は多くても75人まで、うち75%はエンジニアでなければならない」というシンプルなルールを買収先の選定基準として徹底していました。このルールに則り、シスコはM&Aで優秀なエンジニアを自社へ抱え込み、時には独占が問題になるほど高いシェアを獲得し成長してきたわけです。

 日本でも「レゴブロック」でお馴染みの、デンマークの玩具企業レゴにもシンプル・ルールがあり、同社には「子供が本当にその製品を使って、楽しみながら学べるか」「親が認めてくれるか」「子供の創造性を刺激するものか」といった事業選定のルールがあります。変化の激しいこれからの世界で企業が生き残るには、こうした「シンプル・ルール」がより重要になるのかも知れません。

 

7 変化する力を育てるのは個人か、組織か

 ダイナミック・ケイパビリティに関する理論は、以上に説明したティース型とアイゼンハート型に大きく分かれています。両者の理論は、細かいところでは多くの違いがあるのですが、入山氏によると両者の最大の違いは、アイゼンハート型がシンプル・ルールなどを組織にルーティンとして埋め込むことを強調するのに対し、ティース型はルーティン化にそれほど重きを置かず、ダイナミック・ケイパビリティは時に少数の個人(経営者)に宿ると考える傾向にある、ということです。

 実際、ティース氏も2012年に発表した論考の中で、「ダイナミック・ケイパビリティのいくつかの要素は組織に埋め込まれるかも知れないが、リソースの組み合わせに対する変化の評価や処方は、経営陣の肩にかかっている。専門的なサービスの市場において、ターンアラウンド(日本語では「事業再生」や「経営改革」と訳される)に長けたCEOや専門家がいるのは、決して偶然では無い」という趣旨のことを述べています。

 この問題に対する解答を出すのは、決して簡単なことではありません。例えば、前述したIBM中興の祖であるガーズナー氏は、アメリカン・エキスプレスやRJRナビスコのCEOを歴任した実力者であり、彼自身がセンシングやサイジングの才能に長けていたことは疑う余地がないものの、ガーズナーがIBMに遺した大きな功績の一つは、前述のような施策により、彼の持つセンシングやサイジングの力を、「仕組み」としてIBMという組織に埋め込んだことでもあるからです。

 ダイナミック・ケイパビリティの理論は、経営学でも最先端の分野であるため、どちらの型が正しいかについて簡単に結論を出すことは出来ませんが、おそらくはどちらも正しいのでしょう。凄まじい勢いで変化を続ける事業環境に対応するには、優れたセンシングやサイジングの力を持った経営陣の存在は必要不可欠ですが、そうした経営陣も一人で仕事をするわけではなく、分業は不可欠です。

 そうした経営陣の分業を行う際、組織の中に細かいルーティンが埋め込まれていてはかえって変化への障害になるので、本質的な最低限の重要事項だけを「シンプル・ルール」として共有し、企業の方向性について最低限の意思統一を図りつつ、それ以外の事項に関しては各経営陣が自らの才能を発揮して柔軟に対応するというのが、企業組織の主流になっていくのかも知れません。

 もっとも、そうした組織を成り立たせて行くには、これまで紹介してきたマクロ視点の経営理論だけでは足りず、次回以降の記事で紹介する予定となっているミクロ視点の経営理論、すなわちリーダーシップやモチベーション、意思決定などに関する理論の知見も不可欠であり、さらには経済学や社会学をベースにした経営理論からも得られるところはあるでしょう。

 

 今年に入り、経済産業省の後援を得て三菱重工業などが開発を進めていた小型旅客機MRJ(2019年から三菱スペースジェットに改称)が、多額の事業費をつぎ込んだ挙げ句納期延期が6度にのぼり、もはや採算の取れる見込みが無いため開発中止に追い込まれるという残念な事件がありました。MRJ失敗の原因については様々な記事で議論されていますが、その中でも異口同音に言われているのは、現場の事情を全く知らない御用学者や官僚たちが足を引っ張って現場を混乱させたということであり、技術面よりむしろ経営組織の在り方が世界標準から大きく遅れを取っていたということです。センシングの才能が全く無い経営陣などに率いられていれば、どんな新規事業も上手く行くはずがありません。

 ただし、国の後押しがあったMRJがどうしようもない失敗に終わった一方、本田技研工業系列の航空事業会社が製作しているホンダジェットは、その開発にあたり国の後押しがあったわけでも無いのに、今では小型ジェット機の分野で世界一の出荷数を達成していますので、決して日本人に航空機を作る能力が無いわけではありません。日本人の技術力を活かせる能力の高い経営者が圧倒的に不足しており、企業の後押しをしようとする政治家や官僚にもろくな人材がおらず、実際には後押しをするどころか、むしろ後ろから足を引っ張っているのが実情だからです。企業経営には専門的な知識と才能が必要であるということを、日本人の多くが理解出来るようになるのは、一体いつのことになるでしょうか。