「阿闍梨様と呼べ」 ②
このまま放置すると関西の布教が遅れてしまうと判断した戸田城聖は、関西の第八布教区の僧たちと話し合いの場を持った。崎尾だけが欠席した。その場で戸田は、蓮華寺の代わりになる新寺院を建てることを告げた(1955年1月24日)。
3日後、大阪支部幹事だった大井満利は、崎尾から一通の書簡を受け取った。大阪支部長の白木義一郎宛てである。
主に三つのことが書かれていた。信じがたい内容だった。
1、今後、学会員の紹介による御本尊の授与、法事は一切しない。
1、学会員は全員、信徒名簿から削除する。
1、これまで授与した御本尊をすべて返せ。
本山に相談せず、崎尾が独断で決めたものである。特に三番目がひどかった。1952年(昭和27年)に白木が関西に来てから、蓮華寺で授与した御本尊の数は、じつに3000を超えていた。
関西創価学会が、組織として初めて直面した難題だった。戸田はこの事件を、青年部を鍛える機会にした。
「6時、臨時幹部会・・・・・R寺問題に付き、集合」(1955年2月4日の池田の日記)。北海道から九州まで、青年部が手分けして宗門の77ヶ寺を訪問。蓮華寺に対する意見を聴いた。池田は戸田に随行して仙台に向かっている。(同)、「疲労重なる、疲れてるこの姿」(同)「(仙台駅で)多数の人々が、出迎えに来ていた、非常に寒し。胸が痛み困る」(同2月5日)。