EIKOの気まぐれ闘病日記 -115ページ目

EIKOの気まぐれ闘病日記

このブログは、日蓮仏法の信心を根本に、双極性気分障害と闘うEIKOのブログです。日々の出来事や家族のこと、創価学会や池田名誉会長のことを書いていきます。
いきなりのアメンバー申請はお断りしています。

  皆さん、いつもありがとうございます。m(__)m


明日は月に一度の診察日なので、連載を1,2回お


休みすると思いますのでよろしくお願いします。m(__)m


ペタ返しのほうも遅れると思います。


病院が近ければよいのですが、中々相性のいい医


師に出会うのは、中々難しいのです。


今の担当医とは10数年のお付き合いで、私が診察


室に入ってきた様子でだいたい、調子の良し悪しが


わかるそうです。


東京の街を歩いただけで、とても気分転換になるの


も、病院を変えられない理由の一つになっていま


す。


なるべく早くペタに伺って、連載を再開しますので待


っててくださいね!

  私も一緒に祈ります ①


 同じころ、「すごい人が来てるで」と聞き、関西本部で池田が戻るのを待ち続けた婦人部員がいた。生野区の河本スミである。

 1955年(昭和30)年に入会した。夫が失業し、夫婦喧嘩が絶えない。長男の家出と借金も重なり、一家葉八人は貧乏のどん底に突き落とされた。めぼしい家財道具や着物を売って米代にした。少女時代から何不自由なく育った。初めて働きに出た。信仰に関しては家族の中で孤立無援だった。


 夜も更けてから、ようやく池田が関西本部に戻ってきた。初対面である。

「『こんばんは、どうされたんですか』とやさしく聞かれ、私は『信心は真面目にやっていますが、どんどん悪くなっています』と一切を打ち明けた。先生は、1日戦いきった後で、さぞお疲れのことであったろう。しかし、じっと私の話を聞いてくださった」(河本の手記)。


 池田は「信心ではあなたが家族の中心者です。反対されるだろうけど、信心だけはやめてはいけません」と励ました。「私もあなたと一緒に祈りましょう。勇気を出して信行学の仏道修行をやりきるのですよ。私も御本尊に祈ってあげます」。


 帰り際、池田は河本に子どもは何人いるのかと尋ねた。

「『5人おります』と言うと、のり巻きのおかきを白い大きな紙に包んでいただいた」。河本はその場で泣き崩れた。夜遅くに押しかけ、非常識を承知で悩みを聞いてもらい、ここまで温かくされるなど思ってもいなかった。

「泣かなくていいよ。信心さえ続けていくならば、必ずや、喜ぶ時が来るんだから」という池田の言葉を抱きしめて、近鉄の最終電車に乗った。

「夜更けの道を歩きながら、涙があふれ出てしかたありませんでした」。


 それからの日々は「以前にも増してつらい事はあったが、私の心はあの富士のようにどっしりとして微動だにしなかった」。やがて反対していた夫も信心を始め、前よりいい会社に勤めた。後年、90人ほどが入れる個人会館を建てることもできた。河本は「一人の偉大な人間との出会いが、人生を大きく変える事を実感できた」と綴っている。

  「をづる事なかれ」 ③


 隣人に学会員がいた。長屋の管理人は学会嫌いで、長屋に訪れる学会員を罵り、学会と関係のない来訪者まで学会員だと思い込み、トラブルを起こすほどだった。

 中村の家にも学会員が訪れた。散々反対して追い返した。

「ただ、西川さんという婦人部のおばあちゃんが口にしていた『100日、三年、七年の坂』という言葉が心に残りました」。


 日蓮の言葉に「百日・1年・三年・七年が内に」という一節がある(種種御振舞御書)。仏法の力用(りきゆう)が現れる節目として、100日や1年、三年、七年を目指し、学会活動に励む人が多かった。

 先に触れたように、ちょうどマスコミが学会に対して「暴力宗教」キャンペーンを張っていた時である。千恵子は反発しながらも「あの信仰で苦しい坂が越えられるのか」と心を惹かれていた。

「もし学会に入ったら、父母はどれだけ反対するだろう。二度と郷里に帰れないと思った。それほど世間の学会批判はひどかったのです、学会に入るのは当時の私にとって『死』にも匹敵する決断でした」。


 もともとの生活苦に加えて、子どもの病気、乳腺炎の手術の失敗が重なった。

「どうしようもなくなった時、西川のおばあちゃんが私の心を扉を開いてくれた」という。

 ある日、千恵子は西川に「今さら私が信心したいと知ったら、学会の人たちはきっと手をたたいて笑うでしょうね」と自嘲を込めてつぶやいた。

「私の言葉を聞いた西川のおばあちゃんは、『誰が笑うものですか。あなたさえ幸せになったら・・・・・』と言ったきり、ポロポロと涙を落としたのです。そして汚れたエプロンで涙を拭いて『三年や七年は、すぐですよ』と言って、泣きながら笑ってくれました」。


 5月25日、千恵子は信心を始めた。夫の康弘もすぐ続いた。池田が巻き起こした「1万111世帯」のうちの1世帯であることを、後年知った。

「私たちはこぼれ落ちそうな1世帯ですよ」と千恵子は笑う。これまで弘教した数は、夫婦で40世帯を超えた。

  「をづる事なかれ」 ②


 4月はさらに激増して、9000世帯を超えた。この月、二番手だった蒲田支部の成果は三千数百世帯である。

「大阪の折伏、断然、群を抜いてゆく。楽し。上げ潮の関西」(同4月11日)。

 そして5月。マスコミが一斉に「暴力宗教」と騒ぎ立てた。まさにその5月、大阪支部は「1万1111世帯」という未曾有の結果を出したのである。1515世帯の堺支部と合わせると、学会全体の弘教の、じつに四割を超えていた。

 

 マスコミが報じたような「暴力で脅す宗教」なら、とても成し遂げることのできない成果だった。

「あのとき警察とマスコミに負けて、4月と似たような成果だったら失速していたかもしれません。ものの見事にはね返された先生の気迫が、『大阪の戦い』の勝利に結びついたと思います」(栗原)。


 経験したことのない逆境の中で生まれた「1万111世帯」には、同じ数だけのドラマがあった。

 中村千恵子(住之江区、婦人部副本部長)は和歌山で生まれた。1955年(昭和30年)、結婚を機に大阪に出てきた。マッチ箱のような五軒長屋に住んだ。

 夫の康弘(同、副本部長)はトラックで兵庫の姫路まで3時間かけて材木を運んでいた。お人好しで、人に騙され、大きな借金を背負った。

「真面目さが災いして、夫婦がお互いに信頼して手をつないだまま、底なし沼にはまりこんだような生活でした」と振り返る。大阪に出て1年後、娘が生まれた。

「生後6日目のわが子を抱いて長屋の玄関に立った時、懐には50円しか残っていませんでした。義理も人情もこの大阪では通用しないと感じて、泣くにも泣けない気持ちでした」。

  「をづる事なかれ」 ①


 新聞が一斉に「暴力宗教」と報じた5月15日の夜。大阪市内で戸田の御書講義が行われた。

「一年も前の事件を蒸しかえして、いかにも私たちが悪いように見せかけている・・・・・難といえばまさに難であります」。戸田の舌鋒は鋭かった。

「いつ、どこで、私たちが暴力をふるって信仰をするばかが今時ひとりでもいたが私はお目にかかりたい。みな、すでに決着がついている問題です。しかも、相手が悪いことまで反対に書く新聞こそ、まさに暴力ではないか」


 その2日後の早朝講義。

「不安を抱えたままだった私たちに対して池田先生が引かれた御書が、『大阪の戦い』の中で一番印象に残っています」と栗原明子は語る。

 それは「聖人御難事」の一節だった。日蓮の晩年、弟子たちが「熱原の法難」と呼ばれる大弾圧を受けた。その最中に綴られた手紙である。

「各各(おのおの)獅子王の心を取り出して・いかに人をどすとも をづる事なかれ、獅子王は百獣(ひゃくじゅう)にをぢず・獅子の子・又かくのごとし」──獅子王の心を奮い起こし、どれだけ人が脅そうとも、決して恐れてはならない。獅子王は百獣を恐れない。獅子の子もまた同じである──。


 もう『これしかない!』という一節でした。あの先生の声で、幹部の間にあった怯えた空気が切り裂かれました」(栗原)。

 ──この年、池田の御書講義を皮切りに始まった大阪支部の弘教は、1月の3389世帯に続き、2月も3986世帯。3月は5000世帯の大台に乗った。

「幾度も、大阪へ行く事になる。大阪の人々と、心から仲良くしたい。嬉しい事だ。信実の同志、大阪よ、と呼びたい」(3月24日の池田の日記)。