「をづる事なかれ」 ③
隣人に学会員がいた。長屋の管理人は学会嫌いで、長屋に訪れる学会員を罵り、学会と関係のない来訪者まで学会員だと思い込み、トラブルを起こすほどだった。
中村の家にも学会員が訪れた。散々反対して追い返した。
「ただ、西川さんという婦人部のおばあちゃんが口にしていた『100日、三年、七年の坂』という言葉が心に残りました」。
日蓮の言葉に「百日・1年・三年・七年が内に」という一節がある(種種御振舞御書)。仏法の力用(りきゆう)が現れる節目として、100日や1年、三年、七年を目指し、学会活動に励む人が多かった。
先に触れたように、ちょうどマスコミが学会に対して「暴力宗教」キャンペーンを張っていた時である。千恵子は反発しながらも「あの信仰で苦しい坂が越えられるのか」と心を惹かれていた。
「もし学会に入ったら、父母はどれだけ反対するだろう。二度と郷里に帰れないと思った。それほど世間の学会批判はひどかったのです、学会に入るのは当時の私にとって『死』にも匹敵する決断でした」。
もともとの生活苦に加えて、子どもの病気、乳腺炎の手術の失敗が重なった。
「どうしようもなくなった時、西川のおばあちゃんが私の心を扉を開いてくれた」という。
ある日、千恵子は西川に「今さら私が信心したいと知ったら、学会の人たちはきっと手をたたいて笑うでしょうね」と自嘲を込めてつぶやいた。
「私の言葉を聞いた西川のおばあちゃんは、『誰が笑うものですか。あなたさえ幸せになったら・・・・・』と言ったきり、ポロポロと涙を落としたのです。そして汚れたエプロンで涙を拭いて『三年や七年は、すぐですよ』と言って、泣きながら笑ってくれました」。
5月25日、千恵子は信心を始めた。夫の康弘もすぐ続いた。池田が巻き起こした「1万111世帯」のうちの1世帯であることを、後年知った。
「私たちはこぼれ落ちそうな1世帯ですよ」と千恵子は笑う。これまで弘教した数は、夫婦で40世帯を超えた。