「黙って見ていられる訳がないじゃないか」①
1957年(昭和32年)6月27日。北海道炭労はさらに具体的に、向こう三ヶ月の具体的なスケジュールを定め、道内の75の支部に指令を出した。
それは衝撃的な内容だった。
7月=「創価学会対決準備期間」。学会員の状況、会員数を把握する。
8月=「創価学会撲滅第一次行動月間」。学会員に「改宗」を迫る。
9月=それまでの成果を検討して、第二次闘争スケジュールを組む。
「来月から闘争展開/道炭労 創価学会締出しへ」(北海道新聞)等、報道も一気にヒートアップした。
北海道炭労は国労(国鉄労働組合)や全日通(全日通労働組合)にも学会の追放を働きかけた。中央の方針どおりである。労働組合が組織をあげて信教の自由を脅かす。それは暴挙だったと言わざるをえない。
夕張炭労書記長の相沢秀雄からは、文京支部幹事の三戸部菊太郎に対して、直接対決しようという申し入れがなされた。その場には北海道新聞の支局超も同席していた。
7月4日の午後1時から夕張労働会館で─日時も決まり、地元紙も報じた。北海道炭労委員長の岡田利春が来ることも決まった。
三戸部たちは上京し、信濃町の学会本部の会議に参加した。
「軽挙妄動だと批判されてシュンとしていましたら、それまで黙って聞いていた池田先生が『いや、ここまで来たら、突っ込むべきです』」(三戸部の証言、竹中労著『聞書 庶民烈伝』)