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EIKOの気まぐれ闘病日記

このブログは、日蓮仏法の信心を根本に、双極性気分障害と闘うEIKOのブログです。日々の出来事や家族のこと、創価学会や池田名誉会長のことを書いていきます。
いきなりのアメンバー申請はお断りしています。

  「人生大学」の教授に ①


 「あの日、夫は『先生をあんなして、許さへん』『絶対に先生は無実や』とかんかんになって怒っていました」。松山末子(大阪市、婦人部副本部長)は、池田が逮捕された直後の夫の様子を振り返った。

 夫の松山輝夫はその三年前に信心を始めていた。経営していた鉄工所が倒産の危機に直面し、自身は結核で苦しんだ。大阪で聞いた戸田城聖の御書(日蓮の遺文集)講義が、人生の転機になった。

 

 1955年(昭和30年)の冬、静岡・富士宮市の大石寺に登山し、大阪支部の仲間と宿坊に泊まった。

「ずいぶん古い建物で、すきま風が吹き込んでなかなか眠れなかったそうです」(末子)。

 夜中の二時を過ぎたころ、動く人影に気づいた。その人は、宿泊者のずれた布団をかけ直していた。松山の寝ているあたりにも回ってきた。寝たまま「えらいご苦労さんです、すんまへんなあ」と小声で礼を言うと、風邪をひかないようにと気遣ってくれた。薄目を開けて姿を追った。部屋の外の不寝番まで激励していた。

 

 翌日も、早朝からその男性が宿坊にやってきた。親しい班長に「あの人、誰やねん」と尋ねると、「池田はんや」という。昨夜の様子を思い返し、思わず班長に言った。「あの人は早よ死ぬか、大者になるか、どっちかや。あんなことしとったら、体もたんでぇ」。松山にとって「夜中に布団をかけ直してくれた人」の温かな印象は、生涯消えなかった。

   「堂々と出頭するよ」 ②


 「夕張炭労事件」から「大阪事件」へ。一連の流れの中で、池田はある仏法説話を繰り返し語っている。

 ちょうど夕張男子部が炭労にデモをかけた6月6日、男子部隊総会がスタートしていた。都内のある会合で池田が触れたのは、雄弁で「説法第一」として知られた仏弟子、富楼那のエピソードだった。

 富楼那は自分の祖国に帰って法を弘めようと決意し、釈尊に伝える。

 釈尊は弟子にこう問いかけた。

「富楼那よ、この国の人々は、気が荒く、ものの道理がわからず、人の悪口ばかり言うそうだ。彼らは君を嘲ったり、罵るだろう。その時は、どうするつもりか」

 富楼那は答えた。「そうしたら、こう思います。『この国の人々は、いい人たちだ。私を手で殴ったりしないのだから』と」。

「それでは彼らが、君を殴ったら、どうする?」「こう思います。『この国の人々は、いい人たちだ。私を棒で叩いたりしない』と」。

「棒で叩かれたら、どうするのか」。「『私を鞭で打ったりしないから、いい人たちだ』と思いましょう」。

「鞭で打たれたら」。「『刀で傷つけられないからよい』と」。

「刀で傷つけられたら」。「『殺されないから、よい人たちだ』と」。

「それでは富楼那よ、かの国の人々に殺されたら、君はどうするのか」

 富楼那は答えた。

「自ら死を求める人間すらいます。私は求めずして、仏法のために、この貧しく、汚い身を捨てることができるのですから、大いに喜びます」

 

 弟子は、殉教こそ喜びである、と心を定めていたのである。釈尊は安心して答えた。

「善きかな、富楼那よ、その決意があれば大丈夫であろう。行ってきなさい」──。

 この富楼那の話を池田は、「大阪事件」の発端となった参議院補選の最中、大阪の同志にも語った。

 迫害に怯まない。非暴力の対話で立ち向かう。こうした信仰者としての根本的な姿勢を、戸田城聖から、そして池田から、渇いた土が水を吸い込むように吸収していった地域の一つが関西だった。日本国内にとどまらず、海外のSGI(創価学会インターナショナル)メンバーにも知られ、尊敬を込めて「常勝関西」と呼ばれている。その淵源に迫りたい。


  「堂々と出頭するよ」 ①


 「あの矢追のお母さんの声は、忘れようにも忘れられません」。つらい記憶を振り返りながら、83歳の馬場は語った。

「捕まえる側にとって理屈は何でもよかった。要するに学会を叩き潰そうとしていた。特に『大阪事件』の時は、そうした空気をヒリヒリと感じました」。

 同年4月の参議院大阪地方区の補欠選挙で、支援活動をした一部の学会員に選挙違反が出た。池田にとって、まったく寝耳に水の話だったが、大阪府警は支援の責任者だった池田に狙いを定めていた。

 池田は「私は何も悪いことはしていないじゃないか。堂々と出頭するよ」と矢追たちに言い聞かせ、部屋を後にした。矢追はこう綴っている。

「『先生は無実や!何も悪いことはしてへん!』──。私の胸は張り裂けるようでした。走り去る車を追いかけて私も必死に走りましたが、車はすぐに消えてしまいました。


 蒸し暑い夏の夜、どこでどのように休まれるのかと、居ても立ってもいられず、御本尊の前にひれ伏し、題目を唱え続けました」

 大阪府警は当時、大阪城公園にあった。太平洋戦争中、中部軍管区司令部が使っていた建物である。敗戦後は占領軍の駐留部隊が入っていた。

 大阪支部の中心者である白木義一郎は、夕張大会を終えた池田に北海道から同行していた。この日の夜も池田に付き添った。池田は公職選挙法違反の容疑者として逮捕され、取調室に入った。


 白木の長女である山下以知子(関西婦人部長)は、この時8歳だった。

「あの日の出来事は父も母(白木文)も、ほとんど語ることなく生涯を終えました。ただただ悔しく、無念だったのだと思います。とくに母は池田先生が入獄された『7.3』について『口にするのも、目にするのも嫌だ』とまで憤っていました」。


 「関西本部の管理者だった福生伊八。

「7月3日以後は、まるっきり(関西本部の)雰囲気が変わってしまいました」と書き残している。関西本部には、池田の逮捕がマスコミで報道された直後から「差し入れはできますか」「面会はできますか」と電話が殺到した。

 「三階の大御本尊の前には、先生の無事を祈って唱題する同志で昼も夜もあふれ、会場整理をするのにひと苦労だったことを、いまだに忘れることができません」。

自営業の壮年部員たちも「あかん、仕事が手につかへんわ」などと言いながら、関西本部の仏間へ入っていったという。


 「私は何もできないもどかしさに、歯ぎしりする思いでしたが、せめて食事だけでもと、毎日拘置所に差し入れを届けました」(矢追の手記)

 当時を知る関西の学会員たちが「最もつらい二週間だった」と口々に語る、池田の獄中闘争が始まった。

 1957年(昭和32年)7月3日、


 大阪府警に任務出頭した池田大作は


 無実の罪で不当逮捕される。


 「大阪事件」。四年半にわたる法廷闘争で


 潔白が証明され、検察も控訴なし──


 無罪確定から本年で50年を迎えた。


 権力と自ら対峙しつつ、同志を懸命に励まし


 今日の関西の発展を築いた池田の日々を追う。


 「私の胸は張り裂けるようでした」


 大阪府警なんかに行かないでほしい、と矢追久子は池田大作に泣きながら頼んだ。「行けば帰れんようになるに決まってます」。

 1957年(昭和32年)7月3日。大阪の伊丹空港に着いた池田は、男子部馬場武夫(尼崎市、副圏長)が運転する車に乗った。

行き先は任意出頭を求められた大阪府警である。

矢追は、初代関西婦人部長である白木文とともに”関西のお母さん”として親しまれた。その矢追が無理な願いとわかりつつも語りかけたのは、池田が弁護士たちとの打ち合わせのために立ち寄った新大阪ホテルでのことだった。

 

 いつも連載を読んでくださる皆さん、いつもありがと


うございます。m(__)m


 次回からは、青年の譜(7)「大阪事件」(1)を連載


することにしましたので、お知らせします。


 若き池田先生が国家権力との戦いを、じっくり読み


進めながら学んで行きたいと思いますので、よろしく


お願いします。m(__)m