EIKOの気まぐれ闘病日記 -38ページ目

EIKOの気まぐれ闘病日記

このブログは、日蓮仏法の信心を根本に、双極性気分障害と闘うEIKOのブログです。日々の出来事や家族のこと、創価学会や池田名誉会長のことを書いていきます。
いきなりのアメンバー申請はお断りしています。

「永遠にお元気で」 ②

 昨年の夏、27年の人生を終えた田中桂子も、池田の励ましを胸に青春を力いっぱい駆け抜けた白樺グループの一人である。
 北海道に生まれた田中桂子は、札幌創価幼稚園に通い、母と弟が喘息で苦しむ姿を見て育った。「人のために生きなさい」。母の久美子は口癖のように桂子に言い聞かせ、ナイチンゲールの伝記を贈った。
 看護学校三年の時、桂子は原因不明の高熱に襲われる。大切な看護師国家試験を前に二か月間、休学せざるをえなくなった。
「池田先生から伝言が届いたのは、姉が自暴自棄になりそうだった時でした」(弟の雄也)。
その頃、「聖教新聞」に一枚の写真が載った。写真の中で、創価幼稚園を訪れた池田が園児たちに声をかけている。その新聞を見た池田は、赤のサインペンで写真にマルをつけた。
「この5人はどうしているだろうか」。かつての園児たちの近況を尋ねた。5人のうちの一人、小旗を揚げる池田をじっと見上げている園児が桂子だった。桂子のもとに池田から箴言集『女性に贈ることば365日』(海竜社)が届いた。「姉にとって何よりも励みになりました」(雄也)。

 体調が回復した桂子は、看護師試験に合格して上京。都内の大学病院に勤め、循環器科・神経内科の混合病棟に配属された。毎年、看護師の10人以上が入れ替わるハードな職場だった。
「願って入った職場ではありましたが、生死に直面する毎日は想像以上に厳しく、何度も看護師を辞めようかと考える日々でした」(田中桂子の手記)。
 白樺グループの会合で、先輩の星新子と話す機会があった。「患者さんのために祈ろう」「病院に福運が集まるように祈ろう」と教わり、「目の覚めるような感動」を覚えた。後年、桂子は家族宛てのメールに「今いる職場で頑張っていこう」と決意したのはこの会合だった、と綴っている。
 病棟のカンファレンス(問題を解決するための話し合い)で知恵を絞った。患者への対応、職場の雰囲気がよくなり、上司から「これが本当のチーム医療だね」と評価された。
 医師や看護師、患者が使用する共同トイレには、希望が湧くような言葉や自分で考えた言葉を貼った。
 ───私たち看護師にとっては疲れた夜勤明けでも、患者さんにとっては新しい一日の始まり───「あのトイレに行けば元気になる」と院内で評判になった。
 定期健診で白血球の異常が分かったのは、2012年(平成24年)1月だった。急性骨髄性白血病と診断された。北海道に戻り入院。闘病が始まった。
 抗がん剤を使うと、強い吐き気に襲われる。
「吐き気止めの薬は3時間ほど効きます。その時間を食事や入浴などに使う患者さんが多いのでえすが、姉は友人との対話に使いました」(弟の雄也)。入院後、幼なじみの友人への弘教を果たしている。
 放射線治療、弟の雄也からの骨髄移植を経て、自宅療養の最中には、雄也の住む神奈川を訪れ、学生部のメンバーに自らの体験を語った。池田の第三代会長辞任直後、白樺グループとの懇談がもたれた神奈川文化会館である(本誌一月号に詳述)。
「先生ご自身が最も苦しい時期に大書された『正義』『共戦』の揮毫を、姉はじっと見つめていました」。
 「永遠に お元気で」 ①

 医師の大谷育夫が、創価大学で行われた集いに参加した時のことである。(1981年5月三日)。
「大学構内で、思いがけず池田先生とお会いしました」。池田は大谷を懇談会に誘った。気さくに声をかける池田に、大谷はここ数日、思いつめていたことを話した。
 「悪性リンパ腫を患っていたGさんという40代の女性のことが気になっていました。知り合いの学会員さんで、池田先生を慕い続けている人でした」
 抗がん剤を投与し、一度はがん細胞が消えた。しかし半年後に再発。肺、腹膜、腸に転移していた。「もう、医師が何をやっても効果はないのだろうか」。大谷は「死の淵に立つ彼女に、何と言ってあげればいいのか言葉が見つかりません」と胸の内を告げた。「先生は、じっと聴いてくださいました」。
 池田は、そばにあった写真集『ある日ある時 第二集』を手に取った。完成したばかりのその写真集にペンを走らせ、大谷に託した。
 大谷が地元に戻ったのは夜の9時過ぎだった。「gさん、池田先生があなたに揮毫を書いてくださったよ」。写真集を手渡した。
「Gさんは表紙を開き、しばらく見つめておられました」。本の見返しには、池田の勢いのある筆致でこう綴られていた。

 永遠に お元気で

 Gさんは大谷に言った。「わかりました。もう一度元気になって、池田先生にお礼を申し上げに行きます」「もうすぐ先生が海外歴訪に出発されると聞きました。帰国される時、元気になって成田空港にご挨拶に行きます」。
 大谷は「その時点でGさんは、あと1週間生きていられるかどうかという状態でした」と振り返る。6日後の5月9日、池田は海外歴訪に発った。「Gさんの症状は一進一退を繰り返しました」。春が過ぎ暑い夏が訪れようとしていた。
 「7月8日、Gさんは眠るように逝かれました。亡くなった時間は、ちょうど先生が2か月の海外歴訪を終えて、成田空港に到着された時間でした。Gさんは、たしかに池田先生が帰国されるまで寿命を延ばされ、先生との約束を果たされたのです」92歳の大谷は、頬に伝う涙をぬぐいながら語った。
「声は腕の延長」

 ───人口呼吸器をつけ、すでに意識がないと思われている患者の家族が面会に来た。しかし患者に近づこうとしない。どう接していいのかわからないようだった。
「私が声をかけながらケアしていると『話しかけていいのですか。聞こえるのですか』とご家族から尋ねられました」。
 その白樺メンバーは「眠っているように見えますが、耳は聞こえるんですよ。話しかけてあげてください」と説明した。家族は涙を流し、患者のそばで声をかけるようになった。また、ナースの励ましを聞き、家族の声を聞き、患者が涙を流した───数えきれないほどの「白樺」の友が、このような体験をしている。
 池田は「声が体に届く」という表現は「比喩ではない」と強調する。
「たとえば、子どもが車道に飛び出そうとしたら、思わず『危ない!』と声をかけるだろう。その声は全速力で子どもの背中に届く。子どもを必死で抱き寄せようとする腕の延長になっている」2004年4月11日付「聖教新聞」)。
「病院の屋上から飛び降りようとしたけど、あなたの声を思い出して足がすくんだのよ」。そう言われた白樺メンバーもいた。

 また臨終が迫り、意識を失った患者の枕元で、集まった家族が遺産相続の言い争いなどをすれば、胸のつぶれる思いがすると語るメンバーもいる。
 「経験上、意識がないように見えてとれる患者さんにも『すべて聞こえている』『すべてわかっている』と考えて接することが大切です」
 1年前に退院した女性患者が、意識不明に陥り、再入院してきた。白樺メンバーが声をかけると「はい」と言い、目を開けた。病室に集まっていた親族たちは驚嘆し、患者の娘がその白樺メンバーの名前を確かめた。「ああ、あたただったんですか!母は意識のないなかで、ずっとあなたの名前を呼んでいたんです」。
 彼女らの看護体験は、命の不思議を明かしてくれる。「意識のない患者」の看護は、その最たるものだ。

 ある白樺メンバーは、入院時から意識のない女性患者との出会いが忘れられないと語る。
「毎日Dさんの名前を呼び、声をかけながら体を拭き、手足をマッサージしていました」。
1週間ほど昏睡状態が続いた後、意識が戻った。「Dさんに『お元気になられたの?』と声をかけたら『いた!探していた人がいた!』と言われたのです。『ずっと私のこと呼んでいましたよね?』『その声に返事をしなくては!といつも思っていたんです』と言われ、感動で鳥肌が立ちました」。

 脳外科病棟で勤務していたメンバー。「Eさんは、脳腫瘍が再発し、手術後の経過が悪くl意識不明の状態が続きました」そんなEさんに呼びかけた。「Eさん!手術したんだから良くなりますよ!良くなって、また話をしましょうね!」。
 数週間、声をかけ続けた。準夜勤の日、昼から申し送りで「Eさんの状態が良い」と聞いた。ぼんやりしていた目も、人を見つめるようになった。だが、看護師に対して「あんたじゃない、あんたじゃない」と言い、誰かを探しているという。
 彼女が病室に行き、体の向きを変えようとした瞬間、「あんただよ。あんた、優しくしてくれただろ?」彼女は思わず「Eさん、私のことわかるの?私を探してくれてたの?」と驚き、確かめた。

 ある白樺メンバーが脳外科病棟で働いていた時のことである。
「F君という男の子がいました。交通事故で脳出血を起こし、救急病院に入院後、もう回復の見込みがないだろうと判断され、転院してきました」。
 自発呼吸もできない息子のもとへ、母親は毎日のように通った。
「『もう一度、お母さん、と呼んでほしいんです』と言われました。お母さんはF君に朝から晩までヘッドホンで音楽を聴かせていたので、お母さんとも相談して、私がいつも聴いていた、母を讃える歌もご紹介しました」。
 転院からひと月後。まったく動かなかった口がかすかに動いた。言葉が話せますように。手が動きますように。意識が回復しますように。彼女は具体的に、順番に祈り続けた。F君は自発呼吸できるようになり、音楽に合わせて足が動くようになった。さらに母の呼びかけにうなずくようになった。やがて車椅子でリハビリクを始め、退院していった。
 数か月後、彼女はF君と母親に「入院中、F君はこのテープも聴いていたんですよ」とカセットテープを聴かせた。
 テープを聴いていたF君が不意に「ぼく、この曲知ってるよ」と言った。「いい曲なんだ。心が静まるよ」。そしてメロディーに合わせて口ずさんだ。
 「びっくりしました。お母さんも、母親の豊かな力を歌いあげる内容に感動しておられました」。その白樺メンバーはF君から「マラソン大会に出るから来てほしい」と言われ、応援に行った。「F君は全員が走り終わった後、最後にゴールしました」。彼女は掌が痛くなるまで拍手を送った。

  「心を開いてくれるように」


 「患者を元気づけ、自信をもたせることは、楽天的な絵空ごとをならべて、その場しのぎをすることではない。偽りの安らぎをもたらす言葉の精神安定剤でもない」──池田との対談集もあるアメリカのジャーナリスト、ノーマン・カズンズは訴えている。

「文字どおり命がけの闘いのために患者のもつすべての力、すべての資源を呼び集める方法なのだ」(『ヘッド・ファスト 希望の生命学』春秋社)。

 病の友に対して池田は「自分の全細胞を一新させるくらいの決意で祈るのです」と語る。「六十兆の全細胞一つ一つの薬王菩薩をたたき起こして、発動させるのです」と(『池田大作全集』第三一巻)。

 「白樺」の友もまた「具体的に祈る」ことを信条にしている。

「点滴の一滴、一滴に『よく効くように』と祈りを染み込ませるのよ」と教わってきたメンバーは多い。

「NICU(新生児集中治療室)担当の時は、小さな体で病気と必死に闘う赤ちゃんたちに、『モニター音が心地よい音楽のように聞こえるように。消毒液が花の香りに感じるように』と祈りながらケアをしていました」と語るメンバーもいる。


 <私の この細い腕は 病苦という悪魔を 断ち切る 長剣の腕である>


 あるメンバーは新人ナースの時代、手術室に配属になった。「今日も先輩に注意された」と御本尊に向かう毎日だった。

「白樺グループの先輩から『新人なんだから、注意されるのも仕事なのよ。わからないのは当然よ。先輩から指導を受けて成長していくのよ』と教わりました。

 また、あるメンバーがICUに勤務していた時、大柄の男性が内臓損傷で運ばれてきた。

「Bさんはとにかく苦痛のあまりに体動が激しい患者さんで、人工呼吸器の管を抜き取ろうとするので、安全のために拘束されていました」。

 彼女は、尊敬する先輩ナースが困り果てている姿に「自分にはこの人の看護はできない」と思ったが、連日の唸り声を聞いて放っておけなくなり、ベット脇に行って思わず手を握った。

「Bさん、手痛かったでしょう。一生懸命がんばっていますね。顔の包帯で何も見えなくてつらいですよね。今、楽にしてあげますからね」。10分ほど手の固定を外し、赤くなっている手首をさすった。B

 やがて人工呼吸器が外れ、声が出せるようになったある日、騒ぎが起きた。「あの一番きれいな看護婦を呼べ!」と大声をあげている。ナースたちは「目がみえないのに『きれいっておかしいね」と首をひねり、順番に声をかけると、「違う」「お前じゃない」と言われた。最後に残ったのが彼女だった。  「私の声を聞いたBさんが『この人だ!』と驚きました。当時、私はアトピー性皮膚炎で、手も顔もかさかさで黒っぽくなっており、人に顔を見られるのが恥ずかしいような状態だったのです。その後、Bさんは順調に回復され、やがて一般病棟に移られました」  患者の「痛い」という言葉一つにも、「この痛さをわかってほしい」と共感を求める気持ちや、「そばにいてほしい」という願い、という願い、「これからどうなるのか」という不安など、さまざまな思いが込められている。  末期がんの患者から「さびしいよ」と言われた白樺メンバーは、「他のどの言葉よりも『痛み』や『苦しみを感じた」と語る。手を握ってあげるとぐっすり眠ることができ、後日「ありがとう」と言われた。数日後、静かに人生の幕を閉じだ。  悪性腫瘍で入院してきた10代の女の子がいた。 「お見舞いに来る友人や弟とはよくしゃべるのですが、病棟スタッフには一言も口をききませんでした」受け持った白樺メンバーは「Cちゃんが心を開いてくれるように」と祈り、根気よく接し続けた。ひと月後、「好きな食べ物」を教えてくれ、スタッフ全員が喜びに沸いた。他のナースも知恵を尽くしたことで、やがて「おしゃべりCちゃん」と呼ばれるほどになった。  Cちゃんに精いっぱいの思い出をつくってあげたいと考え、4月にはお花見をし、7月には浴衣を着せ、病院の中庭で花火大会を開催した。その後まもなく亡くなった。  「後日、お母さんから『娘が生きてきて、あんなに楽しそうな笑顔は入院中しかなかった。あの子にとって一番楽しい時期だったと思います』と感謝され、涙がこぼれました」。

    「おごそかな暁に祈り戦う」 ②


 ナイチンゲールは「良い看護」について「あらゆる病気に共通するこまごましたこと、および一人ひとりの病人に固有のこまごましたことを観察すること、ただこれだけで成り立っているのである」と綴り(『看護覚え書』)、「こまごましたこと」が「生死」に関わる、と一貫して訴えている。

 ある病院に、植物状態の患者が転院してきた。白樺会メンバーは、家族から「もう一度、私や子どもの名前を呼べるようにしてほしい」と懇願された。床ずれが数カ所もできており、全身の状態から望みは厳しいと判断した。しかし、清潔や栄養面など、あらゆるケアを行うことによって改善してきた。

 ある日、シーツを交換をする時、足元にできた、ほんのわずかなシーツのよじれに気づいた。「もしかして足が動くのではないか」と判断し、手足のリハビリを行うことを看護計画に取り入れるよう提案した。足を動かすと、患者の表情がかすかに歪み、声が漏れた。その後、徐々に関節が曲がるようになった。

 さらにその白樺会メンバーは「口から食べられますように」と祈り、懸命にケアをした。やがて口に入れたスプーンをカチカチとかめるようになり、ついに砂糖水を飲めるまでになった。一年半ぶりのことだった。今度は「はっきり話せますように」と祈り始めた。しばらくしたある日、家族が目に涙をためてナースステーションに駆け込んできた。「さっき車椅子で散歩した時、私の名前を読んでくれたんです」。


 <私の無音の 落ち着いた行動は 病と戦い続け 苦しみ抜いている 人々のために ありたい>


 「一言」が心を蘇らせる例も数多い。ある白樺メンバーが担当した患者に、脊椎を損傷し、全身の自由を奪われた人がいた。

「首から下はまったく動かず、回復の見込みがないことがわかり、次第に表情が消えていった。頻繁にナースコールをしては、いら立ちをぶつけ、スタッフ間では『またか』という空気が流れ始めていた」。

 この人には気分転換が必要と判断し、車椅子で散歩することを提案した。久しぶりに外気に触れて顔色が一変。彼女は思わず、こらからの試練に負けてほしくないという思いから、かつて池田から聞いたアレクサンダー大王のことを語った。「一切が順風満帆の人生などない。肝心なことは、障害に勝つか負けるかである」「いのちある限り、希望はあり、希望ある限り、道は開ける」(『池田大作全集』第七五巻)という一節である。そのとき、初めてかすかな笑顔を見た。

 やがて退院する日に、友人の代筆で手紙を書いてくれた。その内容は「命の尊さの話、一生忘れません。私も希望をもって生きていきます」というものだった。

 隊員から数ヶ月。彼女のもとに手紙が届いた。「看護婦さんと話すことは、生きていることの確認でした」「弱気になりがちな患者さんを、少しでも多く救ってほしい。自分も同じように障がいで苦しむ人のために関わっていきます」と書かれていた。