川に挟まれた街、東京都北区浮間 水害と共存、なごりの土台
よく晴れた暑い日の午後、JR埼京線の北赤羽駅で降りる。東京都北区浮間(うきま)。荒川(現・新河岸川)に突き出た浮島のように見え、「うきしま」から浮間に転じたとの説がある。商店と居酒屋などがひしめく小ぶりな駅前を通り過ぎ、川へと向かう。川沿いに南西へ進むと壁状の堤防が少しずつ高くなり、4~5メートルになると川は見えなくなる。■たびたび氾濫浮間は古来、荒川による水害を受け続けてきた。10分ほどして、「浮間の渡船場(とせんば)跡」にたどり着く。渡船場は対岸の現・板橋区小豆沢(あずさわ)とを行き来するため、江戸後期に設けられた。昭和3年、下流に浮間橋ができ、渡船場は姿を消した。今は説明板が人々にその歴史を伝えている。川の流れる音が聞こえ、遠い昔を思い描いてみる。北区飛鳥山博物館の学芸員、山口隆太郎さん(52)に聞いた。「『徳川実紀』(江戸時代の史書)では、荒川の氾濫がたびたびあったとある。しかし、この地の人々は結びつきも強かったので、度々の水害にも対処してきた。地元の氷川神社では、川で体をみそいで無病息災を祈願する『まんごり』があったばかりで、水難などから身を守ろうという伝統は続いている」そこから北へ。古くからある民家や商店、工場と、新しい高層マンション群が“同居”している街を行く。汗だくになりながら15分ほどで、観音寺にたどり着き、境内でしばし涼をとった。駅で買った500ミリリットル入りペットボトルの水の残りを飲み干した。この寺は元和(げんな)元(1615)年、創建。明治43(1910)年の大水害の際、本堂が床上浸水し、たるを2つ並べてその上に本尊を置き、一晩中守ったという逸話が残っている。■土を盛った家さらに北へ。埼京線の高架下をくぐり進むと、「水塚の蔵のなごり」に着いた。高さ1・5メートルほどの石垣のような土台の上に時代を感じさせる蔵が乗っている。浮間では度重なる洪水への対策として、土を盛り、その上に家などを建てた。その盛り土を「水塚」と呼んでいる。北区観光ボランティアガイドの方に聞くと、訪れた人たちは「昔の人は洪水と共存するために、こうして自分たちを守っていたんだ」と感心するとか。「どの家も土を盛って、ほとんど舟を持っていた。洪水の時、米などの食料も運んだ。浮間の人間は温和で、酒好き。洪水の時も協力してしのいだ」。こう淡々と話すのは、浮間西町会会長の黒田清嗣(きよつぐ)さん(69)。不動産管理の仕事をしている。国の治水対策で、荒川放水路が昭和5年に完成。この一帯も徐々に市街化が進んだ。「私が中学2年の時(同34年)、都営住宅で床上浸水した所もあった」と黒田さん。自然災害から逃れるのは難しいが、名物のサクラソウを保存し、活気ある街づくりを目指しているという。帰路に。北赤羽駅の一つ先の浮間舟渡駅のホームで3本目の水を飲みつつ、人との長く深い関わりを思った。(川村達哉)荒川放水路 現・国土交通省による事業が明治44(1911)年に着手、昭和5年完成。東京都北区志茂の岩淵水門から江東、江戸川両区境の河口までの22キロメートルで、掘削した土砂の総量は東京ドーム18杯分になる。浮間を囲む荒川は、この事業で新河岸川の流路となるなど、各所で河川の改修が行われた。