経営理論の考察(5) 知の探索・知の深化(後編) | 線路の外の風景

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 前回の記事で取り上げた、「知の探索」「知の深化」に関する理論の続きです。

 簡単におさらいすると、「知の探索」は認知の範囲を広げて新しい知を得ること、「知の深化」は得られた知を深掘りすることであり、ビジネスの分野では「知の探索」がビジネスチャンスの発見、「知の深化」がビジネスチャンスの実用化、収益化に至る過程であること、学問の分野では「知の探索」が基礎研究、「知の深化」が応用研究に該当すると考えられます。

 そして、「知の探索」と「知の深化」は車の両輪のようなものであり、本来は両者を高いレベルでバランス良く行う必要があるのですが、「知の探索」はコストや負担が多く、しかも不確実性が高いため、組織はどうしても「知の深化」に偏りがちであり、そのまま「知の探索」をおざなりにすると、やがてイノベーションが枯渇してしまいます。このような現象をコンピテンシー・トラップと呼びますが、日本政府や日本企業の多くはまさにこのコンピテンシー・トラップに陥り、技術競争で世界に大きく遅れを取ってしまっていることは、前回の記事で指摘したとおりです。

 経営学の分野では、このような現象について論じたジェームズ・マーチの論文以降、膨大な量の実証研究が行われ、多くの成果が得られています。『世界標準の経営理論』第13章では、これらの成果はあまりにも多すぎるため、主な研究成果について戦略レベル、組織レベル、個人レベルに分けて解説されているのですが、この記事では管理人の私見も交えて、これらの手法について概説していくつもりです。

 

1 オープン・イノベーション戦略とCVC投資

 「知の深化」に偏りがちな傾向を是正し、「知の探索」と「知の深化」をバランス良く行う両利きの経営へと促す企業戦略として最初に取り上げられているのが、オープン・イノベーション戦略とCVC投資です。

 オープン・イノベーション戦略とは、企業が他社やスタートアップ企業と連携して新たな知を生み出す試みの総称であり、ビジネス用語としては、広く企業間の提携のことを「アライアンス」と呼びます。なお、英語のallianceは、日本語では「同盟」「組合」「連携」などと訳されるのが一般的です。

 異業種とのアライアンスを行えば、それを通じて自社が持っていなかった知を学ぶことができ、「知の探索」に繋がるほか、同業他社とのアライアンスにより、共通のライバル企業が持っている技術と似た技術を共同開発することは「知の深化」に繋がります。

 このような「探索型のアライアンス」と「深化型のアライアンス」が企業の業績にどのような影響を与えるかは、既に多くの研究成果があり、例えば半導体産業のように技術変化が速い業界では「探索型のアライアンス」を行う企業の方が収益率が高く、鉄鋼産業のように技術変化の速度が比較的緩やかな業界では「深化型のアライアンス」を行う企業の方が収益率が高くなる傾向にあると分析されています。

 そして、CVC投資(コーポレート・ベンチャー・キャピタル)はオープン・イノベーションの一形態であり、既存の企業が新興のスタートアップ企業に投資をしながら、時に連携を図るというものです。既存の大企業にとって、スタートアップ企業の持つ技術やビジネスモデルは目新しいものが多く、そのような企業と提携することは「知の探索」に繋がる一方、スタートアップ企業は潜在的可能性のある技術などを持っていても、それを活かすための経営ノウハウや販路、人的ネットワークに不足していることが多く、製造業に関しては実験設備も不足している場合があるため、大企業の力を借りて「知の深化」、すなわち技術やビジネスモデルの実用化、収益化を図っていくことが出来ます。

 オープン・イノベーション戦略やCVC投資への取り組みは、欧米諸国の企業では既に広く普及しており、近年は日本の企業にもそうした取り組みが見られます。

 

2 日本型「知の探索」への取り組み

 上記のような企業戦略自体は、世界的にはもはや目新しいものでは無いのですが、日本ではこれに関する独自の動きとして、WiLというベンチャーキャピタル企業の活動が挙げられます。この企業は、2013年にシリコンバレーのベンチャーキャピタルDCMでパートナーを務めていた伊佐山元氏が立ち上げたもので、現在では国内最大級のベンチャーキャピタルに成長しています。

 

 

 WiLの取り組みは、そのウェブサイトを読んでも大企業のための「出島」「黒船」戦略などと説明されているだけで、これだけでは何をやっているのか分かりにくいのですが、入山氏によると、WiLの取り組みは従来型のCVC投資を行う企業とは、以下の点において異なるそうです。

 すなわち、欧米諸国でも行われている従来型のベンチャー・キャピタル企業は、大手企業が新たな技術や事業機会を探索するため、企業の外部に新たな知を求める取り組みでしたが、WiLの共同創設者である伊佐山氏の考え方はそうではなく、日本の大企業は内部で活用されずに埋もれている人材から、新たな知を引き出すべきだというのです。

 WiLのやり方は、大企業と合弁会社を作り、大企業の若手エンジニアなどを新会社に移籍させ、彼らにスタートアップ企業のスピード感がある経営ノウハウなどを伝授し、「知の探索」にあたる仕事を行わせるというものです。おそらく、欧米などの先進企業では、優秀な従業員の能力を十分に活用した「知の探索」が行われており、それでも足りない「知の探索」のためにCVC投資などの手法が採られているのでしょうが、日本の大企業は総じて社内の体質が保守的・閉鎖的で、優秀な若手技術者などを採用しても、彼らに十分な「知の探索」を行わせる環境を整えられないので、そうした優秀な若者を一度企業の外へ出し、新しい環境の下で「知の探索」を行わせる手法が有効である、という発想のようです。

 これと似たような動きは他にもあり、原田未来氏が率いるローンディールは、大企業が抱えている若手の優秀な人材を新興ベンチャー企業にレンタル移籍させるシステムを作って注目されているほか、小沼大地氏が率いるNPO法人クロスフィールズは、大企業の若手人材をタイやインドネシアなどの新興市場に送って社会問題を解決させるプログラムを提供しています。

 管理人としては、このような取り組みが流行ること自体、「日本の大企業ってどれだけ体質が古いんだよ」と嘆かざるを得ないのですが、優秀な若手従業員ほど早く辞めていくと噂される日本の大企業に多くを期待するのは無理なので、こうした取り組みを通じて成長した若手人材が、閉塞状態にある日本の将来を少しでも変えてくれることを願うしかありません。

 

3 構造的な「両利き」を目指す組織の在り方

 入山氏は、組織レベルで「知の探索」を促す施策として、組織を知の探索を行う部門と、知の深化を行う部門とに分け、両者の部門では異なるルールを設ける必要性に言及されています。

 アメリカの大手新聞会社であるUSA Todayでは、1990年代から新聞の発行部数が落ち込んできたことから、インターネット上のニュース配信サービスを行うUSA Today.comという部門を立ち上げましたが、当初この新事業は全く上手く行きませんでした。そこで、当時社長であったトム・カーリー氏は、インターネットによるニュース配信事業を既存の新聞事業から完全に切り離し、従業員の評価軸も全く別のものにしたほか、ネット配信事業担当の役員と新聞事業担当の役員との間で頻繁に知見をシェアさせて、情報共有を促しました。その結果、インターネット上のニュース配信事業を単なる新聞事業の延長としか捉えていなかった他の新聞社と異なり、USA Todayはオンラインメディアとしても成功を収め、この成功例は経営学の論文にも取り上げられるようになっています。

 こうした成功例などを踏まえて、ハーバード大学のマイケル・タッシュマンと、スタンフォード大学のチャールズ・オライリーが2004年に公表した論文(ハーバード・ビジネス・レビュー同年12月号に掲載された、日本語では「双面型組織の構築」などと訳される論文)では、企業が構造的な両利きを成功させるには、新しい部署に必要な機能(開発・生産・営業など)を全て持たせて、他の部署からの独立性を保たせる一方、企業のトップレベル(担当役員レベル)においては、新しい部署の担当者が既存の部署から孤立しないように、両者が互いに知見や資源を活用し合えるよう交流を促すことが重要であると主張しています。

 入山氏自身も私見として、既存の日本企業では人材の評価を「その期の成功・失敗」といった短期的視点で行う傾向があり、このような評価軸の下では従業員たちは失敗の多い「知の探索」をやらなくなってしまうため、日本企業でイノベーションを促進するためには、評価制度の見直しが不可欠であると主張しています。

 実際、最近のスタートアップ企業や海外の大手企業では、評価制度を見直す動きが急速に進んでおり、その一つがノーレイティングと呼ばれる人事制度です。従来型の人事評価制度は、四半期(3ヶ月)ごとに従業員の業績をランク付けするといったものが主流でしたが、ノーレイティングはこうした評価制度を廃止し、上司が部下と1対1で頻繁に(概ね月に数回程度)面談を行い、目標の設定やその達成度についてフィードバックを行うというやり方です。

 こうしたノーレイティングは、上司と部下の間に信頼関係が構築され、部下にとっても自分の評価に対する納得感が得られ、仕事へのモチベーション向上にも繋がるといったメリットがありますが、この仕組みでは給料の設定を含め上司に多くの裁量権を与えることになるため、上司に高いマネジメント能力が求められ、能力や倫理観の低い上司では逆効果になってしまうこと、また上司自身が多くの仕事を抱えている場合、全ての従業員と月に数回もの面談を行うことが現実的に困難という問題もあります。

 そのため、日本企業にはノーレイティングの導入をためらうところも少なく無いのですが、既にノーレイティングの導入により成果を出しているグローバル企業もあるため、もはや改革は待ったなしの状況に追い込まれていると言って良いでしょう。

 

4 ダイバーシティが必要とされる真の理由

 「知の探索」という視点から重要になるのは、人材の多様化(ダイバーシティ)です。「知」は人が持っているため、組織内に多様な人がいれば、離れた知と知の組み合わせが組織内で多く起こることになり、新しい知も生まれやすくなります。そのため、イノベーションが枯渇している日本企業ではダイバーシティが重要な課題になっているわけですが、一方で入山氏によれば、日本企業では「なぜダイバーシティが必要か」という根本的な問題についての理解が乏しく、企業経営におけるダイバーシティのメリットとデメリットが正しく認識されていないという問題もあると指摘されています。

 ダイバーシティが「知の探索」において有効とされるのは、組織の中に多様な知を持った人材が混じっていることにより、新たな知を生み出しやすいからであり、この点に関するメリットが大きいのは、同じ組織内において、主に他社や他業種の仕事を経験してきた人材が多くいる場合です。仕事によって得られる知の内容は、仕事の業種や職種によっても、また同業であっても企業によって大きく異なるので、多様な職歴の持ち主が組織内に集まれば、離れた知と知の組み合わせが起きやすくなります。

 これに対し、大学法学部卒の新入社員を、例えば東京大学、京都大学、早稲田大学、慶應義塾大学など多様な大学から集めたとしても、人が学生時代に得られる「知」の内容はたかが知れており、また法学部の学習内容が大学によってさほど大きく異なるというわけでも無いので、新入社員の出身大学について多様化を図ることは、「知の探索」を促進するという観点からは、さほど有効な取り組みとは言えません。

 そして、この問題は「知の探索」の理論からは離れてしまうのですが、ダイバーシティには弊害もあります。『世界標準の経営理論』では、認知バイアス理論に関する問題として第20章で取り上げられているところ、このブログではその一部を先取りして紹介してしまいますが、海外の経営学でもダイバーシティに関する研究は多くなされており、その結果ダイバーシティは「タスク型のダイバーシティ」と、「デモグラフィー型のダイバーシティ」の2種類に分かれるということが判明しています。

 タスク型の人材多様性とは、知見・能力・経験・価値観などが多様であることを指し、デモグラフィー型の人材多様性とは、性別・国籍・年齢などが多様であることを指します。タスク型の人材多様性は外見に現れにくいものであり、デモグラフィー型の人材多様性は目に見えやすいものであるため、日本で「ダイバーシティ」と言えば後者ばかりが注目されがちになるのですが、アメリカで行われた数々の実証研究の結果、タスク型の人材多様性は「知の探索」に繋がるため、組織にプラスの影響を及ぼす一方、デモグラフィー型の多様性が組織にプラスの影響を及ぼすことは無く、場合によってはマイナスの影響を及ぼすこともあるというのです。

 なぜ、デモグラフィー型の多様性が弊害をもたらすかと言うと、人は認知に限界があるため、男女や年齢の違いなど、分かりやすい見た目や属性の違いによる分類が行われがちであり、例えばそれまで日本人の中年男性ばかりだった組織に、何も考えること無く若い女性を複数入れてしまうと、それぞれが「中年男性グループ」対「若い女性グループ」という仲間意識(イングループ・バイアス)を持ってしまい、グループ間の軋轢が生じて交流が滞り、組織全体のパフォーマンスが低下してしまうためであると説明されています。

 出身大学の学歴についても同様の問題があり、様々な大学の出身者を入社させても、社内で「東大閥」「早稲田閥」「慶應閥」などといった具合にグループ分けが行われ、醜い学閥争いが行われるようになれば、知の探索が活発に行われるどころか、むしろ組織内の軋轢を生み、組織を自滅に追い込むことさえあり得るわけです。

 このような問題をどのように解消すべきかは、認知バイアスの理論を取り扱う記事に譲ることにしますが、個人レベルでのダイバーシティとして近年注目されているのは、イントラパーソナル・ダイバーシティという概念です。敢えて日本語に訳すと「個人内多様性」といった意味になりますが、要するに様々な職種経験・人生経験を積んできた人ほど、自分の中で新たな「知の探索」を行うことが出来、高い業績を挙げられる傾向にあるということです。例えば、経営メンバーのプロフィールデータを集め、各メンバーが特定の職能に特化した実務経験のみを積んできた企業に比べると、各メンバーがファイナンス、R&D、営業、マーケティングなど様々な職能を経験している企業の方が、業績が高い傾向にあるといった実証研究の結果が示されています。

 一般論として、人間が畑違いの業務に手を出すのは大変なことであり、法務担当なら一生法務専門、経理担当なら一生経理専門で生きていきたいと考えるのが常だろうと思いますが、「知の探索」を行い高い業績を挙げる人材になるためには、むしろ転職や配置転換などによって様々な業種や職能を経験し、苦労を重ねた方が良いということが経営理論上も実証されているわけです。

 管理人は、別に女性や外国人の登用を否定するわけではありませんが、そうした目に見えやすい属性に注目して多様性を考えるのでは無く、むしろ様々な職歴・経歴の持ち主を登用すること、また自分でも様々な業種・職種を経験することにより、タスク型のダイバーシティを高めることが、幅広い「知の探索」に繋がるということを認識すべきだと言っているだけです。

 

5 どこまで広い「知の探索」が有効か?

 このように書くと、人によっては「知の探索は、どこまで広く行えば良いのか?」という疑問を抱くかも知れません。入山氏も講演で「知の探索」の重要性を説明していると、あまりにも自分の持つ知とかけ離れたところまで探索しても、離れすぎて意味が無いのではないか、といった質問を受けることが多いそうです。こうした疑問に答えるべく入山氏が引用しているのは、トロント大学のサラ・カプランらが2015年に『ストラテジック・マネジメント・ジャーナル』に発表した実証研究です。

 イノベーションには少なくとも2種類の異なる成果があり、1つは極めて技術的な革新的アイデア、もう1つは経済的な価値を生み出すアイデアがあるところ、この実証研究ではナノチューブに使われる分子に関する技術に注目し、この分野に関する特許データを大量に収集して、AIを使った機械学習の中でも「トピックモデリング」と呼ばれるテキスト解析手法を使って特許文書を分析し、その中から「技術革新を生み出した特許」と「経済的価値を生み出した特許」を抽出して統計分析が行われました。

 その結果、前者の特許を生み出したのはやや狭い「知の探索」であり、後者の特許を生み出したのはより広い「知の探索」であると結論づけられています。経営学の研究も近年のものになると、AI技術が当然のように使われていることに感嘆させられてしまいますが、この研究結果がある程度普遍性を有することを前提にするならば、「知の探索」の幅については概ね次のようなことが言えることになります。

 まず、技術開発を担当している技術者が、新たな技術を生み出すことのみを目的としているなら、「知の探索」をそこまで広く行う必要は無いと考えられます。例えば、製薬メーカーの研究者が経済や歴史の勉強をしても、それが斬新な医薬品の開発に結びつく可能性は低く、むしろ同じ薬学でも異なる分野、または薬学の隣接分野にあたる理学などを探索した方が、新たな技術を生み出すには効果的でしょう(ただし、近年は機械工学の分野でも心理学の知見が活用されるなど、従来の常識を超えた学際的な研究の必要性が高まっていることもまた事実であり、技術研究者でも遠い分野における「知の探索」が無益とまでは言えません)。

 一方、高い経済的価値を生み出すアイデアは、研究者に限らず、マーケティングの担当者や経営者が思い付くこともあり得ますが、こうしたアイデアを生み出すための「知の探索」は、どんなに離れていても離れ過ぎているということは無く、むしろ広ければ広いほど良いと言うわけです。

 例えば、ゴーゴーカレーの創業者社長・宮森宏和氏は、ゴーゴーカレーを日本第2位のカレーレストラン・チェーンに成長させただけでなく、レトルトカレーや学校給食の分野にも進出させたカリスマ経営者ですが、宮森氏の座右の銘は「創造性は移動距離に比例する」というもので、文字通り日本中・世界中を飛び回っているそうです。また、前述したWiLの伊佐山氏は、ある社会人学生から変化を起こすにはまず何をすれば良いかという質問を受け、「まずは今日、あなたが帰るときに降りる駅を1つ変えましょう」と答えられたそうです。

 管理人自身も、結果にはほとんど結びつかなかったものの、ある意味ではかなり広い「知の探索」を行っています。管理人の経歴を考えれば、本業は弁護士であったと言えますが、取得資格はかなり多く、ヤマハのエレクトーン5級とか、アロマテラピー検定1級とか、とんでもない分野にまで手を出しています。そして、これらの学びが決して無駄であったということは無く、音楽の著作権問題について考えるには、音楽分野の知見が相当程度役に立ちますし、アロマテラピーの特性を理解していない人の不適切なアドバイスが労働問題を引き起こすこともあります。

 管理人が今やっていることも、医事法は一応法律の一分野なので、そこまで広い「知の探索」ではありませんが、経営学は同じ文系学問でもかなりの畑違いであり、かなり広めの「知の探索」です。読書も重要な「知の探索」ですが、自分の専門分野や得意分野の本ばかり読んでいれば良いというわけでは無く、時には畑違いの本などにも手を出し、「知の探索」を継続していくことが重要です。

 

6 「両利き」に関するその他の研究

 最後に、『世界標準の経営理論』第13章のコラムで紹介されている、「両利き」に関する主な研究の内容を紹介することにします。

(1)組織文化としての「両利き」

 ロンドン・ビジネススクールのジュリアン・バーキンショーらが、2004年に『アカデミー・オブ・マネジメント・ジャーナル』で発表した論文は、以上のような「両利き」をメンバーが自主的に進める組織文化に関するもので、調査手法は世界7カ国の多国籍企業10社の従業員について、計41事業部の4195人から質問票調査の回答を得て、その結果を統計的に分析したものです。

 分析の結果、「知の探索」「知の深化」を高いレベルで両立出来ている企業ほど、事業の業績や顧客満足度、職務満足度が高まるとの結論が得られています。

 

(2)時間軸における「両利き」の変化

 経営学の分野では、企業が時間の経過に伴って、知の探索と知の深化を使い分けている可能性についても研究が行われています。ワシントン大学のジャクソン・ニッカーソンらが2012年に『ストラテジック・マネジメント・ジャーナル』に発表した論文では、「両利き」を長期間持続させることに成功している企業は、vacillationを実現していると指摘しています。

 vacillation(ヴァサレイション)は、まだ日本語として一般的に使用されておらず、辞書では「迷い」「話や行動が決められないこと」などネガティブな意味に和訳されることが多いようですが、経営学用語としてのヴァサレイションとは、頻繁に組織改革などを行って、ある期間は極端に「知の探索」に振れ、またある期間は極端に「知の深化」に振れることで、「知の探索」と「知の深化」を時間軸によって使い分ける企業行動を指します。同論文で取り上げられている、ヒューレット・パッカード社(コンピュータや電子計測機器の製造、販売を営んでいたアメリカの企業で、日本では「HP」の略称で知られていますが、2015年以降はエンドユーザー向けの電子機器を扱うHP.incと、データセンター向けサーバー機器を扱うHPEに分割されています)の30年にわたる組織改革の変遷を取り上げ、同社は1980年代以降6回にわたり、知の探索に繋がる大胆な分権化と、知の深化に繋がる大胆な集権化に、組織構造を振っていることを明らかにしています。

 

(3)両利きの脳

 イタリア・ボッコーニ大学のマウリツィオ・ゾロが、神経科学者らと共に2015年に『ストラテジック・マネジメント・ジャーナル』で発表した論文は、脳神経の側面から両利きを検証したものです。

 この研究では、fMRIという、人や動物の脳活動に関連する血流動態反応を視覚化する技術を使用して、人間が「知の探索」型の意思決定及び「知の深化」型の意思決定をする時に、脳のどの部分が活性化するかを分析し、その結果人が「知の深化」型の意思決定をするときには、報酬に関連する脳の部位(腹側被蓋野、黒質、腹内側前頭前皮質など)が活性化する一方、「知の探索」型の意思決定をするときには、「報酬に関する不確実性」と「関心のコントロール」に関連する脳の部位(前頭極皮質、下頭頂小葉など)が活性化することなどを明らかにしています。

 

 これらの研究が、直ちに企業経営の現場で有用な教訓などをもたらすとは限りませんが、こうした研究が基礎になって、将来「知の探索」と「知の深化」を高いレベルで両立させやすい組織や個人の在り方が、もっと詳しく説かれるようになる可能性はあります。

 日本では、企業のイノベーションが遅れていることが問題視されると、最先端のテクノロジーに対応できる技術者を養成することばかりが重視される傾向にありますが、世界レベルの競争で通用する企業を育てるためには、最新の経営理論などを学習した優秀な経営人材を養成することも必要です。

 諸外国の先進企業で導入されている前述のノーレイティングが多くの日本企業で導入困難とされているのも、日本企業では優秀な経営人材の養成が進んでいないことの裏返しであり、このような状況が放置されれば、日本は世界の先進国からもっと差を付けられてしまうことになりかねないのです。