医者になる人 | ドイツ、悪妻愚母のよもやま話

ドイツ、悪妻愚母のよもやま話

主婦にして家事はおざなり、興味あることだけ、猪突猛進の悪妻愚母のドイツ生活

 日本語の生徒、マリ男くんが授業中にため息をついて言う。

「僕さー、本当に医者になるぐらいしか能がない人間なんだよね」

 他の人が言ったら単なる嫌味にしか聞こえないが、マリ男くんは謙虚な人柄なので、自慢ぽくならないのはさすが。

「だってさ、僕はまず第一に手先が不器用だから、手工業的な仕事にはまったくもって不適格。芸術の才能もないし、ジャーナリストにも向いていないし、エンジニアは問題外。本当になれたのは医者だけなんだよね」

私「あのねぇ~、その医者になれるっていう事がどれほどすごいかわかってないんじゃないのマリ男くん。私なんてあと300年生きても医者になんてなれっこないよ」

「そんなことないよ。そんなに難しくないよ」

 それは頭がいい人だから言えることだってば。

 

「でも、アクサイさん、最近調子良さそうだね。数か月前と比べても明るくなったと思うよ」

「あら、さすがお医者さん、いい勘をしていらっしゃる」

と私がふざけて返すと、マリ男くん、やや真面目な顔になって、

「だってさ、患者のちょっとした変化に敏感にならざるを得ないんだ。些細なサインを見逃して命を絶つ羽目になってほしくないからね」

「えっ、命を絶つってマリ男くん、あなた小児科医でしょ」

「青少年も入っているよ」

 私は小児科というと、小さい子ばかりを扱うのかと思っていた。

「だからさ、僕とても精神科医にはなれないなーと思うんだ。僕はまだ身体を診る方だからいいけど、精神科医だったらいつもいつも心に悩みを抱える人が相手じゃないか。とても出来ないって思うんだ」

 

 マリ男くん自身も病院での激務や家族との関係で、体を壊して心理カウンセリングを受けてきたし、身につまされるものがあるのだろう。

 

 私自身も体は健康だったが、心のバランスをとるのは本当に難しくて、ドイツで何年もいろんな先生やセラピストさんのお世話になってきたから、本当に他人事とは思えない。

 あまり自慢にもならないが、セラピーオタクだったので、ドイツに住む日本人の中では、ドイツにおける精神療法、心理セラピーに精通している方ではないかと思ったりする。

 

 お世話になった先生たちの中には、本当に患者のことを親身になって考えてくれて、勇気をもらった先生もいれば、心が寒くなるような事務的な対応をされた人も少なくなかった。

 

 友達の息子さんは優秀で、今大学で医学を専攻しているのだが、彼は最初から精神科医になるつもりでいる。

 医者になって心の悩みで苦しむ人を救いたいという彼の決意を友達から聞くたびに私は尊敬と感動をおぼえる。

 どの分野でもいいお医者さんに当たることは重要だと思うが、精神医療は特に信頼が大事だと思うので、彼には本当にいいお医者さんになってほしい。

 

 生まれた時はみんな一緒なのに、どこから枝葉が分かれて、心身共に健康で安定した生活を送る人、道を誤って暗闇に迷い込んでしまう人になってしまうんだろうね、と日本語の授業に似つかわしくなく妙に真剣に語り合う私達。

 結論は出ないが、何年も暗い日々を送った身としては、せめて自分の子ども達にはそんな思いを味わってほしくない。

 ずっとは無理だとはわかっていても、こんな春の日のドイツの森のように暖かで穏やかな日々が出来るだけ続いて欲しい。