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EIKOの気まぐれ闘病日記

このブログは、日蓮仏法の信心を根本に、双極性気分障害と闘うEIKOのブログです。日々の出来事や家族のこと、創価学会や池田名誉会長のことを書いていきます。
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   筋違いの攻撃 ②


 「筋違い」の攻撃は激しさを増した。

「私の母も脅されました」。

澁谷淳子(夕張市、婦人部副本部長)の母、竹原利子は、炭鉱員の婦人たちの集会で退転を勧められた。「『このままではご主人は会社を辞めざるを得ない。早く学会をやめたほうがいい』と。母はめげることなく『信仰は自由でしょう』と言い切ったそうです」。


 労働組合が学会員に「改宗」を強いる。異様な光景が炭住(鉱員の住宅)のあちこちで見られた。

 炭労の代議員大会で、学会員への懲罰動議が提出されたこともあった。参加者は約200人。代議員だった井上晴(きよし)(静岡、副支部長)は問いかけた。「我々の信心は不幸な人を幸福にするものである。また、平和憲法にのっとって宗教は自由である。政治のための選挙も自由である。そのこと以外はすべて組合側に協力しているではないか」。

その場での懲罰動議は取り下げられた。

 

 個人のレベルの嫌がらせから、組織的な締めつけへと、炭労の動きは徐々にエスカレートしていった。

   筋違いの攻撃 ①


 夕張男子部のデモの翌日、数名の学会員が坑道の見張り小屋に呼び出された。

「組合の統制を乱すものは組合を辞めてもらう」と言われ、「いつ統制を乱したのか」と反論した。

6月14日には、真谷地炭労との「懇談会」が行われ、炭労側は同じ趣旨を繰り返した。どこでぶつかっても、話は平行線をたどった。

 炭労が「対決」を煽れば煽るほど、その主張の奇妙さが浮き彫りになっていった。そもそも学会側には対決するつもりなど毛頭なかった。

 戸田城聖は「北海タイムス」のインタビューを受け、「炭労であろうと、共産党でもいい、職場を守る闘争なら私自身が旗を持ちたい。炭労が国家のためにやるのなら応援にもいくよ」(1957年6月2日付「北海タイムス」)と名言している。


 そもそも夕張の学会員は、炭労に組合費を払い、社会党への資金カンパにも協力し、メーデーにもストライキにも参加していた。だからこそ、学会員の働く様子が素行まで調査したにもかかわらず、1件の処分もくだせなかったのである。

「うちを排せきするとはわけがわからぬ、しかし炭労が馬鹿なことをいうならオレも男だから対決するよ。そんなことはしたくはないが」(同)。これが戸田の姿勢だった。

「組合は話合いとよくいうが、この問題で炭労の幹部は一度もわれわれと話合いをしない。おかしいことだ」(同)。

 また戸田がしばしば自ら筆をとった「聖教新聞」の「寸鉄」欄では、この問題の本質を「大学の授業」にたとえている。

◇組合は、組合の指導者がしっかりしてりゃまとまるのだ。まとまらんのを、人のせいにするな。    

◇大学の教室をのぞいてみよ。面白い教授の時は満員で、つまらん先生の時はガラ空きだ。 

◇つまらん先生の時は、学生は授業を受けずに、外で何かしているよ。これを学生が悪いと言えるかね。

◇又、学生に、より魅力を与えた相手が悪いと言えるかね。教授が、それに文句をつけたらおかしかろ。

◇炭労の決議も、又又かくの如し。学会を敵視するのは筋違いだ。


  「自分の人生は自分で決める」 ②


 「対決」を前面に出した東京での炭労大会での後、夕張の町は緊迫した。マスコミも注目し始めた。何が起るのか、学会員たちは、さらなる不安に襲われた。

 夕張の男子部有志は6月6日、市内で抗議のデモを行った。夕張本町からスタートし、約1時間、150人ほどで市内を歩いた。

 「泣く子も黙る」と恐れられた炭労を向こうに回し、ずぶの素人たちが、労働組合のお株を奪うデモを敢行したのである。悩んだ末の意思表示だったが、東京には事前に伝えておらず、信濃町の学会本部はテレビのニュースで初めて知った。


 池田は、最も足繁く夕張に通っていた黒柳明(東京・豊島総区主事)に、直ちに現地に向かい、対策を練るよう指示した。その風貌から「黒豹(くろひょう)」と呼ばれた黒柳。夕張の青年部からも慕われていた。

「夕張行きを指示された時、先生は微笑ながら『本当はお前が一番(デモを)やりたかったんじゃないのか』と言ってくださった。あの一言に胸が熱くなりました」(黒柳)

 日本が戦争に敗れた年、黒柳は14歳だった。「3人の兄は全員、小学校しか出ませんでした」と振り返る。父を早くに亡くした。高校、大学の学費はすべてアルバイトで稼いだ。タイヤの修理工、駅前の宝くじ売り場、ビール工場、得意な英語を生かして米軍施設の通訳もやった。映画のスタントマンまでこなし、稼いだお金で夕張に通った。


 労働組合という言葉は、黒柳に悲しい過去を思い出させた。

「じつは私の3番目の兄が、労働運動の闘士だったんです。昼も夜もなく戦い、過労で倒れ、最後は生活も勉学の夢も成り立たなくなり、見捨てられた。八畳敷きの赤旗にくるまれて、23歳でこの世を去りました」。

 黒柳は兄の後を継ごうと思ったが、その頃、文京支部の宮林義一に折伏され、学会に巡りあったのである。

「私が労働運動に身を投じていたら・・・・・憎しみばかりの修羅のような男になっていましたね。兄の姿を通じて感じたのは。組合の運動だけでは社会は変えられない、ということです。その思いも含めて全部、先生はわかってくださっていた」。

そう言って目を潤ませた。

 黒柳は、無断でデモを敢行した夕張の男子部員たちを前に、「夕張だけの創価学会ではない!」と目を剥いて叱った。しかし虐げられ、職を脅かされ、やむにやまれずデモをした男子部員たちの気持ちは痛いほどわかっていた。今後の打ち合わせを重ねた。

「純朴な彼らが愛(いと)おしくてならなかったですよ」と振り返る。

  「自分の人生は自分で決める」 ①


 「夕張炭鉱で母親が働き、トコッコを押していました」と語る坂東昌歳(札幌市、総県主事)。ワインシャツの箱を仏壇がわりにして信仰に励んだことを覚えている。

「町内会でも、うちだけ呼ばれなかった」。

 電話局に勤めていた小林キミ子(夕張市、圏総合婦人部長)。職場の上司から「結婚の世話をしてあげたいけれども無理だ。君がそ創価学会だからだ」と言われた。

「頭にきて、『自分の人生は自分で決めます』と言い切りました」。

「ヤマ(炭鉱)に『新興宗教が来ています』という有線放送がよく流された」(藤原規行。札幌市、区副本部長)という類いの証言も数多い。


 参院選(1956年7月)の後、すでに学会員のふだんの行動や、勤務実態の調査が行われていた。どんなに徹底的に調べても、学会員に問題は見つからず、炭労から処分を受けた者もいなかった。

 処分する理由がないのなら、”空気”をつくろう──貴重な証言が残っている。

「夕張炭労事件」の二年後、夕張炭労の組合長を務めた玉田重雄。のちに信心に目ざめた。

 参院選の後、炭労が学会との対決を打ち出すまで、9ヶ月ほど期間が空いている。この期間について玉田は、あらかじめ「反対的なものを組合員に植えつけておく」ための時間稼ぎであり、「(炭労の)常套(じょうとう)手段」だったと語っている。


 町の電柱などに学会攻撃の紙が貼られ、中傷ビラが配られた。

「学会に入っている組合員はクビになる」という噂も流れた。

「組合の幹部から、『炭鉱のクビ切りリストの第一番目にお前の名前があるからな』と、暗に学会をやめるよう脅されたこともありました」(遠藤臣二の手記)。

 学者を呼んで「新興宗教と労働運動」などと題した連続講演会も行われた。徐々に反学会の風潮がつくられていった」。

「盛り上がりを謀っておいて・・・・・・ここで楔を打ち込もうと、中央炭労で(対決の方針が)ぐっと出された」(玉田の証言)。

   炭労大会の暴走 ②


 この「対策」が、炭労の選挙活動に従わない学会員を排除するために生まれたことは

前号で述べた。では、炭鉱労働者をリードすべき当の炭労は、どんな選挙運動をしていたのだろうか。

 「夕張炭労事件」の前後、炭労は九州でも学会を敵視していた。その九州・筑紫のある炭鉱員が、炭労自身の選挙戦について述懐している(「月刊 炭労」1958年7月号)。

 「陣中見舞いたいてい酒である。運動員たちがその日の戸別訪問をおえて選挙事務所にひき上げて来ると杯酌(はいしゃく)である」

 投票日当日の早朝には「立候補者と、運動員がずらり立ち乱れて道の両がわに並んでいるのである。

私はこの光景を見た瞬間思わずぎょっとした・・・・・・うつむいて急ぎばやに歩いていると、両側から、『OOさんたのむバイ』『OOさんたのんじょくバイ』の連発である。そして頭をペコペコ下げているのである」。


 そうした道を通ってきた炭鉱員たちの「まったく今日だけは天皇陛下になった気持だったよ」というささやき声も聞こえた。

 開票が終わると「どの選挙事務所も負けず劣らずのドンチャンさわぎである。ある所ではドラムヲドンドン打ち鳴らしてバカさわぎをやっているのである。これが深夜の1時~2時頃までつづくのであった。デタラメなうちの組合選挙の光景である」。

 そしてこの炭鉱員は「小さな鉱組合選挙とはいえ、こんな度はずれた行為があっていいことはあるまい。健全な組合運動発展のため、まず組合選挙からしてもっと考えてしかるべきだ」と嘆いている。


 こうした組合運動とは一線を画す学会員へのいじめは、夕張に限らず、九州や福島でも起きた。新しい民衆運動の衝撃。宗教についての無知と蔑視。「社会科学」だけで世の中を断じてしまう思い上がり。「労働貴族」の票欲しさ。それらが混ざり合って、現場の学会員への迫害につながったともいえよう。