EIKOの気まぐれ闘病日記 -193ページ目

EIKOの気まぐれ闘病日記

このブログは、日蓮仏法の信心を根本に、双極性気分障害と闘うEIKOのブログです。日々の出来事や家族のこと、創価学会や池田名誉会長のことを書いていきます。
いきなりのアメンバー申請はお断りしています。

 東奥日報社(青森)の塩越隆雄。

 秋田魁新報社の小笠原直樹。

 岩手日報社の三浦宏。

 河北新報社(宮城)の一力雅彦。

 山形新聞社の黒澤洋介。

 福島民報社の渡部世一。

2009年3月、都内。東北六県紙の社長が一堂に会していた。異例のことである。聖教新聞社紙上での対談が行われた。

 いずれも、県の木鐸として論陣を張る言論機関のトップ。それぞれ何を語るのか、互いに注目している。

 満を持して語りだしたのは、山形新聞の黒澤だった。

「東北の人間観・文化観は、今後、世界をリードしていくと思えてなりません」強い確信には、根拠があった。

 1965年(昭和40年)3月、駐日米大使のエドウイン・O・ライシャワーが、まだ雪深い山形を訪れた。

 巨大な工場や高速道路で成り立つ日本の他に、山脈や大森林が広がり、村や町が点在する快適な生活空間をもつ「もう一つの日本」が存在することを知った。

 後年、こう印象を綴っている。

─私は強く言いたいのです、山形を良い例として『もう一つの日本』を見落としてはならないと。将来において自然と人間が健全なバランスをとっている。そのような『もう一つの日本』に日本全体がなることを望みます─(ハル・M・ライシャワー)

 ライシャワーの”山形観”は県民の大きな誇りになった。後に黒澤は、池田会長がライシャワーと二度(65、66年)会見していることを知る。

「池田会長の世界との識者との会見は、まさしく驚異としかいいようがない。対話力が、スバ抜けています」

 つねずね会長も、地方で生き抜く人間を、もっと大事にし、強くしていくべきだと主張している。

「民主音楽協会や東京富士美術館が展開する企画は、山形の文化や生活が豊かになるきっかけです」

 人の繋がりがバラバラになっている時代にあって、学会の人間と人間を信頼の絆で結ぶ活動に期待しています」



3年間の寝たきり生活は地獄でした。布団を出るのはトイレの時だけ。


朝は最悪の気分で、無気力で何もできません。

食欲もなく、3日くらい何も食べなくても平気でした。

歯磨き、洗顔がほとんどできず、入浴は2、3週間入れませんでした。お風呂に入ると、子供の頃の悲しい出来事を思い出してしまうので辛かったです。


もう一つ辛かったのは、うつ病に対しての家族の理解のなさでした。

父親と夫は全く理解しようとせず、一緒に通院していた母は、医師の話を聞いた時は納得するのですが、いつも布団から出られない私を見て、時々怒っていました。


一番可哀想だったのは小学生だった息子でした。息子は、遊んで欲しくて私のところに来ては、枕投げをして遊びました。


こんな状態が3年続いた後、少しずつ自分の好きな事ができるようになりました。

 前回のブログにも書きましたが、数百円しか払わない人と、1500円払っている人の違いは何なのか不思議に思い、ネットで調べてみると「自立支援医療制度」を知りました。

 医師に診断書を書いてもらい、市役所の福祉課で手続きすると、1割負担で治療が受けられる制度でした。病院では全く教えてくれないので、自分でどんな制度があるのか調べてみる必要があります。 私は申請しようか悩みましたが、この時点では申請しませんでした。


 退院後、しばらくは体調もよく、退院後1ヶ月経った頃近所のスーパーにパートで働きはじめました。しかし、店長がとても厳しい人で、私のやることをいつも「遅い、遅い」と言うのです。意地悪な同僚もいました。仕事中に、脂汗が出て、動悸がしたりする「パニック症状」になってしまいました。結局スーパーを1ヶ月で辞めることになりました。

 セカンドオピニオンで、他の心療内科を受診した時、医師から「退院して1ヶ月でパートに出るなんて無茶だ」と言われました。


 2件目の病院の服薬治療を約2年程続けましたが、殆んど効果がありませんでした。パートを辞めた後、うつ状態はさらに悪化し、殆んど布団から出られない状況になりました。


 色々考えた結果、私のうつ病は、持病の「甲状腺機能障害」からきているのかもしれないと思い、甲状腺専門の病院を受診しました。

この病院で今の主治医に出会いました。


 初めての診察の時、担当医は、トフラニールという抗欝剤1種類しか処方しませんでした。今まで8種類の薬を服用していた私は、驚き「一種類だけでいいの?」と思ってしまいました。

 中々布団から出られない状態が3年ほど続き、うつ状態で話ができない私と母との通院生活が始まりました。


 

 

 東北出身の評論家・佐伯雄太郎は山奥の寒村で育った。

 ある日、村に波紋が起きた。一人の村民が創価学会に入ったのである。「やめれ!」村人が脱会を迫り、菩提寺の住職も乗り出すが、がんとして首を縦に振らない。

 当時の原体験を、佐伯はつづっている。

─どうしても脱会の意思がないことが知れると、徹底した無視と差別が始まった。それは子供の世界にも及んだ。「おい、学会の家さ襲撃するべ」

当時少年だった私は連れ添ってその家へと向かい、物陰から石を投げた(戸田城聖とその時代)。

 このような現象は昭和30年代、日本中で散見された。とくに旧習深い東北では学会員は厳しい「村八分」を受けた。

 井戸の水を汲ませない。外を歩いても「おまえらは、道を使うな!」身の危険にさらされることも、しばしばあった。


 岩手県の最西端に位置する安代町(現・八幡平市)

 ここに学会の世帯が増え始めたのは1957年(昭和32年)のことだった。

 やがて村の祭事をめぐって問題が起きた。学会員は参加しない。寄付も出さない。集落の有力者が怒り、村八分が始まった。

 学会員の田んぼには、水をいれない。共有林も使わせない。道を歩いていると。ナタをカチカチ鳴らして脅しつけてくる者もいた。

「ナンミョーをやめなければ、殺すぞ!」

それでも誰一人退かなかった。仕事を終えると、懐中電灯を片手に、黙々と村を越えて弘教に歩いた。

 深い雪が、ゆっくりと解けるように、村人の見る目が変わってきた。

「学会の者は真面目だ。みんな、よく働くじゃないか」

祭りについても、話し合いで決着がついた。学会員もほかの家の3分の1は金を出す。ただし、寺や神社ではなく、村に寄付することになった。その間、20年以上の歳月がかかった。

 一面に苗代水が張られ、八幡平の山々を水田地帯が鏡のように映していた。

農繁期の仕事を終えた学会員が、足早に佐藤義人の家に集まってきた。2008年(平成20年)4月25日。とっぷりと日が暮れ始めたころである。

 佐藤は地元の名家の11代目。実家は江戸時代には寺子屋、明治初期には小学校だったほどである。

父親は神主。その息子が1964年(昭和39年)、創価学会に入ったと聞いたこきには、村中が驚いた。

 かつての寺子屋は、今では学会員が仏法を語り合う学舎になっている。

 そしてこの日、長年の夢が叶った。

佐藤宅の42型テレビに、初めて学会の本部幹部会が映し出されることになったのである。

インターネットによる映像配信の技術が進歩した結果である。それまでは音声だけの配信が15年続いた。

 佐藤がメガネを持ち上げ、慎重にリモコンを操作する。

池田会長の姿が映し出された瞬間、80人もの参加者から、どよめきにも似た声が上がった。

「おらの村に、先生を迎えた思いだな!」


 ここ旧安代町は「限界集落」と呼ばれる。だが、学会の催しは活況を呈する。現在は3分の1の世帯が聖教新聞を愛読する。

「聖教新聞はいいね。どこを開いても、パッと明るい」

「池田先生のおっしゃる通りだ。人間やっぱり、思いやりがないとダメだ」