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EIKOの気まぐれ闘病日記

このブログは、日蓮仏法の信心を根本に、双極性気分障害と闘うEIKOのブログです。日々の出来事や家族のこと、創価学会や池田名誉会長のことを書いていきます。
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「黙って見ていられる訳がないじゃないか」②


 北海道炭労が前面的な「対決」を打ち出している以上、何もしなければ、ますます現場の学会員が追いつめられることは目に見えている。

 7月1日に札幌で、翌2日には主戦場の夕張で抗議大会を開く。そして直接対決で決着をつける──急ピッチで準備が進められた。

 二つの大会の運営や、炭労が申し入れてきた直接対決の他に、北海道新聞が持ちかけた紙上討論会(6月29日)、テレビ討論(7月3日)なども次々と日程に上がった。風雲急を告げるなか、池田から東京の男子部に一つの指示が飛んだ。

 

 高橋喜久治(東京・品川区、副区長)は足立支部の男子部の隊長だった。

「6月の末でした。連絡を受けて学会本部に集まると『北海道に行けるか』と。行きますと即答しました」。上野駅に向かった。

「急いで行ったので、着替えやお金は、母から汽車の窓越しに受け取りました。札幌で集まった私たちに、池田先生が『天下に創価学会の正義を示す』とおっしゃったことをよく覚えています」。

 「着替えを1週間分、持って行くように言われました」と澤田和雄(東京・大田区、副本部長)も語る。男子部の応援隊が続々と北海道に向かった。

 のちに池田は、夕張大会に臨んだ心境をこう語っている。


  ──私は海苔屋の息子で、昔、寒風の中をよく一人で船を漕いだ。だから「板子1枚下は地獄」という漁師の気持ちがよくわかるんだ。

 夕張の同志は、もっと危険な地底深くに入り、ポンと爆発があったらそれで終わりという、スレスレのところでいつも生きている・・・・・夕張がかわいいのだよ。どの人もどの人も、かわいくて仕方ない。その同志がいじめられるのを、私が黙ってみていられるかい?黙ってみていられるわけがないだろう──。


 草創期の夕張婦人部を支えた一人、池田キヨは「東京の学会本部が夕張に移行されたかの如く」と書き残している。学会の反撃が始まった。

 「黙って見ていられる訳がないじゃないか」①


 1957年(昭和32年)6月27日。北海道炭労はさらに具体的に、向こう三ヶ月の具体的なスケジュールを定め、道内の75の支部に指令を出した。

 それは衝撃的な内容だった。

 7月=「創価学会対決準備期間」。学会員の状況、会員数を把握する。

 8月=「創価学会撲滅第一次行動月間」。学会員に「改宗」を迫る。

 9月=それまでの成果を検討して、第二次闘争スケジュールを組む。

 「来月から闘争展開/道炭労 創価学会締出しへ」(北海道新聞)等、報道も一気にヒートアップした。

 北海道炭労は国労(国鉄労働組合)や全日通(全日通労働組合)にも学会の追放を働きかけた。中央の方針どおりである。労働組合が組織をあげて信教の自由を脅かす。それは暴挙だったと言わざるをえない。

 夕張炭労書記長の相沢秀雄からは、文京支部幹事の三戸部菊太郎に対して、直接対決しようという申し入れがなされた。その場には北海道新聞の支局超も同席していた。

 

 7月4日の午後1時から夕張労働会館で─日時も決まり、地元紙も報じた。北海道炭労委員長の岡田利春が来ることも決まった。

 三戸部たちは上京し、信濃町の学会本部の会議に参加した。

 「軽挙妄動だと批判されてシュンとしていましたら、それまで黙って聞いていた池田先生が『いや、ここまで来たら、突っ込むべきです』」(三戸部の証言、竹中労著『聞書 庶民烈伝』)

  二つの文章 ②


 いっぽう戸田城聖は「夕張炭労事件」の渦中、「組合活動と信仰」という一文を書いている(「大白蓮華」1957年7月号)。

 戸田は学会員が「旺盛な生命力を以って、組合活動をしてゆくことに変わりはないのである」と念を押し、炭労の腐敗を責めた。

 「組合幹部はあたかも労働貴族ともいうべき存在となって、自らの政治的野心の温床となしているの感があり、その下積みとなって苦しんでいる労働者の実に多いことを知らねばならない」

 この問題は「今の組合が、いかに組合本来の目的をはなれ、幹部のための組合、組合のための組合組織になり下がっているかということを如実に証明しているのである」。そして創価学会は「労働運動によっても救われぬ」人々を救いきる闘いに挑んでいるのだ、と訴えた。


 どちらに道理があったのだろうか。歴史の鏡は厳粛に映し出す。

 1992年(平成4年)に炭労が発行した『炭労 激闘あの日あの時』という本がある。そのなかで創価学会との「対決」について、かつて夕張炭労がまとめた『労働組合史』1966年)が引用されている。

 しかし、引用先の『労働組合史』にある「(学会員は)不具者と生活困窮者がその大半を占めている・・・・・」という一節は、その前後が引用されているにもかかわらず削除。また当時の炭労が使った学会をめぐる幾つかのデマも削られていた。

   二つの文章 ①


 炭労と学会と、どのような価値観の違いがあったのか。対照的な二つの文章がある。

 6月18日、北海道炭労が定期大会をを開いた。その場で可決された方針は「炭道」という機関紙に発表された。

「このような宗教(=学会)が何故盛んになってきているか」──北海道炭労はこう理由づけている。

 「(学会員の)多くは不具者と生活困窮者がその大半を占めている事によって明らかなように『苦しい時の神だのみ』的気持がいかに多くの人々を集める事が出来るかと云う事に注意せざるを得ない・・・・・」

 北海道炭労は、学会を批判する材料として”炭鉱事故などで体が不自由になった人や、生活に困った人に学会員が多い”というのである。そして学会員の信仰を、一時的な「苦しい時の神だのみ」にすぎないと見なした。


 池田はこうした炭労の価値観について、次のように語っている。

「炭労側は、こう言っていたんだよ。『もともと炭鉱には不慮の災害や珪肺(粉塵による肺疾患)のような病気が多く、労働者事態も知的水準の低いものがおり、この種の宗教の入りこむ余地がある』と。”病人や、知的水準の低い人間が学会に入る”というのです。何と傲慢な、民衆蔑視か」(『池田大作全集』第巻)。

 

 労働組合はその職場で「不自由な人」「困っている人」のために存在する大切な組織である。炭労の幹部たちは、数々の闘争を経て、誇り高い歴史を積み重ねてきた。しかし「自分が何のために幹部になったのか」「誰のおかげで幹部でいられるのか」を──つまり自らの「土台」を見失っていたのかもしれない。