◎大神神社の鬼門ラインをみつけた
奈良まで来たので、少し観光して帰ることにした。
緒濫人がどうしても行かなければならないのが、大神神社だった。物部の神社である。諏訪大社の近くにある守屋山の山頂に祀られた物部守屋の神社の鬼門ラインは、大神神社の三輪山山頂に至る。
大神神社では、御神体である三輪山頂上から流れる鬼門エネルギーの配置を見つけた。それは別に記そう。

大神神社で驚いたことは、下世話なことだが、駐車場が無料であったことだ。もう一つ、狭井神社に薬水が湧いていて、これも無料で汲んで持ち帰ることができた。観光施設はほぼどこでも有料である。清水寺の入場料が1000円もしたことには「高い」と思った。それでも人、人、人……。駐車料金も、思わずギクリとするほど高かった。人が多すぎる場合に、少しでも制御しようとするために有料化するのは理解できないことではない。彦根城も500円で、駐車場もワンコインだった。大神神社の後に訪れた長谷寺も、ワンコインが必要だったことを考えると、大神神社の無料の駐車場と薬水の寛容性は、稀なことのように思われた。

◎清水寺は北法相宗だった件
夕方になり、16時が近くなっていた。ここからすぐ側に長谷寺がある。拝観は17時までだった。
ところで疑問が湧いた。長谷寺は仏教のどういう宗派なのだろうか?
清水寺の宗旨は北法相宗だとある。「清水寺は開創以来、奈良仏教の法相宗を宗旨とし、中世・近世においては法相宗大本山である興福寺(奈良)の末寺……清水寺が北法相宗の本山として独立したのは1965年」だそうだ。
「北法相宗? なんだその〝北〟は?」
ウィキによると、「法相宗(ほうそうしゅう)とは、インド瑜伽行派(唯識派)の思想を継承する中国の唐時代創始の大乗仏教宗派の一つ。645年、中インドから玄奘三蔵が帰国し唯識説が伝えられることになる。その玄奘の弟子である慈恩大師基(窺基)が開いた宗派である。唯識宗・慈恩宗・中道宗とも呼ばれる。705年に華厳宗が隆盛になるにしたがい、宗派としてはしだいに衰えた。日本仏教における法相宗は、玄奘に師事した道昭が法興寺で広め、南都六宗の一つとして8世紀から9世紀にかけて隆盛を極めた。有名な寺院としては、薬師寺・興福寺などがある」とある。
どうやら清水寺は、南都六宗の一つである法相宗の分派として「北法相宗」として本山となったのだろうが、法相宗との相違はないだろう。
法相宗は「唯識」を標榜する。唯識の考え方は「真我」に通じる。仏教が「我」を否定したという説があるが、緒濫人は否定したとは考えていない。「我」は有るものでも無いものでもないとしたのだ。否定したのは「我」そのものではなく、「我」についてあれこれと考えを巡らせて決めつけようとする精神の姿勢を否定したのだ。「そんなことにこだわるな」と諭したのだ。真実と真理はそんなところにはない。その状態を言葉で表すと「空」という概念になる。そして疑問が出てくる。もしそのわけのわからないものを「空」とするなら、「空」と表現し、そう納得する必要性はどこにあるのだろうか。
そこにはどうしても否定できない意識がある。それを「唯識」という。別の言葉で言うと「我」ではなく「真我」、すなわちアートマンである。
法相宗には、そうした意識的背景がある。そこから、仏教という教説の最高の精華を示したものが法相宗と言えるだろう。
◎長谷寺:十一面観音と蔵王権現
さてところで、長谷寺は、何宗か?
真言宗豊山派の総本山の寺院であり、山号は「豊山(ぶざん)」、院号は「神楽院(かぐらいん)」。本尊は「十一面観音」で、ウィキによると「創建当時の長谷寺は東大寺(華厳宗)の末寺であったが、平安時代中期には興福寺(法相宗)の末寺となり、16世紀以降は覚鑁(興教大師)によって興され、頼瑜僧正により成道した新義真言宗の流れをくむ寺院」となっていた。
創建時から、「十一面観音」を本尊として信仰されてきたところは、清水寺と同じである。なぜか、奈良から平安時代初頭に創建されたと言われる寺院などに、「十一面観音」の信仰がなされているところがとても多いのは、なぜなのだろう?
ウィキにこんな記述がある。
「『十一面神咒心経』によれば、右手は垂下して数珠を持ち、左手には紅蓮を挿した花瓶を持つこととされている。ただし、彫像の場合は右手の数珠が省略ないし亡失したものが多い。一方、真言宗豊山派総本山長谷寺本尊の十一面観音像は、左手には通常通り蓮華を生けた花瓶を持っているが、右手には大錫杖を持ち、岩の上に立っているのが最大の特徴で、豊山派の多くの寺院に安置された十一面観音像はこの像容となっているため、通常の十一面観音像と区別して『長谷寺式十一面観音』と呼ばれる」

長谷寺には、本堂の手前の登廊にある蔵王堂で、蔵王権現の像がギラリと光る目で睨んでいた。
蔵王権現がいらっしゃるということは、山伏信仰と修験者の影響も濃厚にあったのだろう。
17時をまわり、寺には人影が消えた。賑わいが消えた参道を後に、吾野緒濫人のウィッシュは、伊勢湾岸道から新東名、そして首都高をひたすら走り抜け、深夜の翌日に無事帰宅した。たぶん往復で、1100キロほど走っただろうか。平均燃費はリッター15キロ。上々である。






