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EIKOの気まぐれ闘病日記

このブログは、日蓮仏法の信心を根本に、双極性気分障害と闘うEIKOのブログです。日々の出来事や家族のこと、創価学会や池田名誉会長のことを書いていきます。
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  「私は大丈夫です」 ②


 池田が高橋俊一(第二代夕張支部長)の家を訪れた時のことを、次女の高橋節子が書き残している。俊一夫妻はあいにく留守で、三人の子どもと俊一の母ユキがいた。池田は「おばあちゃん、いい顔をしているね!」と両手でユキのほおを撫でて「長生きするんだよ」と言って励まし、ユーモアたっぷりに「僕がヤマ(炭鉱)を全部買ってあげるよ」と背中をさすった。二人の娘から仕事の悩みなどを聞き、息子には好きな本を送ってあげようと語った。

 

 節子たちは池田が広い通りに出るまで見送った。その時、想像もしていなかった言葉を聞いた。

「私は今、警察に追われているだよ」

手が後ろに回っているんだよ、と微笑んだ池田は、両手を腰の後ろにやった。

「何のことかわからず、だまって見送りました」という節子。

「大阪、夕張という二つの大きな闘いを抱えられていたとは知りませんでした・・・・・夕張の同志のために駆けつけてくださったことに感謝と御恩は生涯忘れません」。


 この年4月に大阪で行われた参議院大阪地方区の補選で、会員に戸別訪問を指示したとの容疑をかけ、大阪府警は池田に出頭を求めていた。

 大阪から刑事が上京し、北海道でも動き回っていた。理事の辻武寿が池田は絶対に逃げないからと説得し、夕張大会の終了まで出頭を引き延ばしていた。

 西島健郎の手記には、夕張市内の末広一丁目の商店の店先で、池田が電話で話した場面が描かれている。

 「『池田が来ないのなら戸田を逮捕すると言っている』との緊急連絡であった。・・・・・池田室長は何度もうなずきながら『私は大丈夫です、行かせてください』」

 電話のそばにいた西島は、よほど重大な事態だと感じた。同時に、この状況でよく平静でいられるな、と驚嘆した。

   「一気に事を決する」 ②


 池田は翌30日、逃げた夕張炭労に二度、面会を申し込んだ。炭労側は「今日は代議員大会があるから」、代議員大会の後は「発熱したから」という理由で断った。強硬姿勢から一転、あっけない腰砕けである。

 池田は「問題は解決したのではない」「夕張の学会員が二度と虐められないように、徹底して戦い、一気に事を決しておく必要がある」と戒めた。

 

 炭労は、マスコミ向けにはまったく違う説明をしていたようだ。毎日新聞に「現地の討論中止」という見出しの記事が載った。(7月2日付)。そこには北海道炭労幹部の談話が紹介されている。

「炭労本部から東京で創価学会と対決するという連絡もあったので夕張での討論は行わないことにした」。

 

記事は炭労中央委員長の原茂と戸田城聖が討論すると伝えているが、その後、そのような対決はなかった。また夕張では「対決は学会が申し入れ、学会が撤回した」という正反対のデマまで流れる始末だった。


 そして、札幌大会、夕張大会の準備が進むなか──池田の背後には大阪府警が迫っていた。

  「一気に事を決する」 ①


 6月29日。事態が急変した。夕張炭労教宣部長の佐藤信男が三戸部宅を訪れ、炭労がが申し入れていた「直接対決」を「無期延期してほしい」と告げたのである。ストライキの処理で忙しいからだという。事実上の白紙撤回だった。

 「佐藤教宣部長が三戸部宅に入ってきた時、足がガタガタ震えていた。そして『誠に申しわけありませんが、私たちは忙しいので、無期延期にできませんか』と」(荒関政雄の証言)。

三戸部宅に詰めていた東京からの応援隊の星野義雄は激怒した。

「対決、対決と喧嘩を売ってきたのはあなたたちのほうだ。それで私たちはわざわざ東京から来ているんだ。忙しいのは私たちのほうだ。やらなかったら帰れない。やりましょう」と詰め寄った。

 「(佐藤は)『勘弁してほしい。忙しいので、頼みますよ』と言い捨て、逃げるように引き揚げた」(荒関)

 

 なぜ炭労は突然、撤回したのか。この2年後に夕張炭労の組合長を務めた玉田重雄はこう語っている。

 炭労は団体交渉などの「集団は強い」。しかし一対一の対話など「全然別なことにおいてやるとなると、自信を喪失する・・・・・会って愚をさらすよりも(撤回すべきだ)、ということになったんではないだろうか」。

 夕張で同志を励ます池田の姿に触れてきた婦人部の岡本梅子。対決を申し入れておきながら直前に撤回した炭労に対して、烈火のごとく怒る池田の姿に驚いたという。

 池田は翌30日、逃げた夕張炭労に二度、面会を申し込んだ。炭労側は「今日は代議員大会があるから」、代議員大会の後は「発熱したから」という理由で断った。強硬姿勢から一転、あっけない腰砕けである。


 池田は「問題は解決したのではない」「夕張の学会員が二度と虐められないように、徹底して戦い、一気に事を決しておく必要がある」と戒めた。



  平等の世界 ②


 炭鉱には「労働組合に入れてもらえない労働者」がいた。下請けの「組夫」と呼ばれる人々である。ヤマには「北炭の職員、炭鉱員、組夫」という厳然とした差別があった。組夫を雇う側は、組夫個人ではなく「組」と契約する。その組の親方の裁量で組夫の賃金が決まった。

「組夫は上前をはねられ、福利厚生も行き届かず、危険な仕事に回され、炭鉱街の最も底辺に追いやられていた」(藤田征之。

苫小牧市、総県総主事)。

 

 学会員の連帯は、この組夫たちにも広がっていた。

「組夫にも学会員がいました。炭労に入れず、労金から借りるのも難しく、赤ちゃんのミルクを買うお金がない人もいた」(保科由子。夕張市、婦人部副本部長)。

「大部屋に住む組夫も折伏しました。親方から日銭をもらったらすぐ飲んでしまう人が多かったが、真面目な人もいた。ワイシャツの段ボールで作った御厨子(おずし)に御本尊を安置しました。(井上一清。静岡、副圏長)。

 丹野孝次(静岡、副支部長)は「学会の座談会では職員も、炭鉱員も、組夫も同じ『地涌(じゆ)の菩薩』です。何の差別もない。平等に語り合うことができた」と振り返る。


 創価学会は労働運動でも救われぬ人を救いきる──この戸田の意思を形にしようと夕張の学会員は闘った。そして池田は、そうした一人一人に焦点を合わせて応援隊を送りこみ、夕張大会に臨んだのである。

 6月29日、6月30日、7月1日と、青年たちは夕張のヤマを歩き続けた。

「夕張大会の前日まで、東京から来てくださった多くの男子部の激励、訪問も、池田先生のお考えだったことを後から知りました」(岩谷美智子。札幌市、総区副総合婦人部長)。


 池田キヨは「当時の学会員のなかには、どこが玄関かもわからない、壁にムシロを下げただけという困窮状態の家庭もありました」と書き残している。案内するのがためらわれるほどの極貧の家もあった。

「恐縮する私に構わず、青年たちは実に丁寧に、礼儀正しく一軒一軒を訪問してくれました」

「どこまでも信仰の基本を示しながら、御本尊の絶対性を語りかけ、相手が納得するまで対話を続けるのです。時に二、三時間かかることもありました」

 「私はこの時、創価学会がどこまでも民衆とともに歩みゆく団体であることを実感しました・・・・個人指導が重要な組織活動の基本であることを学んだのです」


  平等の世界 ①


 6月29日の夜、池田キヨが夕張の拠点である三戸部宅に着くと、懐かしい声が響いていた。腕まくりした「文京支部長代理」の池田大作が車座の中心に座り、矢継ぎ早に指示を出している。

「着くや否や各幹部にてきぱきと叱咤激励している姿は、まさに聞く勇将そのものでした。その時思いました。これは勝った、大勝利だと」(輪島年冶の手記)。

 池田は「組合執行部では学会を撲滅するというが、何を撲滅するというのか。我々は立派な組合員ではないか」と訴えた。

 「『皆さん、心配することはない、私が皆さんを必ず守ってあげます』と一人の青年の肩に手をかけられ『大丈夫だよ』と力強くおっしゃって下さいました・・・・・炭労の役員の皆さんに聞かせてあげたいと心の底から思いました」(渡部キミ子の手記)。

市内の移動中にはには、次のようにも語っている。

「民衆次元に立っていない炭労は、かわいそうだが駄目になるよ。みんなは、この信心をしっかりやって、人生の基盤を固めていきなさい」。


 北海道に乗り込んだ池田は、いくつも具体的な手を打った。

「そのひとつに青年部幹部が中心となって行った座談会と個人指導があります」(池田キヨの手記)。

 東京から駆けつけた男子部の応援隊は、夕張だけでなく各地を回った。

「函館で学会員宅の家庭訪問に歩き、『札幌大会』への参加を訴えました。夕張にも駆けつけました」(澤田和雄)。

「私は札幌から苫小牧へ入り、地元の男子部の案内で個人指導に回ってから夕張に行きました」(高橋喜久治)。

 札幌大会、夕張大会の結集に走りながら、炭労事件の本質を語り、さまざまな悩みも聞いて回る──北海道を強くすると同時に、東京から来た男子部にとっては日ごろから培った力量が試される。池田が指示した応援隊は、二重、三重に価値あるものになった。