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EIKOの気まぐれ闘病日記

このブログは、日蓮仏法の信心を根本に、双極性気分障害と闘うEIKOのブログです。日々の出来事や家族のこと、創価学会や池田名誉会長のことを書いていきます。
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 「阿闍梨(あじゃり)様と呼べ」 ①


 その一つは「悪人は、どこまでも、図太く、卑怯であり、悪智慧があるものだ」(1955年2月21日の日記)と池田を憤(いきどう)らせた。

  

 大阪市北区の蓮華寺に、崎尾正道という住職がいた。太平洋戦争中、日蓮正宗の宗務総監だった。軍部政府に迎合し、創価教育学会の切り捨てを進めた。

 戦後、崎尾は蓮華寺の信徒に対して、自分を「住職」ではなく「阿闍梨(あじゃり)様と呼べ」と強要した。「阿闍梨」とは”徳の高い僧”の意味である。

 学会員が寺に来て唱題をすると文句を言い、「学会員が折伏するから信者が増えて困る」「学会員は肺病とか病人を授戒(御本尊を授与する儀式)に連れてきて困る。そんな人に授戒しても仕方ない」等、差別意識むき出しの発言を続けた。学会の会合に招かれても一度も出席しなかった。

 

 「草創期の関西は、彼に散々、邪魔されました」と栗原明子が振り返る。

「学会員がどんどん弘教を進めて、住職として忙しくなるのを嫌ったのです。住職の妻からも『阿闍梨様の言うとおりにしなさいよ』とか、『学会員の服装が汚い。由緒ある寺の格式が下がる』などの暴言を浴びせられました」。

 池田が会長辞任に至った「第一次宗門事件」や、学会に破門通告書が送りつけられた「第二次宗門事件」が起る以前、関西の学会員はすでに、腐った聖職者見ていたのである。

 「御書は女性の鏡、武士の力」 ②


 「この御書がなかったら今の自分はあらへん」。池田とともに仏法を学んだ関西の人々から、多く聞く言葉である。奈良の菊澤孝子は、うだるような夏の日に聞いた「総勘文抄」講義の様子を書き残している。

 「(関西本部は)当時はクーラーもない暑い会場で、(池田先生は)シャツの両腕をまくりあげて、烈々たる迫力・・・・・かんでふくめるように講義なさるお姿にすっかり魅了。私の生命の躍動。朝の9時半から4時まで18頁にわたる講義でしたが、あっという間に過ぎました」

 重度のネフローゼ症候群(腎臓疾患)で1年入院した時には、唱題に励み、御書を全編読んで自ら励まし、闘病生活を乗り越えた。

 

 京都の梅景うめか。下京支部の婦人部長などを歴任した。冬のある日、「右手に御書の風呂敷包みをしっかりかかえ、左手はずり落ちそうな背中の赤ん坊を押し上げながら」、長女を連れて池田の講義に駆けつけた。妻として、7人家族の苦しい家計をやりくりしながら学会活動に挑戦していた。

「私はどうしてもこの厚い壁を破らねばとの思いで御書講義にのぞみました」。参加者は会場の外にあふれた。

「全身を耳にして・・・・・・人と人との間で夜空を仰いで」池田の講義を聞いた。

 集まった人々はそれぞれに「どうしてもこの厚い壁を破らねば」という切実な願いを抱えていた。いっぽう「教学」と聞くと、ついつい難しいからと敬遠しがちだった。この二つが、池田の御書講義を通してまっすぐ結びついた。ここに関西の強さの鍵があった。


 池田の日記には、自らを叱咤する文言が刻まれている。

「来年度の任用試験を中心に、私も真剣に勉強しよう。教学力なき指導者は、必ず将来、苦しみ、退歩してしまうであろう。勉強は人のための見栄ではなく汝自身のためである」(1956年12月1日)。翌年二月には「教学力の、足らざるを、反省する昨今。不断の努力の、必要あり。これからの指導者の、第一義の問題たり。この1年──読書の年でありたい」(2月13日)とも記した。

 「読書の年でありたい」と願った1957年(昭和32年)、池田を「大阪事件」が襲った。

 この冤罪事件に全容に迫る前に、”序章”ともいうべき、見逃せない幾つかの出来事に触れておきたい。

 「御書は女性の鏡、武士の力」 ①


 関西の学会員に対して「教学がどれほど大切か」を誰よりも深く打ち込んだのは、池田の師、戸田城聖だった。月1回、中之島の中央公会堂で法華経の講義を続け、質問会も行った。池田の日記にはその喜びが綴られている。

「6時半より、中之島公会堂にて、先生、第一回の『(法華経)方便品』の講義あり。参加受講者、何と7千名。真剣な眼差し。関西は益々進展してゆくであろう。東京をしのいで」(1956年1月16日)。「『この中で御書を持っていない人』と聞かれ、大半の人達が大きな声で『ハーイ』と手を上げました。戸田先生はそれを見て、かんで含めるような語調で次のように話されたのです。

 『御書は女性が鏡を片時も離さないように、また武士が刀をいつも腰にさしているように、大聖人の仏法を信仰する者が御書持たないようでは、大聖人の弟子とはいえない。

 この次からは、私のポケットマネーで御書をプリントにして、皆さんに入り口で差し上げましょう。私は、大阪から貧乏人と病人をなくすために来たのです』」(松本綾子の手記)。


 御書は1952年(昭和27年)に発刊されたが、まだ広く普及していなかった。公会堂の講義で「初めて御書の大事さを知った」という松本は、毎日食費から5円ずつ節約し、数ヶ月かけて御書を買い求めた。

 「尋常小学校しか出ていない私には、御書の勉強が、気が遠くなりそうに思えた」という堺市の奥村イチ子(支部副婦人部長)。54年(同29年)に池田の御書講義に出席した。

「先生の講義は、わかりやすく、しかも、ジーンとハラにしみ入るようであった・・・・・家に帰ってもその感動は冷めやらず、家族に離さずにはいおれなかった」。

 先輩に教わっては御書にふりがなを書き込み、何度も読み、次の講義を楽しみに待った。会合の帰りには、家で待つ子どものために今宮駅で20円の焼き芋を買い、冷めないように胸に抱いて列車を待った。

「貧しくても胸の中は楽しさでいっぱいでした」と語る。

  「人生大学」の教授に ③


 関西の学会員は、直接の対話とともに、御書講義を通して池田の存在を知っていった。

「池田先生は『湿れる木より火を出(いで)し 乾ける土より水を儲けんが如く』などの有名な御文の講義はもちろんですが、難しい『当体義抄』や『総勘(そうかん)文抄』などを通して”仏法の生命論”をがっちり講義されました」と栗原明子(関西婦人部総主事)は語る。

「当時の関西には信心歴の浅い人しかいません。折伏も、選挙の支援も、根本の精神はすべて御書から教えていただきました」。

 「教学の徹底的究明ほど、最大事はなし」(1955年12月19日)──池田が日記にこう書いたのは、「当体義抄」を学んだ日のことである。その2週間後。

「5時より、関西本部にて、『当体義抄』の講義。つづいて、男女班長の指導会。関西本部常住の大御本尊に、祈る。種々」(56年1月4日の日記)。

 

 講義に参加した京都の入澤久枝が、当時の手記を残している。

「厳寒のその日、私は国鉄鶴橋駅の改札をくぐり抜け、コートの襟を立てて関西本部へと向かっていた」。

この時池田は28歳だが、「とても二十代には見えなかった」という。

「難解な御文が、いとも簡単に、さらさらと解されるのです。私はもう喜びでいっぱいだった」

 「夫と死別し、3人の幼子を抱えて格闘していた心に、幸の灯が確としてともった・・・・・ ”こんな世界があったのか!。まさに暗夜に一筋の閃光を見た思いであった」。

講義の場では質問が次々と飛び出したが、次の会合の時間が迫り、途中で打ち切らざるをえなかった。


 この日、池田が灯し始めた光は、関西の学会員を社会変革の使命に目覚めさせ、半年後の「”まさか”が実現」に結実する。白木義一郎が立候補した「大阪の戦い」は、それまでの常識では絶対に勝てないと思われていた。

 4日後の日記にはこうある。

「午前中、在宅。背痛み、微熱あり。37度6分との事。365日、胸と背の痛み消えず。健康になりたい。これのみが全人生だ」(同1月8日)。

さらに2日後。「心身ともに苦し。自己の生命に対しては、自分が最も名医であるかも知れぬ」(同1月10日)。

「大阪の戦い」を抱えて、なによりもまず「自分との闘い」が続いていた。

  「人生大学」の教授に ②


 「私の兄は、体が不自由だった。そのため、私は中学のころから、兄のこと、自分の人生について深く悩んでいた。それがきっかけで、妙法道へ進むことができた」──男子部だった横田憲治郎(大阪・和泉市、副圏長)は、その兄を背負って関西本部を訪れた。1957年(昭和32年)3月のことである。戸田城聖とともに勤行した後、悩みをぶつけた。戸田は「永遠の生命観から、二人分の折伏をしっかりとやりきっていきなさい」と励ました。


 「その際、戸田会長のすぐ横にいる方から『しっかり、頑張りなさい』と万感をこめた激励を受けた。心の奥にまで響く、温かな言葉に涙が出るほど感動した。

 再び兄を背負って立ち上がり、階段を降りかけた時、兄が少し軽くなるのを感じた。何と、その青年が兄を背負う私を見かねて、手を貸してくれていたのだ。一緒におぶって一階まで降りてくださった。

 その親切な青年が池田青年室長と分かったのは、かなりたってからだった」(横田の手記)

 横田にとって池田は「共に兄を背負ってくれた人」として胸に刻まれた。


 池田の逮捕を報じる新聞記事を読み、池尻恭一は「思わず大声をあげるほど驚いた」と書き残している。それまで直接、池田と言葉を交わしたことはなかった。しかし前年、堺市で行われた教学試験で、試験官だった池田の言葉が胸に刻まれていた。それは「皆さん方はたとえ大学出身でなくても、今は仏法の何たるかわからなくても、この信心を真面目に10年、20年と続けていけば、必ず大学教授も及ばない『人生大学』の教授として皆から尊敬されるようになります」という言葉だった。

 池尻はその数年前、長年病気だった父を亡くしていた。長男として家族7人の柱になった。出勤前の1時間余りと日曜日は畑仕事をし、会社を終えたら夕方の6時から100人ほどの子どもを相手にそろばん教室で教えた。座談会に駆けつけるのは夜の9時。皆が帰った後だったことも度々である。

 そうした中の、池田との出会いだった。「・・・・・少年期の夢であった教師の道を断たれていただけに”人生大学”の四文字は、ひときわ印象に残った・・・・・先生の言々区々は、生活に疲れていた私の命に限りない希望の光として広がった」(池尻の手記)。

 その「光」を届けてくれた恩人が、獄につながれたという。にわかに信じられなかった。