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EIKOの気まぐれ闘病日記

このブログは、日蓮仏法の信心を根本に、双極性気分障害と闘うEIKOのブログです。日々の出来事や家族のこと、創価学会や池田名誉会長のことを書いていきます。
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    「点」と「線」 ②


 警察の取調べも違法の疑いが強かった。逮捕後「捜索するから鍵を出せ。よこさないと戸を破って入るぞ」と脅され、自宅の鍵を取り上げられた男子部員もいた。「蓮華寺事件」の際、住職の崎尾に話し合いを求めた一人、池田弘稔の自宅には刑事6人と新聞記者2人が揃ってやって来たという。家を出る時、カメラのフラッシュを浴びた。


 参考人として任意出頭を求められた佐伯三郎(当時、大阪支部幹事)は「仕事のためどうしても午前中は同行できない」と強く拒否したが、警官2人に強引に市電に乗せられた。ある婦人部員は、「家事があるから」と拒んだが、「出頭しないと後のためにならないぞ」と恫喝され、やむなく連行された。


 逮捕された人々は、結局10日後には全員、釈放された。学会の名簿や指導集など、「事件」とは関係ないものまで押収され、学会の経理状態や幹部の権限についてしつこく尋問された。新聞は警察発表を増幅し、事実と正反対の報道をした。結果として、巧妙な宗教弾圧が行われたのである。


「5月の不法逮捕は、関係ない『点』と『線』をつないで1本の『線』にし、組織的な動きに仕立てようとした悪質な手法だった。これは翌年の『大阪事件』で使われた捜査方法と似ている」と当時の関西幹部は語る。

   「点」と「線」 ①


 1956年(昭和31年)5月15日。読売新聞大阪版の朝刊社会面に「暴力で信者獲得6名に逮捕状 創価学会関西本部」という大きな見出しが出た。他紙も同じ趣旨の記事を載せた。逮捕された学会員たちは15日の早朝、ほぼ同時刻に捕らえられている。つまり、警察が逮捕する当日の朝、逮捕予告の記事が新聞に載ったのだ。

 

 大きな謎が二つあった。

 まず、このように大きく扱われた「事件」は、それぞれ「5ヶ月前」「1年前」「1年3ヶ月前」の出来事だった。それらまったく別々の出来事が、同じ日に「事件」にされたのである。

 さらに、それらはすべて「傷害」容疑だったが、学会員が暴力を振るった事件は1件もなかった。

「5ヶ月前」──泥酔した男たちが学会員宅に乱入し、食膳をひっくり返し、ガラス障子を破り、玄関で転んで自分でこぶをつくって帰っていった。被害者は学会員の方である。

「1年前」──学会員が他宗の本部に連れ込まれ、木刀や出刃包丁で脅された。これも学会員が被害者だった。そして「1年3ヶ月前」に起きた蓮華寺住職と男子部員の”問答”も、併せて「事件」になった。

 

 しかも大阪府警はわざわざ捜査本部まで立ち上げて一斉に逮捕したのである。そして新聞は「暴力宗教」と書き立てた。府警の警備部長は聖教新聞の取材に対し、あくまでも「個々の事件」を扱ったにすぎない、学会を対象にした捜査本部ではないと釈明したが、明らかに狙い撃ちだった。


  「阿闍梨様と呼べ」 ③


 崎尾は事情に疎い学会員に「学会を離れて寺につけば、特別な御本尊を下付する」と迫り、学会の切り崩しを図った。つまり、御本尊まで攻撃の道具にしたのである。デマを書いたビラも配り始めた。「僧俗和合」という大義の下、一住職の暴走にどう対処するか。戸田は青年部の中でも、ことに池田を渉外戦の先頭に立たせた。


 2月17日の日記。「午後、会長室へ。R寺問題で、私が先生より、厳しく叱られる。何時でも、私が、叱られてしまう。理事長や、理事は、あまり叱られぬ・・・・。思うように敢然と指揮がとれれば、やりいいのだが・・・・・。進退窮まれる立場なり・・・・・大阪関係に電話連絡ををする」。

 池田は青年部の代表とともに蓮華寺を訪れ、崎尾との直接対決にも臨んだ。やがて宗門は、常軌を逸した崎尾を処分した。戸田が宣言した新寺院も4月に完成。崎尾は後年、離宗していく。


 この事件の渦中、大阪の男子部員三人が路上で崎尾を見かけ、話し合いを求めたことがあった。やはり崎尾は聞く耳を持たず、まともに答えないままバスに乗ろうとした。男子部員が崎尾の袖を引っ張り、まだ話は終わっていないと言った。

 崎尾はこの揉み合いを理由に、傷害容疑で曽根崎署に告訴した。男子部の一人が取調べを受けたが、何の問題もならなかった。

 年も越して、崎尾が起こした一連の騒ぎは、ようやく収まったかに見えた。しかし、この一住職が巻き起こした騒動が、1年3ヶ月も経ってから蒸し返されたのである。

  「阿闍梨様と呼べ」 ②


 このまま放置すると関西の布教が遅れてしまうと判断した戸田城聖は、関西の第八布教区の僧たちと話し合いの場を持った。崎尾だけが欠席した。その場で戸田は、蓮華寺の代わりになる新寺院を建てることを告げた(1955年1月24日)。

 3日後、大阪支部幹事だった大井満利は、崎尾から一通の書簡を受け取った。大阪支部長の白木義一郎宛てである。

 主に三つのことが書かれていた。信じがたい内容だった。


 1、今後、学会員の紹介による御本尊の授与、法事は一切しない。

 1、学会員は全員、信徒名簿から削除する。

 1、これまで授与した御本尊をすべて返せ。


 本山に相談せず、崎尾が独断で決めたものである。特に三番目がひどかった。1952年(昭和27年)に白木が関西に来てから、蓮華寺で授与した御本尊の数は、じつに3000を超えていた。

 関西創価学会が、組織として初めて直面した難題だった。戸田はこの事件を、青年部を鍛える機会にした。

 「6時、臨時幹部会・・・・・R寺問題に付き、集合」(1955年2月4日の池田の日記)。北海道から九州まで、青年部が手分けして宗門の77ヶ寺を訪問。蓮華寺に対する意見を聴いた。池田は戸田に随行して仙台に向かっている。(同)、「疲労重なる、疲れてるこの姿」(同)「(仙台駅で)多数の人々が、出迎えに来ていた、非常に寒し。胸が痛み困る」(同2月5日)。